シジマール・アントニオ・マルチンス(Sidmar Antônio Martins、1962年6月13日 - )は、ブラジル出身の元サッカー選手・サッカー指導者。ポジションはゴールキーパー

概要 シジマール, 名前 ...
シジマール
名前
本名 シジマール・アントニオ・マルチンス
Sidmar Antônio Martins
愛称 クモ男[1]
ラテン文字 Sidmar
基本情報
国籍 ブラジルの旗 ブラジル
生年月日 (1962-06-13) 1962年6月13日(62歳)
身長 183cm
体重 78kg
選手情報
ポジション GK
利き足 右足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1979-1983 ブラジルの旗 グアラニ
1984-1988 ブラジルの旗 キンゼ・ジ・ピラシカーバ
1988 ブラジルの旗 バイーア
1989-1990 ブラジルの旗 ポルトゥゲーザ
1991-1992 ブラジルの旗 グレミオ
1992-1993 ブラジルの旗 キンゼ・ジ・ピラシカーバ
1993-1994 日本の旗 清水エスパルス 47 (0)
1994-1995 ブラジルの旗 キンゼ・ジ・ピラシカーバ
1995 日本の旗 清水エスパルス 14 (0)
2017 日本の旗 藤枝MYFC 0 (0)
通算 61 (0)
監督歴
2006-2007 日本の旗 VOLARE FC
1. 国内リーグ戦に限る。
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1993年に日本に渡り、Jリーグを代表するGKとして活躍した。現役引退後はサッカー指導者として活動している。

経歴

選手時代

サンパウロ州サン・ジョゼー・ド・リオ・プレトで生まれ[2]、幼少時から好んでゴールキーパーとしてプレーする[2]。14歳のときにサンパウロFCのテストに合格し[2]、17歳のときにグアラニFCとプロ契約[2]。U-20ブラジル代表に選出され1981年の南米ユース選手権に準優勝、1983年のトゥーロン国際大会に優勝した[3]キンゼ・デ・ピラシカーバへ移籍後、1988年はECバイーアへと貸し出され、同年のブラジル全国選手権に優勝した[4][2]。その後はポルトゥゲーザ、再びキンゼ・デ・ピラシカーバと移籍した[4]

ポルトゥゲーザ時代に監督だったエメルソン・レオンから直接連絡を受け[2]、ゴールキーパーコーチとして来日したが、現役に復帰[5]。レギュラーとして活躍した。1993年7月[2]に日本の清水エスパルスと契約[2]。2ndステージ第2節でデビューすると、第3節から6試合連続で無失点に抑えた[6]。清水は1stステージに18試合25失点したが、シジマールが加入した2ndステージでは18試合9失点となり、ステージ優勝争いを演じた[2][6]サッカーマガジンの2ndステージにおいての全選手の採点では、6.65でビスマルクと並んで最高得点を記録した[7]。同シーズンに達成した731分間連続無失点は、長らくJ1の無失点記録だった(2021年にミッチェル・ランゲラックが823分で更新[8]。またJリーグ記録としては、2006年横浜FCのGK菅野孝憲がJ2で770分を記録[9])。

清水は1994年の1stステージでは優勝争いをするも、2ndステージに監督がレオンからリベリーノに代わり、FWジャウミーニャが加入すると、シジマールは外国人枠の関係上構想から外れ、控えに回っていた真田雅則が再びレギュラーとなった[10]。1994年10月17日に退団記者会見を行い、その5日後の試合後に退団セレモニーが行われた[10]。退団発表から間もなく清水サポーターにより彼の復帰を求める署名運動が起こり、1995年シーズン前にはGKコーチ兼任で復帰した[10]1995年4月26日大宮サッカー場における浦和レッドダイヤモンズ対清水エスパルスにおいて、シジマールの行動を過度な挑発であると解釈した浦和サポーターたちが激怒し物を投げ込むなどでスタジアムが混乱した為[11]、事態収拾の為に衆目で土下座する事件が起きた[12]

日本ではリーグ戦61試合、カップ戦7試合、天皇杯4試合に出場した。

引退後

現役引退後は2003年から2006年3月まで静岡県菊川市国際開洋第一高等学校サッカー部コーチを務めた。その後はプーマサッカークリニックの講師を経て、静岡県西部1部リーグに所属するVOLARE FC(現・浜松シティF.C)の監督に就任するとともに大阪学院大学サッカー部の特別コーチも務めた。2009年からは柏レイソルのGKコーチに就任し高橋真一郎新監督の下で菅野孝憲南雄太らを指導した。2011年、チームスタッフとして同クラブ、リーグ優勝の場に立ち会う。

2013年、ヴィッセル神戸のゴールキーパーコーチに就任。2014年12月12日、ヴィッセル神戸のゴールキーパーコーチから退任することが発表された。

2015年2月から、浜松開誠館高等学校のGKコーチを務め[13]、翌年の2016年は、タイ・プレミアリーグタイ・ポートFCのGKコーチを務めた。

2017年からはJ3藤枝MYFCのGKコーチに就任直後[14]、開幕前にGKの佐藤隼が負傷離脱し、所属GKが2人になったため、負傷や退場などによるGK不在という最悪のケースを防ぐためにGKコーチだったシジマールがサポート役として現役復帰することになり[15]、3月31日にJリーグに選手登録され、実に22年ぶりに選手として復帰することになった[16]4月16日のJ3・グルージャ盛岡戦で控えGKとしてベンチ入りを果たした後[17]4月28日に選手登録を抹消[18]

2018年、藤枝MYFCのヘッドコーチに就任した[19]。その後、再びGKコーチとなり2022年に退団。

2023年、ヴィッセル神戸のGKコーチに約8年ぶりに就任した[20]

人物

身長は183cmだが、両腕を広げた際の長さは193cmである。

名前の由来は、兄のシジネイと、出生当時のブラジル代表GKジウマールから名付けられた。

テレビ番組『やべっちFC』に番組専属ゴールキーパーとして度々出演し、宮本恒靖とのフットサル対決や中村俊輔とのフリーキック対決などで活躍を見せている。

2006年に結婚した妻のホザンジェラ・岩瀬・マルチンスは1990年に来日した日系ブラジル人で、浜松を中心に大学、市民講座などでポルトガル語の教師を務めている。シジマール自身も流暢な日本語を話す[21]

2013年、クラブ100週年を記念してファンとジャーナリストの投票により選定されたキンゼ・デ・ピラシカーバの歴代ベストイレブンに選ばれた[22]

2013年、Jリーグ20週年を記念してJリーグが実施したJクロニクルベストにて、サポーター投票により川口能活楢﨑正剛に次ぎ歴代ベストイレブンGK部門の3位となった[23]

2019年に雑誌Numberのアンケートで、これまでJリーグでプレーした最強の外国人GK部門で第1位に選ばれた[24]

過去の出演番組

所属クラブ

個人成績

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国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
1993清水-J1706040270
19943001000310
1995140--140
2017藤枝44J300--00
通算日本J 6107040720
通算日本J3 00--00
総通算 6107040720
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指導歴

出典

関連項目

外部リンク

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