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ラモン・ディアス
アルゼンチンのサッカー選手 ウィキペディアから
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ラモン・アンヘル・ディアス(Ramón Ángel Díaz, スペイン語発音: [raˈmon ˈaŋxel ˈdi.as]、1959年8月29日 - )は、アルゼンチン・ラ・リオハ州ラ・リオハ出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはフォワード。元アルゼンチン代表。
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選手時代経歴
要約
視点
初期経歴
父親はCAリーベル・プレートのファンで、リーベルのストライカーアンヘル・ラブルナにちなんで、アンヘルと名付けられた[1]。リーベルのユースを経て、1978年にトップに昇格、8月13日のCAコロン戦でデビュー[1]。1週間後のキルメスAC戦で初ゴールを挙げた[1]。1979年に初めてリーグ優勝を経験した[1]。リーベルでの4年間で、202試合で61得点を挙げた[1]。
1979年、U-20アルゼンチン代表の一員として出場したワールドユース選手権では、アルジェリア戦でハットトリック、準決勝のウルグアイ戦で1ゴール、決勝でも1ゴールを挙げ、大会得点王に輝いた[1]。最優秀選手に選ばれたディエゴ・マラドーナと共にチームを優勝に導く立役者となる。この活躍が認められ、翌1979年9月12日の西ドイツ戦でフル代表デビューを果たし、1980年12月16日スイス戦でフル代表初ゴールを決めた[2]。
1982年にはスペインで行われたワールドカップにも出場、ブラジル戦ではゴールを記録[1]。しかし、マラドーナの退場などによりこの試合に敗れ、チームは2次リーグで姿を消すこととなった。その後も、ヨーロッパの舞台で高いレベルのプレーを続けていたが、これがディアスの最後の代表戦となった[1]。代表の決定力不足が指摘され、ディアスの復帰要望が国民から出たこともあったが、結局復帰することはなかった。当時のアルゼンチン代表は、マラドーナを中心としたチームづくりを行っていたため、確執のあったディアスが外されたという説も根強いが、マラドーナは著書でそのことを否定、逆に1986年大会、1990年大会のメンバーに呼ぶべきだと代表監督に主張したとしている[3][4]。1990年のワールドカップメンバーに入れるか、カルロス・ビラルド監督が真剣に検討していたともされる[1]。
ヨーロッパでのプレー
1982年、オマール・シボリがSSCナポリの会長に獲得を勧めとこともあり、ナポリへ移籍した[1]。1982年9月26日USカタンザーロ戦でセリエA初ゴールを決めた[1]。イタリアでの初めてのシーズン年間38試合で8ゴールに終わるなど、いい結果を残せず、1983-84シーズンはUSアヴェッリーノに貸し出され[1]、マラドーナと入れ替わる様にナポリを離れた。アヴェッリーノでは、1985-86シーズンにリーグ戦のみで10ゴールを挙げたが[1]、チームの経済状態の悪さから、1986年、ACFフィオレンティーナに移籍することとなった[1]。そのシーズン、再びリーグ戦で二桁ゴールを挙げた[1]。
1988-89シーズン、インテルナツィオナーレ・ミラノに移籍、ローター・マテウス、アンドレアス・ブレーメらとともにプレー、特にアルド・セレーナと優れた関係性のツートップを形成した[1]。セレーナは得点王を、ディアス自身は12得点を決め[5] 、チーム8年ぶりのスクデット獲得に貢献[3]。しかし、十分活躍しながらも、翌シーズンからユルゲン・クリンスマンが加入することになると、チームから放出された[1]。
1989-90シーズン、フィオレンティーナが複帰へ向けて動いていたが、アーセン・ベンゲル率いるASモナコに移籍した[1]。9月22日のFCジロンダン・ボルドー戦で移籍後初ゴールを含む2ゴールを決めるなど[6]、15ゴールを決め、得点ランキング5位となった。1990-91シーズンのクープ・ドゥ・フランス決勝、オリンピック・マルセイユ戦では途中出場からジェラール・パシのゴールをアシスト[6]、1-0と破り優勝に貢献した[3]。
母国復帰
1991年からはアルゼンチンの古巣CAリーベル・プレートに復帰、20ゴールを決め、リーグ得点王を獲得し、リーグ優勝に貢献した。
Jリーグ横浜マリノスでの活躍
1993年にJリーグの横浜マリノスに加入。Jリーグ開幕戦となったヴェルディ川崎戦で決勝ゴールを決めた[7]。6月26日のジェフユナイテッド市原戦、6月30日の浦和レッドダイヤモンズ戦と、Jリーグで初めて2試合連続ハットトリックを決め、12月8日の横浜フリューゲルス戦でもハットトリックを決めるなど[8]、1シーズン目は特に木村和司との良い連携でゴールを量産[9]、32試合で28ゴールを挙げ、Jリーグ初代得点王、Jリーグベストイレブンに輝いた。2年目の1994年も主力として4月13日名古屋グランパスエイト戦でハットトリックを決めるなど、年間23ゴールを決める活躍をした。
