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イギリスの東洋学者 ウィキペディアから
トーマス・ウィリアム・リス・デイヴィッズ(英語: Thomas William Rhys Davids、1843年5月12日 - 1922年12月27日)は、イギリスの東洋学者。パーリ語と上座部仏教の研究で知られる。
リス・デイヴィッズは会衆派教会の教職者トーマス・ウィリアム・デイヴィッズの長男としてコルチェスターで生まれた[1]。ブレスラウ大学に入学し、アドルフ・フリードリヒ・シュテンツラーにサンスクリットを学んだ。1866年[2]に文官としてイギリス領セイロンに赴任し、そこでパーリ語と仏教を学んだ。しかし、在任中に現地人の権利をめぐって上司と対立し、辞任して帰国[3]。
イギリスに帰国後、1877年にはミドル・テンプルの弁護士になったが、実際に弁護士として働くことはせず、仏教研究に専念した。
1881年、パーリ聖典協会を設立した[4]。協会では各地に保存されているパーリ語聖典写本をラテン文字に翻字して出版し、その量はリス・デイヴィッズの没したときまでに25,000ページに達した[5]。
1882年から1912年まで、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの名誉教授であった。1888年から1904年まで、王立アジア協会の書記および司書をつとめた[6]。またイギリス学士院の創立時からのフェロー(FBA)に選出されていた[7]。その研究は国内外から評価され、数多くの栄誉博士号を贈られた[8]。
1904年にマンチェスター大学の比較宗教学の教授に就任し、後進の育成に努めた。1915年に退官し、その後はサリーのチップステッドに住み、パーリ語辞典の編纂に専念した。その成果は、パーリ聖典協会から第1巻が1921年、第2巻が1922年、最終巻は没後の1925年に出版された(William Stede と共著)。
フリードリヒ・マックス・ミュラーの東方聖典叢書のために、パーリ語の経の一部、律(ヘルマン・オルデンベルクと共著・3巻)、およびミリンダ王の問い(2巻)を翻訳した。
パーリ聖典協会のために長部の本文(3巻)とブッダゴーサによる注を出版した(J・E・カーペンターと共著)。また妻とともに長部を翻訳した(3巻)。
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