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ジェームズ・ギルレイ(英語: James Gillray、1757年8月13日 - 1815年6月1日)は、イギリスの画家、イラストレーター(風刺画家)、版画家である。
ロンドンのチェルシーで生まれた。彼の父親は軍人で、1745年におこったフォントノワの戦いの影響で片腕を失い、最初は囚人として、その後は年金受給者としてロイヤル・ホスピタル・チェルシーに入院した。ギルレイは練習として文字を彫ることから始め、彫刻の腕を磨いた。しかしこの仕事にうんざりした彼は、放浪芸人の一団となり、しばらくの間イギリスの各地を放浪した。
波乱に満ちた生活の後、彼はロンドンに戻り、1778年からロイヤル・アカデミー・オブ・アーツで学び、今日まで伝わる最初の作品『Paddy on Horseback』(1779年)は版画家で刷版の彫り師ウィリアム・ハンフリー(William Humphrey)が製作した[1]。
彼の初期の風刺画は、ほとんどがエッチングで、稀にアクアチントを使ったものや、点描法を使ったものも見られた。また、同世代のウィリアム・ホガースの風刺画をよく楽しみ、あるときは彼の研究対象になった。1782年に発表された、ジョージ・ロドニー卿のセインツの海戦での海軍の勝利を描いた2枚の風刺画は、彼の特筆すべきスケッチの初期の作品の1つである。
作品はスミ色1色刷りの銅版画に手彩色してあり、欄外の解説文は英語、フランス語、オランダ語[2]でも記して、イギリスだけではなくヨーロッパ各地で流通した。
ハンフリーの妹は名前をハナー・ハンフリー(Hannah Humphrey)といい、ギルレイの版画の版元として販売を手がけた。ギルレイにはその店の様子を描いた作品もある(挿絵『とても滑りやすい天気』参照)。この2階に間借りし、臨終も迎えた[4]。
ギルレイはハナーを通じて、親戚のミス(あるいはミセス)と暮らしていた。ギルレイは何度か彼女との結婚を考えたとされ、ある時、二人で教会へ向かう途中で、ギルレイはこんなことを口に出したという。
「これは愚かな関係だと思うよ、ミス・ハンフリー。私たちは一緒にとても快適に暮らしているんだから、そっとしておいた方がいい」
ギルレイの版画の一つ『Twopenny Whist』は、トランプをしている4人の人物を描いたもので、左から2番目に描かれた、眼鏡をかけた老婆は、ミスを描写していると広く信じられている。ギルレイの版画はハンフリーの店のウィンドウに良く展示され、熱心な群衆がそれを鑑賞した。
1782年頃から、その時々の政治の話題を主題に製作しはじめ、同時代のトマス・ローランドソン(1756年-1827年)や、先行するホガース(1697年-1764年)を含め、風刺画の黄金時代を作ったとされる[5]。
43歳になろうとする1806年、急激に視力が衰えはじめ、それまでのような作品を描けなくなる。眼鏡をかけたりしても、満足のいく成果は得られなかった。以前よりも作画の効率が悪くなると、ギルレイは沈みがちになり、深酒が続いた。それが原因で長時間の痛風を引き起こした。1809年9月の作品を最後に筆をおき、精神症状がつのると1811年7月にハンフリーの店の屋根裏の窓から飛び降りて自殺を試みるが未遂に終わる。ギルレイは精神錯乱が高じ、自立した生活ができなくなると、ハナー・ハンフリーの介護を受けて暮らし、1815年に57歳で没した。ピカデリーのセント・ジェームズ教区の墓地に埋葬された。その後は自立した生活ができなくなると、ハナー・ハンフリーの介護を受けて暮らし、1815年に57歳で没した。
彼の最後の作品は、1811年のヘンリー・バンバリー(Henry Bunbury)との共作で、『巡回裁判所での理髪店の内部』と題された。この作品を制作している間に発狂しては正気を取り戻す、これを幾度も繰り返し、その精神の変化を最期の作品に活かした。それがかえって精神の悪化を早めたのかもしれない。