1995年、ホルヘ・ソラーリ新監督と対立し、6試合に出場したのみでチームを退団、そのまま現役を引退することとなった[10]。4月12日の浦和レッドダイヤモンズ戦で決めたゴールは[11]、現役最後のゴールとなった。Jリーグでは在籍中、通算4回のハットトリックを達成した[8]。
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指導者経歴
引退後にはCAリーベル・プレートの監督に就任、エンソ・フランチェスコリ、アリエル・オルテガらと共にリーグ優勝だけでなく、1996年にリーベルに10年ぶりとなるコパ・リベルタドーレス優勝、1997年にはスーペルコパ・スダメリカーナ優勝をもたらした[3]。ホルヘ・ソラーリとはウマが合わなかったディアスだが、ホルヘの甥であるサンティアゴ・ソラーリをデビューさせた。
2014年12月4日、パラグアイ代表の監督に就任した[13]。2016年に就任したアル・ヒラルでは、国内リーグと国王杯で優勝、2017年のAFCチャンピオンズリーグではチームを決勝に導いたが決勝で浦和レッズに敗れた。
2020年11月6日、ボタフォゴFRの監督に就任。だが健康上の問題により、1試合も指揮を執ることなく11月27日に退任した[14]。
2021年、アル・ヒラルの監督に復帰。AFCチャンピオンズリーグ2022では決勝に進出するも、またも浦和に敗れ準優勝となり、直後に監督を解任された[15]。
2023年7月、ブラジルのCRヴァスコ・ダ・ガマの監督に就任した[16]。2024年4月に解任された。
2024年6月からはSCコリンチャンス・パウリスタの監督に就任した。2025年3月にはカンピオナート・パウリスタ優勝を果たしたが[17]、翌4月に解任された。
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人物
利き足の左足でのシュートを得意とし、ほとんどのゴールを左足で決めた[18]。
ディエゴ・マラドーナとの仲について、1993年のインタビューでは、「犬猿の仲と言われるが、あながち間違いではない、ただ、変に対抗意識を持っているのはマラドーナの方で、出来るだけ自分に会わないようにしていて、同じイタリアでプレーしていた時も挨拶すら交わしたことはなかった。自分はマラドーナに対して特に悪い感情を持っている訳ではない、自分とは比べられない程のスターであるのだから自分に対して対抗意識を持つ必要はないのだが。」と語っていた[19]。
個人成績
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代表歴
- アルゼンチン代表 1979-1982
- 1979年 - ワールドユース・日本大会 優勝
- 1980年 - コパ・デ・オーロ グループリーグ敗退
- 1982年 - ワールドカップ・スペイン大会 2次リーグ敗退
試合数
- 国際Aマッチ 22試合 10得点(1979年-1982年)[20]
タイトル
選手として
クラブ
- リーベル・プレート
- プリメーラ・ディビシオン : 1979M, 1979N, 1980M, 1981N, 1991-92A
- インテル・ミラノ
- セリエA : 1988-89
- モナコ
- クープ・ドゥ・フランス : 1990-91
代表
- U-20アルゼンチン代表
個人
- FIFAワールドユース選手権得点王 : 1979
- プリメーラ・ディビシオン得点王 : 1991-92A
- Jリーグ得点王 : 1993
- Jリーグベストイレブン : 1993
- Jリーグチェアマン感謝状 : 1995
指導者として
- リーベル・プレート
- プリメーラ・ディビシオン : 1996-97A, 1996-97C, 1997-98A, 1999-2000A, 2001-02C, 2013-14F, 2013-14SF
- コパ・リベルタドーレス : 1996
- スーペルコパ・スダメリカーナ : 1997
- サン・ロレンソ
- プリメーラ・ディビシオン : 2006-07C
- アル・ヒラル
- サウジ・プロフェッショナルリーグ : 2016-17
- サウジ国王杯 : 2017, 2022-23
- コリンチャンス
- カンピオナート・パウリスタ : 2025
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脚注
関連項目
外部リンク
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