Remove ads
艦 ウィキペディアから
ラングレー (英語: USS Langley, CV-1/AV-3) は[5]、アメリカ海軍が保有した最初の航空母艦[6][7]。 就役時はプロテウス級給炭艦ジュピター (英語: USS Jupiter, AC-3) であった[8][注釈 1]。 1920年(大正9年)3月から航空母艦に改造され、1922年(大正11年)3月に再就役した[10][注釈 2]。 艦名はサミュエル・ラングレー博士にちなむ[12]。最大速力15ノット程度の本艦は低速のため戦艦や巡洋艦の艦隊行動に追従できず、単艦での行動や、練習空母として用いられた[13][注釈 3]。
艦歴 | ||
---|---|---|
ジュピター | ラングレー | |
発注 | 不明 | 1919年7月11日 |
起工/ 改修 | 1911年10月18日 | |
進水/ 改名 | 1912年8月14日 | 1920年4月11日 |
就役 | 1913年4月7日 | 1922年3月20日[1] |
退役/ 喪失 | 1920年3月24日 | 1942年2月27日[1] |
その後 | 空母へ改修 | 日本軍に破壊され 自沈処分[2] |
性能諸元 | ||
排水量 | 19,360 トン | 11,500(基準)[1]/15,150(満載) トン[3] |
全長 | 542ft(165.2m) | 542ft(165.3m[1]) |
全幅 | 65ft(19.81m) | 65ft(19.81m) |
吃水 | 27ft8in(8.43m) | 18ft11in(5.76m) |
最大速 | 15 ノット[1] | 15.5 ノット[4] |
乗員 | 士官、兵員163名 | 士官、兵員468名 |
兵装 | 4インチ砲4基 | 5インチ砲4基 |
搭載機 | 無し | 約30機 |
次級 | レキシントン級 |
旧式化と新世代空母の就役により空母としての役目を終え、飛行甲板の前方部分を撤去し[15]、1937年(昭和12年)初頭から水上機母艦として活動した[16][注釈 4]。また艦後部に残った飛行甲板を活用し、航空機輸送艦としても運用された[18]。 太平洋戦争開戦時は合衆国アジア艦隊に所属しており[19]、日本軍の比島侵攻を避けて僚艦と共にフィリピンからオーストラリアへ脱出した[20]。 蘭印作戦にともないP-40戦闘機輸送任務のためジャワ島にむけインド洋を北上中、1942年(昭和17年)2月27日に同島チラチャップ南方で一式陸上攻撃機の爆撃を受けて大破[1]、随伴の駆逐艦に雷撃処分された[21]。
ジュピターはカリフォルニア州ヴァレーオのメア・アイランド海軍造船所で建造された[注釈 5]。 1911年10月18日、起工。1912年8月14日に進水してトーマス・F・ルウム夫人により命名され、1913年4月7日に初代艦長ジョーゼフ・M・リーヴスの指揮下就役した。
試験航海後、アメリカ海軍初の電気推進船[23]であるジュピターはカリフォルニア州サンフランシスコで海兵隊の分隊を乗艦させ、ベラクルス危機で緊張した時期の1914年4月27日に、メキシコのシナロア州マサトランで太平洋艦隊に報告を行った。ジュピターは太平洋岸に留まり、10月10日にペンシルベニア州フィラデルフィアに向けて出航した。途中コロンブス・デーにパナマ運河で記念の汽笛を上げる。ジュピターは西から東へパナマ運河を通過した最初の艦であった。
アメリカ合衆国の第一次世界大戦への参戦に先立って、ジュピターは大西洋艦隊遠洋部隊に所属し大西洋およびメキシコ湾を巡航した。1917年4月6日にバージニア州ノーフォークに到着し、海軍海外輸送部隊 (Naval Overseas Transport Service, NOTS) に配属される。同17年6月および1918年11月にフランスへの貨物輸送を行い、その間給炭任務は中断された。1919年(大正8年)1月1日、ジブラルタルで在泊中に、日本海軍の第二特務艦隊の将兵が本艦を見学している[24][注釈 6]。1月23日にノーフォークに帰還し、その後3月8日にフランスのブレストに向かいヨーロッパ水域で給炭任務に従事する。8月17日にノーフォークに帰還し、西海岸へ移動、空母への改装が同年7月11日に承認された。12月12日にハンプトン・ローズへ移動し、1920年3月24日退役。
