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アルゼンチンのサッカー選手、監督 ウィキペディアから
ネストール・オマール・ピッコリ(Néstor Omar Píccoli, 1965年1月20日 - )は、アルゼンチン・ブエノスアイレス出身の元サッカー選手、サッカー指導者。
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名前 | ||||||
本名 |
ネストール・オマール・ピッコリ Néstor Omar Píccoli | |||||
ラテン文字 | Néstor PÍCCOLI | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | アルゼンチン | |||||
生年月日 | 1965年1月20日(59歳) | |||||
出身地 | ブエノスアイレス | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1984 | CAリーベル・プレート | |||||
1985-1986 | CAウニオン (サンタフェ) | |||||
1986 | CAテンペルレイ | |||||
1987 | CAリーベル・プレート | |||||
1987-1990 | 全日空 | 29 | (13) | |||
1990-1991 | ヒムナシア・ラ・プラタ | 11 | (0) | |||
1991-1992 | 全日空 | 12 | (5) | |||
1992-1995 | 中央防犯 / 福岡ブルックス | 64 | (60) | |||
通算 | 116 | (78) | ||||
監督歴 | ||||||
2000-2001 | アビスパ福岡 | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
1982年にアルゼンチンのCAリーベル・プレートでプロデビュー、1987年に日本サッカーリーグの全日空サッカークラブ(後の横浜フリューゲルス)に入団、一旦アルゼンチンに戻ったが1991年に全日空に復帰し、1992年には中央防犯サッカー部に入団した。1994年にはJFLオールスターサッカーに出場、1ゴールを決めた[1]。クラブが福岡に移転した1995年にはJリーグ昇格に貢献、この年限りで現役引退した。
1996年以降もアビスパ福岡とチーム名が変わったクラブに残り育成担当に就任、1998年からU-18監督となった。さらに1999年はトップチームのアシスタントコーチも兼務、2000年から監督に就任した。
就任後はチームに闘争心を植え付け、激しいサッカーを目指し2000年のセカンドステージではシーズン終盤まで優勝争いに絡むなど周囲の評価を覆す躍進を見せた。しかし翌2001年は成績は伸び悩み、所属選手の不祥事による動揺もあってJ2降格となり解任された。
2000年4月12日のナビスコカップ・湘南ベルマーレ戦ではスタメン、ベンチ入りメンバーの大半を入れ替え、実質上サテライトチームの編成で試合に臨み「最強のメンバーをもって試合に臨む」とのリーグ規約に抵触するのではと物議を醸した(後述)。
2003年末には日本フットボールリーグ昇格を目指す静岡FCに監督として招かれ、全国地域リーグ決勝大会で指揮を執ったが、昇格はならず、大会後に辞任した。
2004年には、日本サッカー協会のS級コーチライセンス獲得のためにリーベル・プレートでコーチ研修を行った都並敏史を現地で迎え、通訳兼コーディネーターとして支援したとされる。都並は1996年から1年余り福岡に在籍し、ピッコリとは面識があった。
現在はボカ・ジュニアーズでアシスタント・コーチを務めている。
日本国内成績
2000年4月10日、アビスパの練習場だった雁ノ巣での練習後ピッコリは「12日のナビスコカップ開幕戦湘南ベルマーレは控え組で臨む」と発言。当時の福岡の戦力を考えれば妥当な戦略であり、ピッコリ自身は「技術のある選手がベストメンバーではない。90分質の高いプレーをするのが選手がベストだ。選手を使い続けて疲れさせていいのか?」と主張した。
