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サー・ジョン・ファーンズ・ニコル(Sir John Fearns Nicoll, KCMG 1899年4月26日 – 1981年1月12日)は、イギリスの植民地総督。1949年から1952年にかけて香港の植民地長官、1952年から1955年にかけてシンガポール総督を務めた。
サー・ ジョン・ファーンズ・ニコル KCMG | |
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フィジー総督 代行 | |
任期 1944年5月4日 – 1944年10月23日 | |
君主 | ジョージ6世 |
前任者 | サー・ジョン・ランキン(代行) |
後任者 | サー・ジョン・ランキン(代行) |
任期 1947年3月21日 – 1947年10月8日 | |
君主 | ジョージ6世 |
前任者 | サー・アレクサンダー・グランタム |
後任者 | サー・ブライアン・フリーストン |
西太平洋高等弁務官 代行 | |
任期 1947年3月21日 – 1947年10月8日 | |
君主 | ジョージ6世 |
前任者 | サー・アレクサンダー・グランタム |
後任者 | サー・ブライアン・フリーストン |
第18代 香港植民地長官 | |
任期 1949年5月25日 – 1952年1月23日 | |
君主 | ジョージ6世 エリザベス2世 |
前任者 | デヴィッド・マーサー・マクドゥガル |
後任者 | サー・ロバート・ブラック |
第2代 シンガポール総督 | |
任期 1952年4月21日 – 1955年6月2日 | |
君主 | エリザベス2世 |
前任者 | Wilfred Lawson Blythe (代行) |
後任者 | サー・ウィリアム・グード(代行) |
個人情報 | |
生誕 | 1899年4月26日 |
死没 | 1981年1月12日 (81歳没) イギリス イングランド ウィンブルドン・コモン |
国籍 | イギリス |
配偶者 | アイリーン・ニコル (Irene Nicoll) |
子供 | 男子1 |
出身校 | オックスフォード大学ペンブルック・カレッジ |
職業 | 植民地官僚 |
中国語では、列誥、尼誥、尼高などと表記される。
ニコルは、1899年に生まれ、カーライル・グラマースクール(Carlisle Grammar School、後のトリニティ・スクール (カーライル))からオックスフォード大学ペンブルック・カレッジに進んで、1921年に植民地官僚の道に進み、イギリス保護領北ボルネオに赴いた[1]。
ニコルは1937年にイギリス王室領植民地だったトリニダード・トバゴの植民地副長官 (Deputy Colonial Secretary) となり、1944年から1949年にかけてはイギリス植民地であったフィジーの植民地長官となった。その在職中には、総督の代行を1944年と1947年の2回にわたって務めた。次いで1949年には、香港の行政官である植民地長官 (Colonial Secretary of Hong Kong) に任じられた[1]。
ニコルは、1952年にシンガポール総督となり、1954年の国民服務法暴動の際にも当地に居合わせたが、その翌年には総督を退任した。在任中にはシンガポールの漸進的な自治拡大を進め、1955年にはリンデル委員会の自治拡大の勧告を通過させた[2]。
ニコルは植民地行政の仕事から引退し、イギリスへ帰国した。
ニコルは、聖マイケル・聖ジョージ勲章を授与されナイトとなった[3]。彼は、イギリスのパットニー・ヒースにあったシオ・ハウス病院で死去した。
ニコルと妻アイリーンとの間には、ひとり息子のアンソニー・ニコル (Anthony Nicoll) がいた。
シンガポールのニコル・ハイウェイ(尼誥大道)は、ニコルに因んで命名されたものである[4]。ロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリーにはエリオット&フライによるニコルの肖像写真が掲げられている[5]。
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