1910年(明治43年)11月14日、アメリカ海軍はチェスター級軽巡洋艦のバーミンガム (USS Birmingham, CL-2) に仮設飛行甲板を設置し、ユージン・バートン・イーリーが操縦するカーチス モデルDにより、発艦に成功した[28][29]。翌年1月18日には、装甲巡洋艦のペンシルベニア (USS Pennsylvania, ACR-4) 後部に飛行甲板を設置し、発着艦にも成功した[30][注釈 7]。 この後、アメリカ海軍はたびたび実験をおこなったが、当時の航空機を洋上で安定的に運用するのは無理という結論になり、艦艇への搭載は見送られた[31]。1914年(大正3年)4月以降、水上機を搭載した巡洋艦が出現したが、これらは「飛行甲板」を持った空母ではない[31]。
この後に勃発した第一次世界大戦では、航空機が劇的な進化を遂げた[32]。 イギリス海軍は大型軽巡洋艦を改造し[16][33]、1917年(大正6年)3月にフューリアス (HMS Furious, 47) を完成させた[34]。つづいて大型貨客船を改造し[35]、1918年(大正7年)9月に空母アーガス (HMS Argus, I49) を送り出す[36][37]。アーガスに刺激されるように、列強各国は航空母艦の建造に乗り出している[38][注釈 8]。 アメリカ海軍もイギリス海軍から技術提供をうけ、航空母艦の構想を具体化してゆく[42]。イギリス造船官が提案した初期の空母案は「対艦用の6インチ砲と魚雷発射管、対空兵装として4インチ高角砲4門、速力30-35ノットの速度性能、軽巡洋艦程度の防御力」であった[43]。つづいて全長250m、排水量2万4000トン~3万トン級大型空母の構想をすすめるが、予算不足と大型艦建造可能な造船所の問題も絡んで棚上げされた[43]。とりあえず既存艦を航空母艦に改造して艦隊に配備することになり、1919年(大正8年)6月に給炭艦ジュピターの改造が決定した[44]。
ジュピターは海上で航空機を運用するという新たな考えの実験のため、1920年(大正9年)ノーフォーク海軍工廠でアメリカ海軍初の航空母艦に改装された[45]。上部構造物を撤去し、両舷にまたがる支柱をもうけ、その上に船体の全長にわたる飛行甲板を設置した[46]。ラングレーの飛行甲板は長方形(全長159.4m×幅19.8m)であり[47]、前端と後端は船体からはみ出している[7][48]。この点で、船体の上甲板平面形状と飛行甲板の形状が一致していたアーガスと異なっていた[49]。 ラングレーは再就役時より、飛行甲板の両側にカタパルトを装備していた[50]。これは水上機射出用のAMk-I型(のちにIII型に更新)で[51]、1928年(昭和3年)に撤去された[52]。 無線用マストは、飛行甲板中央部に起倒式のものを装備していた[43]。着艦制動装置はイギリスから輸入した縦索式であったが[52]、着艦事故が多発して1929年(昭和14年)に横索式に改められた[53][注釈 9]。 水上艦との交戦を想定し、空母改造時のアメリカ海軍戦艦が標準的に装備していた5インチ51口径砲を4門搭載したが、実用的でないため撤去された[54]。
また昇降式艦橋だったアーガスに対し[55]、ラングレーは飛行甲板と船体前方の隙間に艦橋を設けている[56]。これは給炭艦時代の艦橋をそのまま使用したのである[1][43]。日本海軍の軽空母と同様の、いわゆるフラッシュデッキ[57](全通式平甲板)であった[58][注釈 10]が、傾斜がかかっており、後に格納庫甲板に転用された際には問題になった[1]。
6ヵ所あった石炭槽のうち4つが航空機格納庫に転用され、飛行甲板の中央部にエレベーターが設けられた[60][注釈 11]。 格納庫から飛行甲板に飛行機を移動するためには、飛行甲板下部のクレーンでエレベーターの区画まで運び、そこから飛行甲板にエレベーターで上げる[47]。エレベーターは給炭艦時代のものを転用し、縦13.7m×幅11m、最大運用可能荷重4.5トンであった[47]。格納庫開口部に、水上偵察機揚収用のクレーン2基が設置されている[52]。 フラッシュデッキ型空母ながら密閉式格納庫だった同世代の小型空母鳳翔[62]と異なり、ラングレーはいわゆる「開放式格納庫」であった[63]。 搭載機は約30機であったという[注釈 12]。48機という資料もある[65]。