しかしJリーグ側は発言が新聞に掲載された事で事態を問題視。Jリーグ側はカップ戦の権威が落ちる事に対するスポンサーへの配慮もあってアビスパ側を問い質ししつづけた。この時はいわゆるJリーグバブルが終わり日本経済も冷え込みを続けた時期でスポンサー離れ等危機感が大きくJリーグ側が問題視したと考えられる。
これがきっかけで、Jリーグ規約第42条の「最強のチームによる試合参加(ベストメンバー)を」定めた項目に補足基準
「次の試合(J1・J2・ナビスコカップ)における先発メンバー11人は、当該試合直前のリーグ試合5試合のうち、1試合以上先発メンバーとして出場した選手を6人以上含まなければならない(但し、負傷・出場停止等の例外規定もあり)」
という規則改正にまで発展した。
福岡サポーターの一部は当時を振返り「サポーターはピッコリ支持で一つに固まっていた。文句を言う人間はだれも居ない」と語っている。ちなみにこの時の相手湘南とは4月12日に平塚競技場で3-2で福岡が勝利。4月19日はホーム博多の森で0-0の引き分け2回戦に進出した。
なお、同年の同大会でジェフユナイテッド市原も福岡と同じようなケースでその前の公式戦のメンバーから先発9人を交換し試合に臨んだが(4月12日開催)、市原側は先発交換に関して態度を軟化させたこともありJリーグからお咎めは無かった(参考文献『エル・ゴラッソ』2007年3月21日発行分。なお、同紙ではこの事件に因み、ナビスコカップにおける先発メンバーの変更率を「ピッコリ度」と呼んで指標としている)。
ピッコリが「控え組で臨む」と言った背景には、問題となった4月の月間試合数(8試合)が過密日程だったことも考慮する点があった。
試合日 | リーグ・カップ | 対戦相手 | 試合会場 | 試合間隔 | |||
1 | 2000年 | 4月1日 | J1 1stステージ | 第4節 | 名古屋グランパスエイト | 瑞穂公園陸上競技場 | |
中3日 | |||||||
2 | 4月5日 | 第5節 | ヴェルディ川崎 | 博多の森球技場 | |||
中2日 | |||||||
3 | 4月8日 | 第6節 | ジュビロ磐田 | ジュビロ磐田スタジアム | |||
中3日 | |||||||
4 | 4月12日 | ヤマザキナビスコカップ | 1回戦 | 湘南ベルマーレ | 平塚競技場 | ||
中2日 | |||||||
5 | 4月15日 | J1 1stステージ | 第7節 | 柏レイソル | 博多の森球技場 | ||
中3日 | |||||||
6 | 4月19日 | ヤマザキナビスコカップ | 1回戦 | 湘南ベルマーレ | 博多の森球技場 | ||
中2日 | |||||||
7 | 4月22日 | J1 1stステージ | 第8節 | ガンバ大阪 | 万博記念競技場 | ||
中6日 | |||||||
8 | 4月29日 | 第9節 | サンフレッチェ広島 | 博多の森球技場 | |||
リーグ戦メンバー | - | カップ戦メンバー | ||||
GK | 30 | 小島伸幸 | GK | 1 | 塚本秀樹 | |
DF | 39 | 平島崇 | DF | 39 | 平島崇 | |
DF | 2 | 河口真一 | DF | 3 | 水筑優文 | |
DF | 4 | 小島光顕 | DF | 28 | 三好拓児 | |
DF | 12 | 藤崎義孝 | DF | 15 | 橋口勝 | |
MF | 5 | 三浦泰年 | MF | 24 | 久永辰徳 | |
MF | 7 | 野田知 | MF | 6 | 篠田善之 | |
MF | 8 | 石丸清隆 | MF | 20 | 鈴木勝大 | |
MF | 11 | バデア | MF | 13 | 牛鼻健 | |
FW | 14 | 山下芳輝 | FW | 27 | 松永一慶 | |
FW | 9 | モントージャ | FW | 18 | 江口倫司 | |
GK | 1 | 塚本秀樹 | GK | 21 | 田草川貴 | |
MF | 6 | 篠田善之 | MF | 19 | 新田大介 | |
MF | 13 | 牛鼻健 | MF | 34 | 小森田友明 | |
MF | 24 | 久永辰徳 | FW | 25 | 深川大樹 | |
FW | 18 | 江口倫司 | FW | 29 | 柿本倫明 |
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