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シャトー・ペトリュスは、ポムロールAOCに位置するボルドーワイン生産者で、その東の境界線はサン=テミリオンAOCからほど近い。 限られた畑から限られた量の赤ワインを生産し、時に応じて少量のカベルネ・フランを使用するのみで、材料のほとんどにメルロー種のブドウを使い、セカンドラインのワインは作らない。 畑はリブルヌのワイン商ジャン=ピエール・ムエックスの所有である。
ポムロールのワインは公式な格付けがされていないが、ペトリュスはアペラシオン・ドリジーヌ・コントロレの偉大なワインとして広く認められており[1][2][3][4][5][6][7][8]、シャトー・ル・パンとともにポムロールを代表する二大高級ワインとして、現在も一貫して、世界で最も高額なワインとして知られている[9][10]。
当初の畑は 7ヘクタール (17エーカー) ほどの広さで[1]、18世紀中ごろからはアルノー家の所有地だった[7]ようで、その名が初めて記録に表れるのは1837年である[5]。
チャールズ・コックスとミシェル=エデュアール・フェレ共著の1868年『 Cocks & Féret 』では、シャトー・ペトリュスはヴュー・シャトー・セルタンに次いで、シャトー・トロタノワと共にクリュ・ブルジョワとプルミエ・アルティザン級に格付けされている[4]。 この期間のヴィンテージは、ペトリュス・アルノーのラベルが付けられている[9]。 1878年のパリ万国博覧会で、ペトリュスは金メダルを獲得[3]、高い評価を得て、販売価格もポメロールの1級ワイン同様、メドック・ワイン2級並みの水準となった[4][1]。
20世紀初頭、アルノー家は La Société Civile du Château Petrus 社を設立、株式を一般公開した。 1925年前後から、リブルヌのオテル・ルバを所有するエドモン・ルバ未亡人がシャトーの株式を買い始め、1949年にはシャトーの単独オーナーとなった[7][11]。
デイヴィッド・ペパーコーンによれば、「ペトリュスの偉大な年」は第二次世界大戦が終了した1945年に始まったという[1]。 リブルヌのネゴシアン(ワイン取扱商)エスタブリスモン・ジャン=ピエール・ムエックス社のジャン=ピエール・ムエックスが、その年からペトリュスの独占販売権を獲得、ここからペトリュスの国際的評価がスタートした[11]。 マダム・ルバはシャトー・ラトゥール・ア・ポムロールのオーナーでもあり、生涯にわたって現役のワイン製造者であり、品質への細やかな気配りと強い意志で知られ、彼女のワインは、偉大なクリュに並ぶ価格価値があると見なされた[1][2][7][8]。
翌年以降も、ムエックス社との協力体制は成果を挙げた[8][9][10]。 ペトリュスはアメリカ合衆国に輸出され、1947年には英国のエリザベス王女とエディンバラ公フィリップの結婚式でも提供されている[12]。 マダム・ルバはのちの1953年、エリザベス2世の即位式に際してペトリュス1ケースをバッキンガム宮殿に献呈している[5]。
1956年冬、霜害がボルドー地域を襲い、ペトリュスのブドウ畑では3分の2のブドウが枯死した[6]。 マダム・ルバは、新しい苗を植えるのではなく、生き残ったブドウに新しい蔓を接ぎ木するという決断を下したが、recépage という手法は、この地域で初の試みとなった[6]。 彼女の成功により、蔓の平均年齢を高く保つ方法が確立され、この手法がその後も引き継がれることとなった[5][9]。 ペトリュスは伝統的に、ボトルだけではなく樽でも販売されてきたが、この慣行は2013年に終了している[4]。
アメリカ合衆国におけるペトリュスの名声は、ニューヨークのレストラン「ル・パヴィヨンLe Pavillon 」オーナーのアンリ・ソールがプロモーションを行い、1960年代に高まった。 アレクシス・リシーヌによれば、海運王オナシスがル・パヴィヨンを訪れた際に、角のテーブルに座ってペトリュスを飲んで以降、ペトリュスはステイタス・シンボルとなり、ワイン通を気取りたい人々が漏らす名前となったという[13]。
1961年にマダム・ルバが死去すると、シャトーは姪のリリー・ラコスト=ルバと甥のリニャックに残された。 対立する相続人2人の平等性とその後の影響を考慮して、株式はJPムエックスが引き継いだ[6]。 一定期間は姪がシャトーを監督していたが[1][5]、1964年にJPムエックスがリニャックの株式を購入し[11]、ワイン醸造学者のジャン=クロード・ベルエをペトリュスに迎えた[9][14]。 またこれに先立ち、エミール・ペイノーが非常勤の専門医として迎えられている[15]。 1969年には、5ヘクタール (12エーカー)のブドウ畑が近隣のシャトー・ガザンから買い足された[1][9][11]。
2003年にジャン=ピエール・ムエックスが死去すると、その息子でグループ・デュクロ会長のジャン=フランソワ・ムエックスがペトリュスのオーナーとなった。 彼はペトリュスのフランス国内の販売を規制し、一方で1970年からペトリュスを担当していた弟のクリスチャン・ムエックスは[16]、息子のエデュアール・ムエックスと共に、ブドウ畑、醸造、マーケティング、輸出販売を監督している[5][9]。
技術監督を44年間務めたジャン=クロード・ベルエが2007年に引退すると、エリック・ムリザスコが後を引き継いだ[17][18]。
ベルエの息子オリヴィエ・ベルエが新しく醸造技術者として任命され、技術監督となるべく研鑽中である。 クリスチャン・ムエックスは、ペトリュスから距離をおいて自身の役割を技術顧問に限定する意向を2008年に表明している[16]。
シャトーにあるのは「城」ではなく、2階建ての「屋敷」である[6]。 屋敷は聖ペトロを象徴する鍵で装飾されている[2]。 クリスチャン・ムエックスは「ペトリュスにはシャトーの名はふさわしくない。あるのはただ、古い農家だけだ」と語っている[11]。
シャトー・ペトリュスのブドウ園の広さは11.4ヘクタール (28エーカー)で、ポムロールAOCの東の台地に位置する[9]。 ブドウは95%がメルロー種で、5%がカベルネ・フラン種である。
「 Petrus boutonnière (ペトリュスのボタン穴)」と呼ばれる20ヘクタール (49エーカー)ほどの台地の頂上に位置し、元々のブドウ畑の土壌表面と下層土は、鉄分を豊富に含む粘土で「 crasse de fer (鉄かす)」と呼ばれる[1][5][9][11]。 近隣のブドウ園の土壌はペトリュスのものとは異なり、砂礫や粘土質の砂が混成している。 1969年にシャトー・ガザンから買い足した土地は、Petrus boutonnière の上にはない[1][5][9]。
蔓の平均年齢は45年を超える[5][9]。 ボルドーで初めて若い実を間引く éclaircissage を導入した。 この技術により、収穫高を減らして残したブドウの品質を向上させることができる[6][11]。 ブドウは2日から3日かけて手で摘み取られるが[9]、ブドウ園が小規模なので、必要に応じて1日で収穫することも不可能ではない[11]。
収穫後は厳しい品質検査が行われ、はねられた一群は「偉大なワイン」からは拒絶される。 現代では、ペトリュスはほとんどメルロー種だけのセパージュワインであり、カベルネ・フラン種はほとんどの年で使用されることがない[6][9]。 若いワインは新しいフランス産オークの樽で2年ほど寝かされる[9][11]。 例年の生産量は、多くても2500ケースである。
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