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ジョン・ファーンズ・ニコル

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ジョン・ファーンズ・ニコル
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ジョン・ファーンズ・ニコル英語: Sir John Fearns Nicoll, KCMG1899年4月26日1981年1月12日)は、イギリスの植民地総督。1949年から1952年にかけて香港輔政司1952年から1955年にかけてシンガポール総督を務めた。

概要 サー・ジョン・ファーンズ・ニコル KCMG, フィジー植民地総督 代行 ...
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中国語では、列誥尼誥尼高などと表記される。

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生い立ちと植民地行政

ニコルは、1899年に生まれ、カーライル・グラマースクール(Carlisle Grammar School、後のトリニティ・スクール (カーライル)英語版)からオックスフォード大学ペンブルック・カレッジ英語版に進んで、1921年に植民地官僚の道に進み、イギリス保護領北ボルネオに赴いた[1]

ニコルは1937年にイギリス王室領植民地だったトリニダード・トバゴの植民地副長官 (Deputy Colonial Secretary) となり、1944年から1949年にかけてはイギリス植民地であったフィジー植民地長官となった。その在職中には、総督英語版の代行を1944年1947年の2回にわたって務めた。次いで1949年には、香港輔政司に任じられた[1]

ニコルは、1952年シンガポール総督となり、1954年国民服務法暴動英語版の際にも当地に居合わせたが、その翌年には総督を退任した。在任中にはシンガポールの漸進的な自治拡大を進め、1955年にはリンデル委員会の自治拡大の勧告を通過させた[2]

ニコルは植民地行政の仕事から引退し、イギリスへ帰国した。

ニコルは、聖マイケル・聖ジョージ勲章を授与されナイトとなった[3]。彼は、イギリスのパットニー・ヒース英語版にあったシオ・ハウス病院英語版で死去した。

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私生活

ニコルと妻アイリーンとの間には、ひとり息子のアンソニー・ニコル (Anthony Nicoll) がいた。

残されたもの

シンガポールニコル・ハイウェイ英語版(尼誥大道)は、ニコルに因んで命名されたものである[4]ロンドンナショナル・ポートレート・ギャラリーにはエリオット&フライ英語版によるニコルの肖像写真が掲げられている[5]

脚注

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外部リンク

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