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ボスニア・ヘルツェゴビナ国有鉄道IIIa5形蒸気機関車( ボスニア・ヘルツェゴビナこくゆうてつどうIIIa5がたじょうききかんしゃ) は、現在ではボスニア・ヘルツェゴビナとなっている共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナのボスニア・ヘルツェゴビナ国有鉄道 (Bosnisch-Herzegowinische Staatsbahnen(BHStB)、1908年以降Bosnisch-Herzegowinische Landesbahnen(BHLB))で使用された蒸気機関車である。
現在のボスニア・ヘルツェゴビナでは、オーストリア=ハンガリー二重帝国配下であった共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナ時代には、ブロド - ゼニツァ間に最初の軍用鉄道が敷設された以降、二重帝国ボスナ鉄道[1]、ボスニア・ヘルツェゴビナ国有鉄道、オーストリア=ハンガリー帝国軍用鉄道[2]などによって各地にボスニアゲージと呼ばれる760mm軌間の鉄道が建設されており、その後これらの路線のうち主要なものは、1895年にボスナ鉄道がボスニア・ヘルツェゴビナ国有鉄道に統合されたことなどにより同国鉄の路線となっていた。
ボスニア・ヘルツェゴビナ国有鉄道では、オーストリア=ハンガリー帝国本国で製造された機関車が使用されていたが、旧曲線の多い路線がほとんどであったため、曲線通過性能に配慮した機関車として双合式のIIa2形、先輪、従輪とテンダーにクローゼ式輪軸操舵機構を採用したIIa4形、動輪とテンダーにクローゼ式輪軸操舵機構を採用したIIIa4形などが導入されており、このほかネレトヴァ線[3]スプリト線のアプト式ラック区間用としてIIIb4形とIIIc5形が導入されていた。
本形式は1885-96年に二重帝国ボスナ鉄道およびボスニア・ヘルツェゴビナ国有鉄道に導入されたクローゼ式のIIIa4形の増備として導入された機体である。IIIa形は車軸配置C1'tのテンダ式蒸気機関車であり、クローゼ式輪軸操舵機構により曲線通過時には曲線によるテンダの変位量を基に第1および第3動輪がリンク機構によって曲線に合わせて転向することが特徴で、計34機が導入されてその使用実績は良好なものであった。そのため、欧州の他の地域の狭軌路線ではクローゼ式が普及せず[4]、1890-00年代以降にはより新しい方式であるマレー式やメイヤー式などの関節式や、より構造が単純なゲルスドルフ式の蒸気機関車が多く導入された一方で、ボスニア・ヘルツェゴビナ国有鉄道ではその後もさらにクローゼ式機構を採用した蒸気機関車が増備されており、IIIa4形を改良した機体としてIIIa5形の1次形45機が1900-01年に、さらに出力を増強した2次形11機が1901-04年に導入されている。IIIa5形のIIIa4形からの主な変更点と、1次形と2次形との主な変更は以下の通り。
IIIa5形はいずれもオーストリア=ハンガリー帝国の工場で製造されており、うち1箇所はIIIa4形の量産機を製造した工場と同じバイエルン王国に本社があったクラウス[5]のリンツ工場、残りの2箇所はヴァイツアー[6]およびマーバグ[7]であった。また、本形式の形式称号の"III"は動軸3軸、"a"は自重30t以下、"5"はテンダーを含む全軸数を表すものであったが、ユーゴスラビア国鉄時代の1933年の称号改正により、1次形が185形、2次形が186形となっている。この付番方法では蒸気機関車のうち、01-49形が標準軌のテンダ式、50-69形が標準軌のタンク式、70-94形が760mm軌間、95-98形が760mm軌間のラック式、99形が600mm軌間と分類され、経年の進んでいた機体にはこれらに100を加えた形式名とされていた。
その後ボスニア・ヘルツェゴビナ国鉄は1908年のボスニア・ヘルツェゴビナ併合にともなってオーストリア=ハンガリー帝国のボスニア・ヘルツェゴビナ地方鉄道に改称しているが、その後ボスニア・ヘルツェゴビナ地域は1914-18年の第一次世界大戦およびオーストリア=ハンガリー帝国の解体を経て1918年に成立したセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(1929年に国名をユーゴスラビア王国に変更)に属することとなったことに伴い、ボスニア・ヘルツェゴビナ地域鉄道の路線は同国国鉄であるセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国鉄道[8](1929年にユーゴスラビア国有鉄道[9] に名称変更)の路線となってIIIa5形も同国鉄の所有となった。これにより、本形式は引続きボスニア・ヘルツェゴビナ地方のほかセルビア、クロアチアの760mm軌間の路線でも運行されるようになり、1933年には前述のとおり称号改正が実施され、これ以前に廃車となった機体を除き、1次形が185形の001-041号機、2次形が186形の001-011号機となっている。
1941年にはクーデターやユーゴスラビア侵攻によりユーゴスラビア王国が実質的に崩壊し、ユーゴスラビア王国の鉄道はクロアチア独立国のクロアチア国鉄[10]やセルビア救国政府のセルビア国鉄[11]および占領していたドイツ、ハンガリー、イタリア、ブルガリア各国の国鉄が運行するようになったほか、パルチザンが運営する民族解放軍営鉄道[12]がその支配地域で運行されており、本形式は185形は1941年時点では全機がクロアチア国鉄が運行しており、186形はクロアチア国鉄、セルビア国鉄、イタリア国鉄のそれぞれが運行していた。
1945年にはユーゴスラビア連邦人民共和国が成立し、185形および186形は再度ユーゴスラビア国鉄の所属となり、その後1952年にはユーゴスラビア国鉄の後身としてユーゴスラビア鉄道[13]が発足しているほか、1963年には国名がユーゴスラビア社会主義連邦共和国に変更となっている。こうした流れの中でユーゴスラビア鉄道では鉄道の近代化の一環として760mm軌間のうち主要路線は標準軌に転換するともに、不要路線を廃止することとなり、1980年代までに760mm軌間の鉄道は全廃されている。
本形式の製造年ごとのボスニア・ヘルツェゴビナ国有鉄道(BHStB/BHLB)/セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国鉄道(SHS)機番、製造所、製番、ユーゴスラビア国鉄/ユーゴスラビア鉄道(JDŽ/JŽ)形式機番は下記のとおりである。
区分 | 製造年 | 機番(BHStB/BHLB/SHS) | 製造所 | 製番 | 形式機番(JDŽ/JŽ) |
---|---|---|---|---|---|
1次形 | 1900年 | 301-305 | クラウス(リンツ工場) | 4216-4220 | 185-001-002/-/003-004 |
309-311 | 4366-4368 | 185-009-011 | |||
306-308 | ヴァイツアー | 83-85 | 185-006-008 | ||
312-325 | 86-87/91-102 | 185-012-021/-/024-205 | |||
1901年 | 326-335 | クラウス(リンツ工場) | 4487-4492/4632-4635 | 185-026-035 | |
336-345 | ヴァイツアー | 103-112 | 185-036-041/022-023/-/003 | ||
2次形 | 1901年 | 801-806 | クラウス(リンツ工場) | 4650-4655 | 186-001-006 |
1902年 | 807 | 4656 | 186-007 | ||
1904年 | 808-811 | マーバグ | 808-811 | 186-008-011 | |
1次形
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2次形
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