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ハインケル・ツーリスト(Heinkel Tourist )は、1953年から1965年にかけてハインケル航空機で製造されたスクーターである。
ハインケルの最初のスクーターの試作車は1949年に製造され、ツーリストの生産は1953年に始まった[1]。
ツーリストはビッグスクーターとして販売され、ベスパやランブレッタ(Lambretta)よりも高価格で一般的に重量があり乗心地もよく安定していた[1][2]。ツーリストは、速度計、ステアリング・ロック、時計、荷台やスペアタイヤを装着することができた[1]。イギリスでは「スクーターのロールス・ロイス」と呼ばれ[1]、アメリカ合衆国、マサチューセッツ州のディーラーでは「スクーターのキャデラック」と宣伝された[3]。
ボディは、プレス鋼板製のボディ・パネルが鋼管フレームに取り付けられ、フレーム上に載ったエンジンがスイングアームに囲われたチェーンを介して後輪を駆動していた[4]。そのためチェーンは密閉されたオイル・バス内で保護されて動くことで長寿命となり、他のスクーターや2輪車のような油汚れとは無縁であった[1]。1960年代のハインケル・150小型スクーターを含めて当時のほとんどのスクーターは2ストローク・エンジンを搭載していたが、ハインケル・ツーリストは4ストローク・エンジンを搭載していた[要出典]。
101 A0(1953年 – 1954年)、102 A1(1954年 – 1955年)、103 A0(1955年 – 1957年)、103 A1(1957年 – 1960年)、103 A2(1960年 – 1965年)といった5つのシリーズで生産され[1][5]、累計で10万台以上が生産、販売された[4][6]。
ツーリスト 101 A0はハインケル・ツーリストの最初のシリーズで149 ccエンジンを搭載する唯一のシリーズであり、キックスターターを持つのもこのシリーズのみであった。鋼管製ハンドルバーのツイスト・グリップで3段変速機の変速を行った。生産は1953年4月に始まった。
1954年6月に追加のセルモーターを装備するために電装系が6ボルトから12ボルトへ変更された。101 A0の生産は2カ月後に終了し、合計6,500台の101 A0が製造された[1]。
102 A1シリーズの生産は1954年7月に始まった。101 A0からの主な変更点は、ボアとストロークが各々拡大され174 ccとなったエンジン、キックスターターの廃止や最終の101 A0と同様に12ボルト電装系、電動スターターを採用していた[1]。グローブボックスはレッグシールドの裏側に組み込まれており、速度計がその上に取り付けてあった[7]。
ツーリスト 103 A0シリーズの生産は1955年8月に始まった[8]。それ以前のシリーズが3速の変速機と8インチのタイヤだったのに対し、103 シリーズのツーリストは4速の変速機と10インチのタイヤを使用していた[1]。この結果、一方でより大型で重量級の渇望されたスクーターとなったが、他方ではより高速の洗練されたスクーターとなった[7][8]
1957年9月までに3万4,060台のツーリスト 103 A0が生産された[8]が、この生産数には議論がある[1]。
ツーリスト 103 A1の生産は1957年9月に始まった[9]。前シリーズまでの鋼管製ハンドルバーは、計器盤付の鋳造製ハンドルバーへ変更された[1]。エンジンは、排気量は同一であったが2ベアリングのクランクシャフトに改良され[1]、ゴム製台座を介してフレームに取り付けられたことにより乗心地が改善された[1][9]。
1960年6月までに5万50台のツーリスト 103 A1が生産された[9]。
ハインケル・ツーリストの最後のシリーズである103 A2の生産は1960年8月に始まった[10]。前シリーズまでのテレスコピック式フォークは、片持ち式のトレーリング=リンク・フォークに変更された。後部のボディパネルは形状が変更され、それ以前のシリーズとは互換性が無かった[10]。
合計5万5,000台のツーリスト 103 A2がハインケル・ツーリスト生産終了の1965年12月31日のまで生産された[10]。
シリーズ | 製造年 | エンジン排気量 (cc) | ボア & ストローク (mm) | ホイールベース (mm) | 全長 (mm) | 全幅 (mm) | 全高 (mm) | 総重量 (kg) | タイヤ |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
101 A0 | 1953年 - 1954年 | 149 | 59.0 & 54.5 | 1330 | 1980 | 710 | 980 | 285 | 4.00 & 8" |
102 A1 | 1954年 - 1955年 | 174 | 60.0 & 61.5 | ||||||
103 A0 | 1955年 - 1957年 | 1370 | 2060 | 1000 | 350 | 4.00 & 10" | |||
103 A1 | 1957年 - 1960年 | 1375 | 2085 | ||||||
103 A2 | 1960年 - 1965年 | 1380 | 2020 |
コヴェントリーを拠点とするオートバイ製造会社のエクセルシオールは1955年遅くからハインケル・ツーリストのイギリスへの輸入を始めた。1956年遅くにピカデリー(Piccadilly)のノーベル・モータース(Nobel Motors)がハインケル製スクーターとバブルカーの新しい正規輸入代理店となった[1]。
1957年末にハインケル製スクーターのイギリスでの輸入代理店はインターナショナル・セールス・オブ・ダブリン(International Sales of Dublin)になった。これはアイルランドのダンドーク・エンジニアリング社(Dundalk Engineering Company)が始めたハインケル・カビーネのライセンス生産事業の一部であったらしい[1]。
1962年2月にロンドンのハンス・モータース(Hans Motors)が103 A2の輸入を始めたが、これは全てドイツ人が運営していた。当時カビーネのライセンス生産をしていたトロージャン社(Trojan Cars Ltd.)は既にランブレッタ製スクーターの販売を行っており、ハインケル・ツーリストの輸入代理権を取得しなかった[1]。
ハインケル・ツーリストのアメリカ合衆国への輸入は認定代理店により行われた。
おおよそ350台のハインケル・ツーリストがアメリカ合衆国で販売された[3]。
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