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東ローマ帝国の首都 ウィキペディアから
コンスタンティノープル(英: Constantinople、ラテン語: Constantinopolis、古代ギリシア語: Κωνσταντινούπολις / Kōnstantinoúpolis、現代ギリシア語: Κωνσταντινούπολη / Konstantinoúpoli)は、東ローマ帝国の首都であった都市で、現在のトルコの都市イスタンブールの前身である。
強固な城壁の守りで知られ、330年の建設以来、1453年の陥落まで難攻不落を誇り、東西交易路の要衝として繁栄した。正教会の中心地ともなり、現在もコンスタンティノープル総主教庁が置かれている。
コンスタンティノープルは、330年にローマ皇帝コンスタンティヌス1世が、古代ギリシアの植民都市ビュザンティオン (古希: Βυζάντιον) の地に建設した都市である。この地は古来よりアジアとヨーロッパを結ぶ東西交易ルートの要衝であり、また天然の良港である金角湾を擁していた。都市名は「コンスタンティヌスの町」を意味する(ラテン語:Constantinopolis)。
330年より東ローマ帝国の行政首都として建設された[1]。西ローマ帝国において西方正帝が消失した後には同地で「新ローマ」「第2のローマ」とする意識が育ち、遅くとも6世紀中頃までには定着した。東ローマ帝国の隆盛と共に、30万~40万の人口を誇るキリスト教圏最大の都市として繁栄し、「都市の女王」「世界の富の3分の2が集まる所」とも呼ばれた。また古代の建造物が残る大都市としてその偉容を誇った。正教会の首長であるコンスタンティノープル総主教庁が置かれ、正教会の中心ともなり、ビザンティン文化の中心でもあった。都市の守護聖人は聖母マリアである。
コンスタンティノープルは強固な城壁の守りでも知られ、東ローマ帝国の長い歴史を通じて外敵からの攻撃をたびたび跳ね返した。しかし1204年に第4回十字軍の攻撃を受けると衰退が加速した。1453年にオスマン帝国によりコンスタンティノープルが陥落し、東ローマ帝国が滅亡すると、この街はオスマン帝国の首都となった。日本ではこれ以後をトルコ語によるイスタンブールの名で呼ぶことが多い。ただし、公式にイスタンブールと改称されるのはトルコ革命後の1930年である。
日本語では、一般的に英語名 Constantinople の音訳である「コンスタンティノープル」がよく用いられているが、古典ラテン語では「コンスタンティノポリス(Constantinopolis)」、1453年にオスマン帝国に占領されてからは、オスマン語で 「コスタンティーニーイェ(قسطنطينيه Ḳusṭanṭīniyye)」と呼ばれた。現在の都市名としては、トルコ語の「イスタンブル(İstanbul)」である。
このほかの自称としては、「新ローマ(古ラ:Nova Roma ノウァ・ローマ、古ギ:Νέα Ῥώμη ネア・ローメー)」「その町(古ギ:ἡ Πόλις イー・ポリス[注釈 1])」などがある。現在でもギリシアにおいてはこの都市を言い表すのにイスタンブルという呼称は使わず、専らΚωνσταντινούπολη(コンスタンディヌーポリ)や η Πόλη(イ・ポーリ)と呼び習わしている。外名としては、ロシア語などのスラヴ系の史料の中で「皇帝の町(Царьгра́д ツァリグラート)」という呼び名が使われているほか、ヴァイキングから「偉大な町(古ノルド語: Miklagarð ミクラガルズ)」と呼ばれることもあった。漢字では「君府」或いは「帝都」という当て字も用いられる。