排煙処理方式と煙突の形状は、竣工時から幾度か改良された[66]。竣工時、船体後部舷側に固定式直立煙突をもうけていたが、排煙の気流で発着艦に支障をきたした[52]。湾曲煙突に変更した時期もあったが[67]。最終的に1925年に起倒式の直立煙突2本となった[1][52]。船体の中央からやや後ろより、左舷側に細い煙突が2本たっている[56]。ターボ電気推進機関、二軸推進艦で、通常6,500馬力/過負荷7,142馬力、最大速度15.5ノットで、空母として物足りない性能であった[47]。
1920年(大正9年)4月11日、天文学者であり航空学のパイオニアでもあるサミュエル・ラングレー[68]の名に因みラングレーと改名され、CV-1(航空母艦)に艦種変更される[45]。ラングレーは1922年(大正11年)3月20日(3月22日とも)[47]にケネス・ホィッティング艦長の指揮下再就役する。アメリカ海軍初の航空母艦が「ラングレー」と命名されたのは、オーヴィル・ライトと合衆国政府の対立の一端が現れたものであった[45]。
アメリカ海軍初の航空母艦として、ラングレーは数多くの重要な出来事の現場となった。竣工後の10月17日にバージル・C・グリフィン中尉は最初の飛行機、ヴォート VE-7を操縦し発艦した。飛行機が船から発艦したことおよび飛行甲板を装備した艦はラングレーが初めてではなかったが、グリフィン中尉の発艦はアメリカ海軍の記念碑的出来事であった。10月26日、ゴッドフリー・シャヴァリア少佐はエアロマーリン 39で最初の着艦を行った[47]。11月18日にホィッティング艦長が発艦を行い、空母艦上からカタパルトで発艦を行った初の飛行家となった。
1923年(大正12年)1月15日までカリブ海で着艦試験を行った。6月にワシントンD.C.へ向かい、ラングレーは軍の高官および市民の目前でデモンストレーションを行った。6月13日にノーフォークに帰還し、同年末まで大西洋岸およびカリブ海で訓練に従事した。1924年(大正13年)に入るとラングレーはより多くの演習および展示会に参加し、夏にはノーフォークで修理および改装が行われた。同年末には西海岸へ向かい、11月29日にサンディエゴに到着し太平洋戦闘艦隊に加わる。1925年(大正14年)4月、カタパルトで雷撃機の射出実験をおこなう[69]。ワシントン海軍軍縮条約により巡洋戦艦を改造したレキシントン級航空母艦2隻(レキシントン、サラトガ)が竣工すると[14][16]、ラングレーは空母運用の実験や訓練任務に従事するようになった[69]。その後、カリフォルニア沖およびハワイで実験、パイロット訓練、艦隊演習などに従事した。ラングレーで訓練されたパイロットは、レキシントン級2隻で重要な役割を果たした。
アメリカ海軍通算4番目の空母レンジャー(USS Ranger, CV-4)やヨークタウン級航空母艦の配備や建造がはじまると[70][71]、原始的な航空艤装と低速のラングレーは空母としての役目を終えた[18]。ラングレーはワシントン海軍軍縮条約で「空母試作艦艇」として条約制限外艦艇として扱われていたが、第二次ロンドン海軍軍縮会議の予備交渉でアメリカ側が作戦用空母として条約制限排水量内に含めることに同意したこと[1]、および代艦として空母ワスプ (USS Wasp, CV-7) を第一次ヴィンソン計画枠内で建造することになり、空母からの転籍が決まった[52]。 1936年(昭和11年)10月25日、ラングレーはカリフォルニア州のメア・アイランド海軍工廠でオーバーホール及び水上機母艦への改修が行われた。前部飛行甲板が撤去されて艦橋用上部構造物が増設され[1]、飛行機発進能力を失った[52]。100メートルほど残った後部飛行甲板は、飛行機の搭載に用いられた[72]。
ラングレーは1937年(昭和12年)2月26日に改修が完了し、4月11日にAV-3(水上機母艦)へ艦種変更された。航空機偵察部隊に配属され、ワシントン州シアトル、アラスカ州シトカ、真珠湾、サンディエゴで作戦活動を行う。1939年(昭和14年)2月1日から7月10日まで大西洋艦隊での任務で展開し、その後太平洋艦隊に配属され9月24日マニラに到着。後にアメリカ合衆国アジア艦隊に配置換えとなり、水上機母艦チャイルズ (USS Childs,DD-241)、プレストン (USS William B. Preston,DD-344)、ヘロン(USS Heron,AM-10) と共に[73][19]、飛行艇と水上機からなる飛行偵察部隊の支援活動に従事した[72][74]。
