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アメリカの小説家・劇作家 ウィキペディアから
ジョン・アーンスト・スタインベック(John Ernst Steinbeck, 1902年2月27日 - 1968年12月20日)は、アメリカの小説家・劇作家。 スタインベックは「アメリカ文学の巨人」と呼ばれていた。また、スタインベックの多くの作品は西洋文学の古典と考えられている。 また、生涯で27冊の本を出版している。その中には16冊の小説と、6冊のノンフィクション、2冊の短編集が含まれている。 1929年の経済恐慌の影響を受けて貧窮にあえぐ小作農民の姿を描き、ピューリッツァー賞を受賞した代表作『怒りの葡萄』は75年に渡って売れ続け、1400万冊が販売されている。『エデンの東』では、キリスト教的原罪と人間の救いの可能性に新境地を開いた。 スタインベックの作品の多くはカリフォルニア州中部が舞台となり、中でもサリナス峡谷やコースト・レーンジズ山脈は頻繁に登場する。 1962年にノーベル文学賞を受賞した。
スタインベックは1902年2月27日、カリフォルニア州モントレー郡サリナスで生まれた。姉2人、妹1人の長男だった。サリーナス高等学校を卒業、幼い頃からドストエフスキー『罪と罰』、ミルトン『失楽園』、マロリー『アーサー王の死』[1]などを読み耽る文学好きの少年であり、学級委員も務めていた。
スタインベックの祖父は多くの農地を所持したドイツ系移民で、父はドイツ系2世の出納吏でもあった。母はアイルランド系の小学校の教師でスタインベックの読み書きの能力を育てた。
スタインベック家は元々「Großsteinbeck」という苗字だったが、祖父がアメリカに移民した際に「Steinbeck」と短縮した。ドイツに残る一族の農地は、いまだに「Großsteinbeck」と呼ばれている。
スタインベックは後年、不可知論者になるが幼少期は米国聖公会に所属していた。
高校卒業後、一時砂糖工場で働いた。そこでスタインベックは移民の生活や人間の負の面を経験した。砂糖工場での労働経験は、『二十日鼠と人間』などの後世の作品に生かされている。スタインベックは地元の森や牧場や周りの自然を歩いて横断し、冒険することを好んだ。砂糖工場ではしばしば工場内で働く機会があり、物を書く時間を作れた。機械に対してかなりの適性を持ち、持ち物を補修することに愛情を持っていた。
スタインベックは1920年、スタンフォード大学の英文学部に入学する。1921年度は授業を全休し、牧場や道路工事、砂糖工場などで様々な労働を経験した。この時の経験がのちのスタインベックの作品の世界観に現れていった。
1925年、海洋生物学を学んだのちスタンフォード大学を学位を取らずに退学した。ニューヨークに行き、出版を試みたが失敗し、カリフォルニア州へ帰ってきた。3年間山小屋やマス孵化場で働きながら作品を書いた。1928年、カリフォルニア州のタホ湖のツアーガイドとなり、最初の妻となるキャロル・ヘニングと出会った。
1930年、キャロル・ヘニングとロサンゼルスで結婚。ロサンゼルスでは友達と一緒に石膏でマネキンを作り儲けようとしていた。6か月後、世界恐慌が始まりスタインベックらの資金が尽きると、2人は父親が所有していたカリフォルニア州のパシフィック・グローブの別荘に移り住んだ。スタインベックの父は無料で二人に家を提供した。スタインベックはボートを購入し、釣りやカニの採取、庭や近所から手に入る野菜によって働かなくても生きていくことができた。スタインベックらは生活保護を受け、まれに地元の市場からベーコンを盗むことがあった。食料が少ない時でも、スタインベックは友達と食料を分け合っていた。
1930年、スタインベックは終生のメンターとなる海洋生物学者のエド・リケッツと出会う。リケッツはスタインベックに哲学と生物学を教えた。リケッツはいつもは静かだが、落ち着きと各分野の百科事典的な知識によって、スタインベックの興味を引き付けた。リケッツは最初期のエコロジストとして著名なウォーダー・クライド・アリー から教わった一人だった。リケッツはモントレーの海岸に海洋研究所を所有しており、魚や小動物などの海産資源を学校などに販売していた。
