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ビルマに存在した王朝 ウィキペディアから
コンバウン王朝(ビルマ語: ကုန်းဘောင်ခေတ်、英語: Konbaung dynasty)は、ビルマ(Burma、現在のミャンマー)に存在した最後の王朝(1752年 - 1886年)である。アラウンパヤー朝ともいう。
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第二次タウングー王朝が衰退すると、下ビルマのモン族は上ビルマに侵入、モーソーボ(現在のシュエボー)の首長アウンゼーヤがこれを撃退してアラウンパヤーと名乗った。アラウンパヤー王はモン族の本拠地バゴー(ペグー)を下し、東部のシャン地方や西方のマニプルにまで遠征してインパールを占領した。
第3代シンビューシン王は1766年タイのアユタヤ王朝を下すが、雲南南部のタイ族小邦の宗主権をめぐって対立した清軍と交戦し、停戦後に清と冊封関係を結ぶ。
1782年に前王を殺害して即位したボードーパヤー王はアラカン王国を征服し、マニプル王国やアッサム王国を支配下に治め、ビルマ史上最大の版図を実現した。しかし、ビルマの西方への拡大はインドを支配するイギリス当局の利益と衝突し、英緬戦争が勃発した。
ビルマは三次にわたる英緬戦争に敗れ、最後のティーボー王はボンベイに幽閉された。1886年にビルマは英領インド帝国に併合された。
歴代のビルマ王朝同様に一夫多妻制を採用し、建国者のアラウンパヤーが全ての王子に王位継承権があり、年齢順に即位するという原則を作ったため、多数の子女による内紛がたびたび起き、結果として王権の衰退を招いた。ミンドン王の王妃の一人だったシンビュマシンは、1878年のミンドンの死及びティーボーの即位に当たってティーボーの異母兄弟約80人を粛正して反乱を防いだが、わずか7年で王国は滅亡した。
フルッタウ(လွှတ်တော်)は、立法、司法の機能を持ち、国王の委任を受けて王政を運営した。
ビェダイク(ဗြဲတိုက်)は、宮廷の内政を司る枢密院として機能し、国王と他の王室機関との対話者も務めた。
シュエダイク(ရွှေတိုက်)は王室の宝庫であり、国家の貴金属や宝の保管庫として機能していた。さらに、シュエダイクは州(မြို့)の公文書を保持し、詳細な系図や国勢調査報告書など、さまざまな記録を維持していた。
ビルマ王国軍を参照
王室に使える宦官など多くの数の従者、バラモン(ပုဏ္ဏား)という神々への儀式、占星術、祈りの儀式の専門家が仕えていた。
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