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ジャン・ラクチュール(Jean Lacouture、1921年6月9日 - 2015年7月16日)は、フランスの作家、ジャーナリスト。
ジャン・ラクチュール Jean Lacouture | |
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2010年4月10日、国民議会主催の第19回歴史書の日に自著に署名するジャン・ラクチュール | |
誕生 |
ジャン・マリー・ジェラール・ラクチュール(Jean Marie Gérard Lacouture) 1921年6月9日 フランス、ジロンド県ボルドー |
死没 |
2015年7月16日(94歳没) フランス、ヴォクリューズ県ルシヨン |
墓地 | ルシヨン墓地 |
職業 | 作家、ジャーナリスト |
言語 | フランス語 |
教育 | 博士 |
最終学歴 |
パリ政治学院 ボルドー大学 ハーバード大学(博士号) |
ジャンル | 伝記、政治、歴史 |
代表作 |
『ド・ゴール』 『ベトナムの星 - ホー・チ・ミンと指導者たち』 『ナセル』 『アンドレ・マルロー - 今世紀におけるある人生』 『レオン・ブルム』 『フランソワ・モーリアック』 『シャンポリオン伝』 『フランソワ・ミッテラン - あるフランス史』 『証言は闘い - ジェルメーヌ・ティヨン伝』 |
主な受賞歴 |
ゴンクール伝記賞 今日賞 ゴベール大賞 レジオンドヌール勲章グラントフィシエ章 芸術文化勲章コマンドゥール章 |
影響を受けたもの
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ウィキポータル 文学 |
『ル・モンド』紙など左派の新聞の記者としてベトナムのホー・チ・ミン、カンボジアのシハヌーク、エジプトのナセル、ソ連のフルシチョフ、米国のキッシンジャー、ロバート・ケネディなど20世紀を代表する政治家に取材し、時事問題に関する著書を発表する一方、1970年代中頃からド・ゴール、アンドレ・マルロー、レオン・ブルム、ミッテランなどの伝記を執筆し、ジャーナリズムからもアカデミズム(歴史学、政治学)からも一定の距離を置く伝記作家としての地位を確立した。終戦直後から脱植民地化のために活動し、政治・歴史に関する約70冊の著書を発表。こうした功績により、レジオンドヌール勲章グラントフィシエ章をはじめとする多くの栄誉を与えられた。
1921年6月9日、ジャン・マリー・ジェラール・ラクチュールとして南西部のボルドー(ジロンド県)のカトリック・ブルジョワ家庭に生まれた。父ジョゼフ・ラクチュールは外科医であった[1][2][3]。
イエズス会が運営する地元のリセ・サン=ジョゼフ・ド・ティボリ(現Ensemble scolaire Saint-Joseph-de-Tivoli)で中等教育を修了した後、1939年11月に外交官を目指してパリ政治学院に入学。学位取得後に地元に戻り、1942年にボルドー大学文学・法学部に学んだ[2]。
ロンドンに亡命したシャルル・ド・ゴールが1940年6月18日に対独抗戦を呼びかけると、ラクチュールの両親はこれを熱心に支持したが、彼自身はドイツでの強制労働(STO)を逃れるために農家に隠れるなどして、マキに参加したのはノルマンディー上陸作戦(1944年6月6日)の2か月前の1944年4月のことであった[2]。1944年9月にパリ地域でフィリップ・ルクレール将軍が率いる自由フランス軍第2機甲師団の部隊に配属され、部隊がドイツに進軍していた1945年5月8日、ドイツの降伏を知った[2]。
欧州戦の終結後にルクレール将軍が今度はフランス領インドシナを日本軍から解放するために極東への遠征軍を結成すると、ラクチュールはこれに志願したが、従軍記者に任命され、現地でルクレール師団の機関紙『カラヴェル』(「キャラベル船」の意)を刊行することになった[4][5]。