多くのギルレイ作品を収蔵するとみなされながら、1940年にようやく風刺画部門の整理と台帳化を終えたのは大英博物館である[6]。18-19世紀のイギリス史専門家、ドロシー・M・ジョージ(ロンドン大学)がまとめた[7]台帳により作品群の俯瞰ができ、1960年代にドレイパー・ヒルは人物伝を上梓すると、ジョージに献呈する。1960年代の自由な気風にふれたジェラルド・スカーフ など、イギリスの漫画家たちの目にとまるものの、刺激的な挿絵が一般書として出版できるには、1970年代まで待たなければなかった[8]。
イギリスの貴族院議員ウィリアム・フレーザーは熱烈なギルレイ蒐集家で[9]、貴族院附属図書館が収蔵する特別コレクションは1899年に同議員から受贈した。フォリオ版のモロッコ革表装を施したギルレイ全集は11巻あり、版画が大切に綴じこまれている[10]。2016年に同図書館は初めてこの全集の版画を図録にすると決める。監修者にティム・クレイトン Tim Clayton を招き、18世紀-19世紀初頭のイギリス史と文化の専門家として整理と解説を依頼した[11]。
同国のナショナル・ポートレート・ギャラリーでも、収蔵するギルレイの作品の分析が進む。人物画は881点、象牙の板に水彩で描いた自画像も1点あり(ページ上部参照[注釈 2])、またそれを模写もしくは参照して他の画家が製作したギルレイの肖像画[12]は、同館に5種6点が伝わる[1]。
以下、題名に続けてナショナル・ポートレート・ギャラリーの収蔵品台帳番号を示す(NPG+数字)。
蒐集家ドレイパー・ヒルはジョージ・ウッドワード作『An Old Bachelor』(台帳番号BM 11170)のモデルもギルレイで、これをG・A・スティーブンス著『A Lecture on Heads』(仮題:頭像の描き方)に挿絵として採用するとき、銅版画師ローランドソン Rowlandson が版を彫ったと指摘する[13]。
ヒルは、ギルレイが自作の風刺画にも自画像をすべり込ませたと分析する。明白にわかる作品は1795年からで[14]、次の作品にも姿を変えて登場するという[13]。
アメリカ議会図書館の収蔵するギルレイ作品は、ウィキメディア・コモンズに提供を受けた[注釈 4]。アメリカがイギリスから独立を求めて戦争が始まると、ギルレイは植民地住民の貿易の利潤に配慮すべきと考えたという[注釈 5]。ダートマス大学附属フード美術館は1994年に展覧会を開く[19]。伊丹市立美術館は巡回展「ジェイムズ・ギルレイ展」(1996年)をテレビで紹介し[20]、2000年の「 ジェイムズ・ギルレイ : 諷刺が語る」展では18世紀末イギリスの版画と社会情勢を述べた[21]。
フランス革命やナポレオンには否定的な立場であった。イギリス王室の人々や政治家を鋭く風刺し、王族でもっとも槍玉にあげたのはジョージ3世と妃、また大食漢として描いた王太子時代のジョージ4世である。小ピットの肩を持ちホイッグ党員をたたいた。
文化人や著名人にも容赦はしなかったギルレイも、貴族階級の女性でオペラ好きのアルビニア・ホバート伯爵夫人 Albinia Hobart の扱いは別格である(第4代バッキンガムシャー伯爵ロバートの生母)。ホバートは生家の母方の資産相続と伯爵との結婚により裕福で派手好きであり、また邸で違法のトランプ賭博を催すと王族や名士を招き[22]、新聞の社交欄を賑わせる。さまざまな風刺画家が50点におよぶ作品を残しており、ギルレイは数点の版画に登場させ、特権階級の豪奢な暮らしぶりを批難する。みずからオペラを歌い、娘たちと街の劇場に出た伯爵夫人は、〈長身でやせた女性〉という設定の「カウスリップ」役を演じた。その姿もすかさず版画にしている(挿絵「カウスリップ、クリームの大盃をもって登場」参照[23])。ロンドンの新聞は好意的な劇評を書き、劇場を借り切って代金を払うなど、不況の影響を受ける文化のパトロンを自負した面を捉えた。
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