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イギリスのロックミュージシャン ウィキペディアから
ピーター・フランプトン(Peter Frampton、1950年4月22日 - )は、イングランド出身のロックミュージシャン、シンガーソングライター、ギタリスト。
同国のロックバンド「ザ・ハード」「ハンブル・パイ」を経て、ソロに転向し大きな成功を収める。50年以上のキャリアを誇り、ギターボーカル先駆者の一人として認知されている[2]。
ロンドン出身。父オーウェン(1919〜2005)はブロムリー・テクニカル・ハイ・スクールの美術教師で、フランプトンも同校に進学し、オーウェンの生徒であった先輩デヴィッド・ボウイと親しくなってジャム・セッションに興じていた[3]。
1966年、アイドル・バンドのザ・ハード(名前の由来は、群集や聴衆)に参加。身長170cmと小柄ではあるものの、繊細な顔立ちの美少年であるが故にティーンエイジャーの人気者となり、1968年には「1968年の顔」ともてはやされるようになる(スコット・ウォーカーがレコーディング・スタジオに訪れたり、彼とは風貌が似ていたこともあって、ヤング・スコットと呼ばれたこともあった)。しかし、アイドル扱いに嫌気がさしたフランプトンは、スモール・フェイセスのスティーヴ・マリオット達と密かにミーティングを重ね、1969年2月にシングル「サンシャイン・コテージ」が発売されるや否やザ・ハードを脱退、時を同じくしてグループを脱退したマリオット達と「ハンブル・パイ」を結成する運びとなる。
二枚看板なはずのハンブル・パイだったが、アルバム毎にブルージーでソウルフルなマリオット色が濃くなり、アコースティックなサウンドに惹かれ始めていたフランプトンは、徐々に居場所を失っていく。1972年に、ハンブル・パイを円満に脱退し、フランプトンズ・キャメルを結成する。
その傍ら、ギタリストとしてジョージ・ハリスンやニルソンのアルバムに参加して腕を磨く。
1974年から精力的に草の根全米ツアーを始め、地道にファンを増やしていく。1976年、この努力が実を結び、先の全米ツアーを収録した2枚組のライブ・アルバム『フランプトン・カムズ・アライヴ! (Frampton Comes Alive!)』がアメリカのBillboard 200で1位[4]、全世界で1,000万枚を売り上げる驚異的な大ヒット作となる。「Show me the way」「君を求めて(Baby, I Love Your Way)」「Do You Feel Like We Do」の3作のシングルの大ヒットもあり、年間通してこのアルバムは莫大なセールスを記録した。この結果、ロック界ではライブ・アルバムがブームとなり、他のミュージシャン達もこぞってリリースした。
また、この作品の成功を機に、アメリカではアルバムのビッグセールス時代が始まったといわれる。
1977年にも「アイム・イン・ユー」などのヒットを放ち、ビージーズのギブ兄弟らと映画『サージェント・ペパーズ』(Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band)にも出演した。
1978年10月に来日。
1970年代は稀に見る大成功を収めるも、若さ故に経済観念が乏しく、業界の大人達に巧妙な手段で操られ、レコード印税やコンサート収益など殆どを搾取され、僅かな身銭のみとなってしまう。
1980年代に入ってからはセールスには恵まれなかったものの、コンスタントに作品をリリースし続けていた。1986年には、アルバム『Premonition』からのシングル「Lying」がビルボードのメインストリーム・ロック・チャートで最高位4位を記録し、久々のヒットとなる。1987年には、デヴィッド・ボウイのアルバム『ネヴァー・レット・ミー・ダウン』にギタリストとして全面的に参加し、その後のツアー「グラス・スパイダー・ツアー」にもギタリストとして帯同している。1988年には、中森明菜のアルバム『Femme Fatale』に、ゲスト・ギタリストとして参加。また、これ以外にも、スティーヴィー・ニックスのツアーにもギタリストとして参加している。
1990年代には小さなクラブ周りを続ける傍ら、スティーヴ・マリオットと再会し、共同でアルバムを作る計画を立てるが、その最中の1991年にマリオットの事故死(自宅火災による焼死)によって頓挫。1994年、生前のマリオットと共作した曲「Out of the Blue」を含むアルバム『ピーター・フランプトン (Peter Frampton)』を発表する。
1995年、『フランプトン・カムズ・アライヴ!』の続編に当たるライブ・アルバム『フランプトン・カムズ・アライヴII (Frampton Comes Alive II)』をリリース。この時期になると彼のギターは円熟味を増し、ギターレジェンドの一人に数えられるようになった。
2006年、多数のゲストを迎えてのインストゥルメンタル・アルバム『Fingerprints』を発表。フランプトンは同作で自身17年ぶりのBillboard 200入りを果たし[4]、ラリー・カールトンらをおさえて、2007年の第49回グラミー賞で最優秀ポップ・インストゥルメンタル・アルバムに選出される[5]。
2010年、4年ぶりのアルバム『サンキュー ミスター・チャーチル (Thank You Mr Churchill)』を発表。このアルバムには、北朝鮮拉致被害者の横田めぐみに捧げられた曲(「Asleep At The Wheel」と「Suite: Liberte の前半部分 Megumi」)が収められている[6]。
2016年、活動50周年を迎え、アルバム『Acoustic Classics』を発表。
2019年2月23日、米CBS放送のモーニング・ショー『This Morning』に出演し、自身が筋肉に慢性的な炎症/変性が生じ、筋力が徐々に低下する難病の封入体筋炎の診断を受けていること、病気の進行に伴って今後ギタープレイへの影響が懸念されるため、同年夏のツアーが最後となる旨を発表した[7]。同年6月7日、ブルースの楽曲を取り上げたカバー・アルバム『All Blues』を発表[8]。
2019年12月、北米に続いて2020年5月からヨーロッパでもフェアウェルツアーを行うことを発表していたが、2020年4月、新型コロナウイルスの影響で全公演の中止が発表された。
2024年4月21日、米国・Rock & Roll Hall Of Fameより、『2024年度ロックの殿堂 パフォーマー部門』での殿堂入りが発表された[9]。
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