ラクチュールがマルセイユを発って長い船旅の後サイゴンに着いたのは、日本が降伏文書に調印し(1945年9月2日)、ホー・チ・ミンが率いるベトミンがベトナム民主共和国の樹立を宣言した後のことであった。彼はフランス軍を「解放軍」と呼んだが、そうではなかった。フランス軍内部で独立勢力に対する対応について意見の対立が生じ、ラクチュールは『カラヴェル』紙の刊行を続けながらも、フランス極東学院の東洋学者ポール・ミュスの助言により、独立して市民向けの反戦新聞『パリ・サイゴン』を創刊した[2][6]。この新聞はベトナム民族主義者との対話の場となり、ラクチュールはハノイでホー・チ・ミンと彼の側近で軍事戦術家のヴォー・グエン・ザップに会う機会を得た[2]。
1946年3月6日、フランスはハノイ暫定協定の締結により、フランス連合の一員としてベトナム共和国の独立を認めたが、4月13日の軍事協定によりさらに兵力を配置し、12月19日、第一次インドシナ戦争が勃発。ラクチュールはベトナム滞在14か月にして本土に帰還することになった[2]。
1947年に、ルクレールの側近ジョルジュ・ビュイの勧めで、フランス保護領モロッコの仏当局報道部(在ラバト)に勤務することになった[3]。彼はラバトでフランス領アルジェリア生まれの社会学者・東洋学者のジャック・ベルク(後にコレージュ・ド・フランスの教授、地理学者オギュスタン・ベルクの父)に出会った。ジャック・ベルクは1953年にモロッコ独立運動を率いたムハンマド5世がマダガスカルへの強制亡命を命じられたときに、これに激しく抗議し、仏当局に煙たがられた人物であり[3]、以後、ラクチュールは彼と長年にわたって親交を結ぶことになるが、現場の情勢を知るにつれ、「陣営を間違えた」と感じるようになった彼は、2年後の1949年に後の妻シモンヌ・ミオラン(Simonne Miollan)を連れて帰国した。シモンヌは現地フランス労働総同盟の組合員でフランス通信社の編集長であった。渡仏後、ラクチュールとともに多くの著書を発表し、反植民地運動においても共に闘った[3]。2011年に妻シモンヌに先立たれたラクチュールは、「私は信じられないほど幸運だった。私の戦艦の舵取りをしたのがシモンヌだった。彼女は私の提督だった」[3]、人生で最大の成功は「妻と人生を共にしたこと」と語っている[7](彼は2015年、妻の命日の7月16日に死去した[8])。
パリに戻ったラクチュールはジャーナリストとして本格的な活動を開始した。最初は第二次大戦中に対独レジスタンス組織「コンバの機関紙として地下出版された『コンバ』紙の記者として活躍した。次いで、同じく対独レジスタンス組織「フランス防衛」の同名の機関紙の後続紙として1944年に創刊された『フランス=ソワール』、さらに実業家クロード・ペルドリエルと作家・ジャーナリストのジャン・ダニエルによって1964年に創刊された『ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』紙などの左派の重要な新聞の記者として活躍した[8][9]。
だが最も重要な活動の舞台は、1944年にユベール・ブーヴ=メリーが創刊した『ル・モンド』紙であり、ラクチュールは夕刊の記者の後、1957年から1975年までの長きにわたって同紙の海外県部門の編集長を務め[2]、アルジェリア戦争、チュニジアやモロッコの危機、インドシナ戦争、エジプトの政治情勢などを取材した。一方で、ラグビーや闘牛に関する記事も多数執筆し、これらは著書として刊行された(著書参照)。
1966年に米国ハーバード大学の国際関係論の研究者として「権力の人格化」に関する博士論文を提出し、1969年に『4人の男たちとその人民 - 超権力と低開発』としてスイユ社から刊行された[9]。
博士号取得後、1966年から1972年までパリ政治学院で教え、1969年に左派の知識人によって実験大学センターとして創設されたヴァンセンヌ大学で同年から1971年まで教鞭を執った。
ラクチュールはソ連のフルシチョフから米国のキッシンジャー、カンボジアのシハヌークから米国のロバート・ケネディ、エジプトのナセルまで多くの著名な政治家に取材し、記事だけでなく著書も発表した(シアヌークとの対談『北京からみたインドシナ』、伝記『ナセル』など)。一方で、左派のジャーナリストとして主に社会主義国やフランスの植民地で急速に変化する戦後の情勢、不透明な情勢を取材した彼は、ときに判断を誤ることもあった。特にアルジェリア民族解放戦線内部の対立を過小評価したこと、文化大革命やクメール・ルージュに間違った期待を抱いたことであり[2]、カンボジア情勢については誤りを認めて1978年に『カンボジア人民よ、生き延びよ!』を著し、さらに、ジャーナリストとしての活動を振り返って『インクの血』を発表した(著書参照)。
