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1992年8月2日、千葉県船橋市の船橋オートレース場で開催されたW★INGの大会でプロレスラーとしてのデビューを飾った。W★ING認定世界タッグ選手権試合であり、組んだ相手はジ・アイスマン、その対戦相手はヘッドハンターズであった[2]。
やがてW★INGを離脱して1994年にI.W.A.JAPANのマットにデビュー。それからおおよそ2年間をI.W.A.JAPANに活動したのち、1997年から大日本プロレスに参戦し始めた[1]、その間に数年間だけ素顔・本名でリングに上がっていた。
その後、シャドウ・ウィンガーとして、1998年にBJW認定タッグ王座を獲得[3]、99年にはBJW認定ジュニアヘビー級王座を獲得[4]すると、更にその翌年大日本プロレスとの抗争下にあったコンバット・ゾーン・レスリングのタイトルCZW世界ジュニアヘビー級王座を賭けてトレント・アシッドと対戦し、勝利した。[5]。
2002年には横浜でBJW認定ジュニアヘビー級王座を再び獲得[4]。やがて大日本プロレスを退団したうえで2005年からフリーへ。2006年よりアパッチプロレス軍、その後プロレスリングFREEDOMSの所属となった[1]。なお古巣の大日本にもスポット参戦の形で出場し続けていた。
また2006年に設立されたBRAVES(ブレイヴス)というプロレス団体ではゼネラルマネージャーを務めていた[2]。
2012年11月23日、新木場1stRingでレスラー生活20周年記念興行『自由人バンザイ』を開催。
2014年1月13日、横浜にぎわい座で自身プロデュースの興行を開催する[6]。2014年のKFCタッグ王座戦では以前所属していた大日本のグレート小鹿会長と『チーム省エネ』としてタッグを組み、優勝して初代王座を獲得。
2016年11月17日、自身のデビュー25周年記念大会が行われた。
2017年5月25日、ウインガー本人と連絡が取れず、3月末の契約更改に応じなかったため、FREEDOMSを自由契約となる。
学習院中・高等科出身[7]。最後に3カウントさえ取れれば、相手を痛めつける必要性はないという頭脳的省エネ殺法は、俗に学習院スタイルと言われる[8]。
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