1941年(昭和16年)12月7日(日本時間12月8日)の真珠湾攻撃により太平洋戦争が勃発したとき、ラングレーはルソン島のカヴィテに停泊していた[75][注釈 13]。開戦初日、比島作戦によりルソン島マニラ周辺を攻撃した日本軍はB-17とその飛行場を集中的に襲ったので[79][80]、マニラの連合軍艦船は特に被害を受けなかった。12月9日、第十一航空艦隊は飛行場攻撃とマニラ港内およびキャビテ軍港の艦艇を攻撃しようとしたが、濃霧のため出撃できなかった[81]。
ラングレーはアジア艦隊旗艦の重巡洋艦ヒューストン (USS Houston, CA-30) 、軽巡洋艦ボイシ (USS Boise, CL-47) をはじめとする主だった艦艇と共にフィリピンを抜け出してジャワ島に向かった[20]
ラングレーはボルネオ東部のバリクパパン、セレベス島マカッサル、ジャワ島スラバヤを経由してオーストラリアに向かい、1942年(昭和17年)1月初旬に同大陸ポートダーウィンに到着した[注釈 14]。 しばらくオーストラリア空軍の対潜哨戒に協力する。その後、日本軍に対抗してオランダ領東インドでABDA司令部(アーチボルド・ウェーヴェル大将)の下に結成されたアメリカ、イギリス、オランダ、オーストラリア4ヵ国のABDA艦隊(トーマス・C・ハート大将)に配属された。
南方作戦にともなう蘭印作戦において日本軍の進撃は留まる事を知らず、やがてジャワ島に対しても空襲が行われるようになった[83]。連合軍はホーカー ハリケーンやブリュスター バッファローで対抗したが、零式艦上戦闘機(日本海軍)や一式戦闘機(日本陸軍)の敵ではなかった[83]。連合軍は更なる戦闘機を欲し、インドに輸送途中のカーチス P-40を引き抜くことにした[84][85]。 ラングレーは元飛行甲板上に32機のカーチス P-40 を乗せ、33名のパイロットも乗艦した[85]。貨物船シーウィッチ (MS Sea Witch) も、P-40戦闘機 27機を梱包状態で搭載した[85]。2月12日、2隻はダーウィンを出発[86]、フリーマントルに向かった[82]。同地でセイロン島セイロン行きの MS-5 船団(護衛艦:軽巡フェニックス)に加わる[86]。2月22日、フリーマントルを出撃した[82]。翌23日、ジャワ島チラチャップ所在のコンラッド・ヘルフリッヒ中将[注釈 15]は、P-40 を大至急チラチャップへ輸送するよう命じた[86]。 軽巡フェニックス (USS Phoenix, CL-46) は船団護衛をつづけ、水上機母艦ラングレーと貨物船シーウィッチは護衛なしでジャワ島中部ジャワ州南岸部のチラチャップに向かった[注釈 16]。だが、低速の貨物船は次第にラングレーから離されていった[注釈 17]。
2月26日、第二空襲部隊(第二十三航空戦隊)の索敵機が、バリ島南方でフューリアスらしき特設航空母艦を発見した[注釈 18]。 2月27日早朝、ラングレーはジャワ島から出迎えに来た駆逐艦ホイップル (USS Whipple,DD-217) および駆逐艦エドサル (USS Edsall, DD-219) と合流した[89]。同日、バリ島265度368海里の地点で日本軍の索敵機がラングレーを発見した[90]。バリ島に進出していた高雄航空隊の一式陸上攻撃機17機[注釈 19]が攻撃に向かった[92]。魚雷や対艦用爆弾が到着していなかったため[89]、陸攻は陸用の250kg爆弾と60kg爆弾を搭載していた[93]。台南空所属の零戦は、九八式陸上偵察機に誘導されて先発した[21]。