ラクチュールはエジプト、モロッコ、インドシナ、ベトナムの情勢や現役の政治家に関する著書(伝記)を発表した後、1970年代中頃から時事問題から離れ、『アンドレ・マルロー』(1973年、現代の政治・歴史に関する著書に与えられる今日賞受賞)[7]、『レオン・ブルム』、『フランソワ・モーリアック』、『ピエール・マンデス=フランス』、代表作の『ド・ゴール』などの伝記を発表し始めた(著書参照)。ジャーナリストから伝記作家への転身であり、むしろ詳細な注釈を付した歴史学的な記述を試みている。これは、たとえば、『アンドレ・マルロー』の謝辞にジャック・ジュイヤール、ミシェル・ヴィノック、ピエール・ノラらの名前が挙がっていることからも明らかであるが[9]、これは主にアナール学派の影響で、ジャーナリズムとアカデミズムの境界がしばしば曖昧になったことが背景にある。たとえば、歴史学者のアニー・クリージェルやピエール・ショーニュは『フィガロ』紙、フランソワ・フュレ、ドニ・リシェ、ジャック・ジュイヤールは『ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』紙に歴史・政治に関する記事を寄稿し、ジャン・ボトレル、フランツ=オリヴィエ・ジズベール、カトリーヌ・ネイらのジャーナリストが歴史書、主に20世紀の政治家の伝記を書くようになった[9]。こうした動向についてラクチュールは、「ジャーナリストがにわか仕込みの知識で歴史学者の役割を担うのはもう珍しいことではないが、フランソワ・フュレやジャック・ジュイヤールのような正真正銘の歴史学者がこれほど熱心かつ継続的にジャーナリズムに関わるのはかつてないことだ」と書いている[9]。
彼はジャック・ル・ゴフとピエール・ノラを中心とするアナール学派の第三世代による史学史の研究「新しい歴史学」(流派、雑誌)に参加し、ミシェル・ヴォヴェル、クシシトフ・ポミアン、アンドレ・ビュルギエール、フィリップ・アリエス、ギィ・ボワ、ジャン=クロード・シュミットらの歴史学者と共に活動し、ジャーナリズムから離れると同時に、アカデミズムからも距離を置きながら、伝記作家という立場を確立していった[9]。
さらに、こうした活動の一環として、スイユ社の現代史・時事問題の叢書「リストワール・イメディアット(L’Histoire immédiate、直近の歴史・差し迫った問題)」を1961年に創刊。一般書としても専門書としても好評を博すことになった[10]。また、ミシェル・ヴィノックとスーフィズム(イスラム神秘主義)専門の哲学者ミシェル・ショドキーウィチ(Michel Chodkiewicz)が1978年に創刊し、同じスイユ社の子会社が刊行する歴史雑誌『リストワール(歴史)』誌の編集委員を務め[11]、社会党議員のアラン・ルーセが1990年にペサック国際歴史映画祭を創設した際には、ヴィノックとともにこれに参加した[8]。
2015年7月16日にルシヨン(ヴォクリューズ県)で死去、享年94歳。ルシヨン墓地に埋葬された[12]。
フランソワ・オランド大統領は「フランスの歴史が作られるのと同時にこれを書いた、情熱的で独立心が強く、勇敢な男であった」と称えた[8]。マニュエル・ヴァルス首相は、「彼が書いた伝記と同様に豊かな人生を送った偉大な作家として、左派にとってもフランスにとっても、今後も非常に偉大な良心であり続ける」と語り、フルール・ペルラン文化相は、「物議を醸すこともあったが、常に辛辣な特派員、優れた記者、論説委員であった」と評した[8]。
ラクチュールは、最も敬愛する歴史上の人物はモンテーニュ、作家はスタンダールとジュリアン・グラック、詩人はギヨーム・アポリネールを挙げている[7]。
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