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フランク・ジョンソン
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フランク・ハーバート・ジョンソン(Frank Herbert Johnson[1]、1942年7月22日 - 2025年5月7日[2])は、アメリカ合衆国・テキサス州エルパソ出身のプロ野球選手(三塁手、一塁手、外野手)。右投右打。
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来歴・人物
アメリカ合衆国のテキサス州エルパソで生まれ、ベルエア高校を経て、1961年から米マイナーリーグでプレー。
1966年にサンフランシスコ・ジャイアンツ傘下AAA級のフェニックス・ジャイアンツで打率.308、15本塁打を打って、初めてメジャーに昇格し、終盤の15試合に出場する。1968年は67試合に出場するも、投手優位の年であったこともあり、打率.190、1本塁打に終わる。1970年はAAA級フェニックスで打率.353を打つと、さらにメジャーでも67試合に出場し、打率.273、31打点のキャリアハイを記録した。
1972年春のキャンプでNPBのロッテオリオンズからジャイアンツに野球留学のために渡米していた浜浦徹に、ジャイアンツ首脳陣が目を付けてロッテに譲渡を打診する。ロッテ側は交換トレードなら応じると回答したことから、ジョンソン対浜浦の史上初となる日米間のトレードが成立した。当時は、日米間のトレードに関する取り決めがなかったことから、2選手を一度、自由契約とし改めて契約する形にしたという。なお、ジョンソンに関しては、どのような選手かロッテ側にほとんど情報がなかったとされる[3]。
ロッテでは、ヤクルトに放出したアルト・ロペスの後釜として期待されたが、パワー不足が目立った上に、肝心の打率も伸びず、打率.232、13本塁打の平凡な成績に終わり、1年で退団した[4]。
アメリカへ帰国後は、AAA級フェニックス・ジャイアンツやハワイ・アイランダーズでプレーし、1975年限りで引退した。
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詳細情報
年度別打撃成績
記録
- NPB
背番号
- 3 (1972年)
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脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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