ビュザンティオンは、古代ギリシアの植民都市に起源を持ち、古来よりアジアとヨーロッパを結ぶ東西交易ルートの要衝であり、また天然の良港である金角湾を擁していた。コンスタンティヌス1世(大帝)は、リキニウスとの内戦の中で324年にビュザンティオンを攻略すると、この地に着目し、都市計画を一新して「コンスタンティノポリス」を建設した。落成式は330年5月11日に執り行われた[2]。しかし、コンスタンティノポリスの建設は単に過去の皇帝たちが行ってきたのと同様な戦勝記念の恒例行事であって、「新ローマの建設」とか「ローマからの遷都」といったような大それた出来事ではなかった[3]。当時、コンスタンティヌス1世がローマに代わる「新しいローマ」を建設したという考えは存在しなかったようである[4]。
建設当初のコンスタンティノープルは一地方都市の域を出ておらず、属州知事の管理下に置かれていた[5]。東方で皇帝府が置かれていたのはアンティオキアであり[6]、コンスタンティヌスの後の皇帝達もコンスタンティノープルを訪れることは希であった[6][7]。この都市には首都ローマに倣って元老院が設置されることになるが、執政官、法務官、護民官、財務官、首都長官などの重要な首都機能は設けられなかった(ただし財務官と法務官はディオクレティアヌス時代に既に重要な職種ではなくなっていたと考えられ[注釈 2]、コンスタンティノープル長官は358年12月11日又は9月11日に設置されたとされる[要出典][注釈 3])。また元老院も首都ローマの元老院と比べると規模や法的権限が小さく、ローマの元老院議員がクラリッシムス[注釈 4]とされていたのに対し、同地の議員達は格下のクラリ[注釈 5]とみなされていた[8]。市域もビュザンティオン時代と比べれば大幅に拡大されたが、後代より狭かった。おそらくはコンスタンティヌス1世にしても、コンスタンティノープルを首都ローマと対等の都市にしようとまでは考えていなかったであろうことが様々な要素から示されている[8]。今日では、コンスタンティヌス1世が330年にローマからコンスタンティノポリスへ遷都したとする神話は、後世に偽造された歴史にすぎないと考えられている[9][4][10]。
しかし、コンスタンティノープルは徐々にその重要性を増していくことになる。コンスタンティウス2世は、359年にコンスタンティノープルを地方自治都市へと昇格させた[11]。テオドシウス1世は、380年にコンスタンティノープルへと入城すると、治世の多くをこの街で過ごす最初の皇帝となった[7]。テオドシウス1世の死後にローマ帝国の東西分裂が深刻化した後は、コンスタンティノープルは東ローマ帝国における皇帝府の所在地として定着した。410年に首都ローマが西ゴート人により掠奪を受け、帝国の東方でもフン族がドナウ川の北に迫ってくると、テオドシウス2世は防衛体制を強化するため、現在も残っている難攻不落の「テオドシウスの城壁」の建設を開始し、413年に完成させた[12]。テオドシウスの城壁により市域はそれまでの約2倍に拡大され[13]、首都ローマに倣って7つの丘も設定された[14]。以後ローマが急速に衰退していったのに対して、コンスタンティノープルの人口は増加し続けた。市内には、宮殿やハギア・ソフィア大聖堂を始めとする教会、大浴場や劇場といった公共施設が数多く作られた。410年にローマ市が陥落すると、東ローマ帝国の人々には「コンスタンティノープルは第2のローマ」という意識が芽生えていった[注釈 6]。
6世紀になると毎年5月11日が東ローマ帝国の重要な記念日として盛大な開都祭が行われるようになり、「コンスタンティヌスが新しいローマを建設した」という意識が定着した[15]。時の皇帝ユスティニアヌス1世のもとで、東ローマ帝国は最初の隆盛を迎え、コンスタンティノープルはアンティオキアやアレクサンドリアにも匹敵する世界的に見ても最大級の大都市[16]にまで成長した[17]。市民にはパンが無料で支給される一方、競馬場では戦車競走が連日開催され市民はそれに熱狂していた。古代ローマにおける「パンとサーカス」はこの時代でも帝国の東方では維持されていた。