ラングレーを護衛する戦闘機はなく、高角砲4門と40mm機関砲16門で一式陸攻を迎え撃った[94]。陸攻第二中隊(楠畑中隊)8機が高度5000mから投弾したが、命中しなかった[94]。続いて第一中隊(攻撃隊指揮官足立次郎大尉、足立中隊)が二度投弾をやりなおし、三度目で投弾した[94]。 11時54分から[95]の爆撃で、ラングレーは5発の命中弾(250kg爆弾2発、60kg爆弾3発)と3発の至近弾を受けた[94]。命中箇所は前部、左舷側のstack sponson、艦尾付近の飛行甲板およびエレベーター付近の飛行甲板左舷側に2発であった[96]。 瞬発信管のついた陸用爆弾の炸裂により、飛行甲板に並べていたP-40が炎上した[97]。艦尾への被弾では、舵が面舵の状態で動かなくなった[96]。最後に零戦 6機から機銃掃射を受けた[98]。ラングレーは左舷側に傾斜し、浸水のため機関は停止して航行不能となった[99]。随伴していたエドサルかホイップルのどちらかが「ラングレー敵爆撃機の爆撃を受けつつあり」と暗号を組まず平文で送信したため[100]、この通信を傍受した高雄航空隊は敵戦闘機を警戒して去っていった[97]。
高雄航空隊の攻撃が終わったあと、ラングレーは航行不能になっていた。駆逐艦によって曳航するとしても、チラチャップ港入り口の浅い水路を通過するためには浸水により沈みすぎていた[101]。火災の拡大は食い止められたものの、浸水は止められなかった[99]。転覆の恐れがあり、いつまた日本軍が現れるとも知れなかったため13時32分に至って艦の放棄が命じられ[101]、13時58分までにラングレー乗員は随伴艦2隻に収容された[102]。陸軍航空軍の人員も含めて乗艦していた484名のうち死者は7名、行方不明者は5名であった[101](16名が失われたとするもの[103]や、死者6名、行方不明者5名とするもの[104]もある)。ラングレー乗組員のうち177名がエドサルに、308名がホイップルに救助された。[要出典]
14時28分、ラングレーを処分するためホイップルは4インチ砲弾9発を撃ち込んだが効果は無かった[105]。ホイップルは14時32分に右舷艦尾付近に魚雷1本を撃ち込み[105]、14時45分には左舷側にもう1本魚雷を打撃ち込んだ[102]。これにより、ラングレーでは大規模な火災が発生したものの、まだ沈まなかった[105]。しかし、日本軍が再び現れる恐れがあることから、駆逐艦2隻はラングレーを残してその場を離れた[105]。同時夕方、オランダのPBY飛行艇が「ラングレーが沈没した」と報告している[105]。
救助されたラングレーの乗員は、駆逐艦から給油艦ペコス (USS Pecos, AO–6) に移動することになった[87][注釈 20]。 オーストラリアを出発した艦隊型給油艦のペコスは、インド洋へ向かう途中だった[107]。ペコスと駆逐艦2隻はクリスマス島に集結する[82]。3月1日、洋上でラングレーの生存者の移乗が行われた[107]。ところが同方面の連合軍艦艇は、ジャワ島南方で行動中の南雲機動部隊に捕捉される[108]。ペコスは第一航空戦隊(赤城、加賀)および空母蒼龍より飛来した九九式艦上爆撃機に撃沈され[109][110]、ラングレー乗組員も多数死亡した[87]。ホイップルは、ペコスとラングレーの生存者をオーストラリアへ送り届けた[111]。
3月31日のクリスマス島攻略作戦において[112]、クリスマス島に取り残されていたラングレー運用長が捕虜となり[注釈 21]、軽巡洋艦名取で連行されている[114]。
ラングレーを攻撃して致命傷を与えた高雄航空隊では、攻撃隊指揮官が「ラングレーを撃沈した」と報告した[97]。しかし参謀はこの報告を採用せず、「空母一隻撃破」という評価に留めた[97]。またラングレー被爆を伝える電文を傍受していた日本軍は、沈んだのがラングレーであると推測した[注釈 22]。またクリスマス島攻略作戦で捕虜にしたラングレー乗組員から、同艦の行動を知った。 ここで問題が生じた。日本軍は大本営発表で[115]、幾度か「ラングレーを撃沈した」と報道していた。最初は1941年(昭和16年)12月8日、開戦劈頭のフィリピン攻略戦で「ダバオ湾でラングレーを撃沈した。」と発表した[注釈 23]。 1942年(昭和17年)1月8日[117][118]、大本営は「わが軍の潜水艦(伊25)が太平洋のジョンストン島近海でラングレーを撃沈した」と報じた[119][注釈 24]。 日本海軍は伊25が撃沈した艦艇がラングレーでないことに気付いていたが[120]、結局、大本営発表では[121]、「特設航空母艦を大破炎上」と報じた[122][123][注釈 25]。 4月3日[106]、アメリカ海軍省はラングレーの沈没を公表した[125][注釈 26]。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.