ジャン=ピエール・ラッサム
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ジャン=ピエール・ラッサム(Jean-Pierre Rassam、1941年 レバノン - 1985年2月28日 パリ)は、フランスの映画プロデューサーである。仏伊合作を得意とし、シネアストとしてのジャン・ヤンヌ、「ソニマージュ」時代のジャン=リュック・ゴダールとの活動で知られる。
1968年、27歳のとき、義兄のクロード・ベリとともに、チェコスロヴァキア映画『夜のダイヤモンド』(1964年)で知られるヤン・ニェメツ監督の短篇映画『プラハのためのオラトリオ』を共同プロデュースすることからキャリアが始まる。1970年、ロマン・ポランスキー監督の脚本家として知られるジェラール・ブラッシュを『薔薇色のロレーヌ』で監督デビューさせ、翌1971年には次作『草の上の舟』も製作、彼の生涯2作きりの監督作を世に出した。
1971年、俳優のジャン・ヤンヌと映画製作会社「シネ・カ・ノン」社を設立。ヤンヌを映画監督としてデビューさせる。ヤンヌ監督作3本、ジャン・ユスターシュ監督の『ママと娼婦』を製作した後、1975年ヤンヌが監督作『ショビズネス Chobizenesse』のために「プロデュクシオン・ヤンヌ」社を設立し、「シネ・カ・ノン」社は活動を休止。
1972年、ジガ・ヴェルトフ集団として匿名的な映画の集団製作を行なっていたジャン=リュック・ゴダールに、共同製作による巨額の資金を調達・提供して、仏米の左翼俳優イヴ・モンタンとジェーン・フォンダを主演に『万事快調』を製作。ジガ・ヴェルトフ集団を解散し、アンヌ=マリー・ミエヴィルとともにグルノーブルで共同製作を始めた「ソニマージュ」時代にも3本に関わる。かつて『勝手にしやがれ』でゴダールを世に出した名プロデューサーのジョルジュ・ド・ボールガールを担ぎ出し、その続編という名目で『パート2』(1975年)を撮らせる。ジガ・ヴェルトフ集団時代に完成できなかった『勝利まで』(1970年)をゴダール=ミエヴィルに再編集させて、『ヒア&ゼア こことよそ』(1976年)として完成させる。さらにはゴダール=ミエヴィル共同監督作『うまくいってる?』(1978年)を製作。1972年のジャン=ピエール・ゴランとの決裂以降、『勝手に逃げろ/人生』で商業映画に復帰するまでのゴダール=ミエヴィルの創作活動を資金的に支援した。
1985年2月28日、フランス・パリでバルビツール系睡眠薬を多量に服用して急死。44歳。アメリカの作家ジェイムズ・ソルターは彼の著書『Burning the Days』のなかで、晩年のラッサムを「みずからを衰えさせるドラッグ中毒と格闘する啓示型の映画プロデューサー」として回想している[1]。また妻キャロル・ブーケは、夫のプロデュースする映画に一作も出演することはなかった。
1970年代前半より鬱病で苦しみ、長年アルコールやドラッグに溺れた生活を続けた。ラッサムは、ラウール・レヴィ、パウロ・ブランコ、ジェラール・レボヴィッチといった創造の冒険家的な大プロデューサーたちのレースで残るようにした。ジャン=ジャック・シュルは彼の小説『イングリット・カーフェン』のなかでフィクションの仮面の下で、ラッサムのポートレイトをなぞった。ラッサムは、パリの最高級ホテルのひとつ「プラザ・アテネ」のスイートで永年暮らしていた。女優キャロル・ブーケと結婚し、彼女との間に息子ディミトリを持った。シネアストであり映画プロデューサーでもあるクロード・ベリは義兄にあたる。彼に関する伝記は2007年4月に発行された[2]。
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