1930年から1936年にかけてスタインベックとキャロルはリケッツの研究所で働いた。妻キャロルは司書として、スタインベックは主に雑用を手伝った。
スタインベックは1929年に『黄金の杯』Cup of Gold で作家デビューした。この作品は「歴史小説」と銘打たれ、有名なイギリスの17世紀の海賊、ヘンリー・モーガンの伝記であったが、世間からは完全に無視された。そこから四年の沈黙を経て、1932年に2作目の『天の牧場』The Pastures of Heaven を発表した。1933年には『知られざる神に』To a God Unknown という人間の土との関係を神秘主義的に描いた作品があり、1935年にはスタインベックの「主婦的な感性」が最初の鮮鋭な結晶を見せた『トーティーア平』Tortilla Flat が生まれた。この作品ではモンテレイに住むパイサノ人たちの原始的な生活をユーモラスに描かれた。[2]
1934年4月の短編作品『殺人』がO・ヘンリー賞を受賞した。1935年1月、アムニージア・グラスコックの筆名で「モントレー・ビーコン」誌に詩八編を発表。同年5月、作品『トーティーヤ大地』出版。カリフォルニア・コモンウェルス・クラブから金メダルを受賞、同作品の映画化権料を手に入れた。1937年、『二十日鼠と人間』を発表する。1938年には『長い谷間』を発表し、スタインベックもこの頃から注目を集め始めた。
スタインベックは1939年4月、大干ばつと耕作機械によって土地を奪われた農民たちのカリフォルニアへの旅を描いた壮大な作品『怒りの葡萄』を出版、その作品は賛否両論を引き起こした。1940年には、怒りの葡萄がピューリッツァー賞、全米図書賞を受賞する。 同作品はヘンリー・フォンダが主演を務め、7万5000ドルの映画化権料で映画化され、2つのオスカーを獲得したこの作品で一躍その名声を不動のものとした。
1942年3月『月は沈みぬ』を出版する。独裁国ナチス・ドイツに対するノルウェー市民の抵抗を書き、ノルウェー国王から勲章を授けられた(1945年)。ナチスに対抗するパリのレジスタンスから1944年、『闇夜』の名前で刊行された。スタインベックはアメリカ空軍の依頼により、アメリカ空軍の実体を国民に宣伝する『爆弾投下』を発表する。
1950年には、スタインベックは聖書の物語と南北戦争から、第一次大戦までの時代を背景にカリフォルニアの一家族の歴史を描いた大作『エデンの東』を発表した。5年後、この作品も映画化された。主演のジェームズ・ディーンの演技が話題を呼び、大ヒットを記録した。
その後もスタインベックは意欲的な作品を書き続け、1962年にはノーベル文学賞を受賞している。
しかし、晩年は国内の批評家からの評価は必ずしも芳しくなく、生活は決して恵まれたものではなかった。
スタインベックは1968年、ニューヨークで心臓発作をおこして没した。66歳没。スタインベックの死体は遺言通り、火葬され埋葬された。スタインベックの死後、批評家のチャーリー・プアは「彼の最初の優れた作品は、最後の優れた作品でもあった。しかし、その作品はなんと優れていたことか」「彼はノーベル賞を必要としなかったが、ノーベル賞は彼を必要とした」とメッセージを送った。
スタインベックは、1942年にキャロル・ヘニングと離婚した。1943年に"グウィン"ことグウィンドリン・コンガーと結婚し2人の息子を儲けたが、1948年に離婚。
1948年にリケッツは車と電車の衝突事故で死亡した。スタインベックはカリフォルニアに戻り、数か月間悲しみに沈んだ。
1950年、舞台監督のエレイン・スコット(俳優ザカリー・スコットの元妻)と再婚した。この結婚はスタインベックが死ぬまで続いた。
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