ユスティニアヌス1世の死後、東ローマ帝国は急速に衰退し、領土は縮小していった。7世紀になるとサーサーン朝、次いでイスラムのウマイヤ朝によってシリア、エジプトなどの穀倉地帯を奪われ、皇帝ヘラクレイオスはコンスタンティノープル市民へのパンの支給を廃止した。674年から678年にはコンスタンティノープルはウマイヤ朝の海軍によって毎年包囲された。この際は秘密兵器であるギリシアの火を用いてイスラム海軍を撃退することに成功したが、相次ぐ戦乱などから市民の人口も激減し、水道や大浴場といった公共施設は打ち棄てられ、市内には空き地が目立つようになった。
717年から718年にはウマイヤ朝の大遠征軍がコンスタンティノープルを包囲したが、皇帝レオーン3世によって撃退された。徐々に東ローマ帝国が国力を回復させていくと、コンスタンティノープルにも再び活気が戻ってきた。766年には人口増加に対応するために水道が修復された。コンスタンティノープルは戦車競走に熱狂していた古代の市民に代わって、絹織物や貴金属工芸などの職人や東西貿易に従事する商人などが住む商工業都市として甦ったのである。
東ローマ帝国が東地中海の大帝国として復活した9世紀になると、宮殿や教会・修道院が多数建設され、孤児院や病院のような慈善施設も建てられた。古代ギリシア文化の復活とそれを受けたビザンティン文化の振興も進み(マケドニア朝ルネサンス)、コンスタンティノープルは東地中海の政治・経済・文化・宗教の拠点として、またロシア・ブルガリア・イスラム帝国・イタリア・エジプトなどの各地から多くの商人が訪れる交易都市として繁栄を遂げ、10世紀末から11世紀初頭の帝国の全盛期には人口30万~40万人を擁する大都会となった。当時の西ローマ帝国にはこの10分の1の人口を抱える都市すら存在せず[注釈 7]、コンスタンティノープルはキリスト教世界最大の都市であった。
11世紀後半になると、東ローマ帝国はセルジューク朝の攻撃などを受けて弱体化するようになり、コンスタンティノープルの繁栄はいったん衰えるが、11世紀末から12世紀のコムネノス王朝の時代に帝国が再び強国の地位を取り戻すと、国際交易都市としての繁栄を取り戻した。
11世紀以降、イタリアの都市国家が東地中海に勢力を伸ばしてきた。特にヴェネツィア共和国は東ローマ帝国と徐々に対立を深め、1204年の第4回十字軍を教唆してコンスタンティノープルを海側から攻撃させた。海側の城壁は高さも低く、コンスタンティノープルの弱点だった。4月13日、コンスタンティノープルは陥落し、十字軍兵士による暴行・虐殺・掠奪が行われた。
十字軍はコンスタンティノープルを首都としてラテン帝国を建てたが、存立基盤が弱く、ヴェネツィアの海軍力・経済力に依存していた。このためコンスタンティノープルにあった美術品や宝物は、食糧代などとしてほとんどヴェネツィアに持ち去られ、壮麗さを誇った宮殿・教会といった建造物も廃墟と化していった。1261年7月に東ローマの亡命政権ニカイア帝国は、たまたま守備兵が不在だったのを突いて、コンスタンティノープルを攻撃、奪回した。これによって東ローマ帝国は再興されたが、国力は以前に比べて格段に弱くなっており、帝都の大半は荒れるに任された。人口も4万~7万人に減少し、貿易もヴェネツィアやジェノヴァといったイタリアの都市に握られてしまい、都に富をもたらすことはなかった。
14世紀になるとコンスタンティノープルはオスマン帝国軍に度々包囲され、東ローマ帝国の命運も風前の灯火となった。ただ、文化だけは最後まで栄え、古代ギリシア文化の研究がさらに進み、ビザンティン文化の中心としての地位を維持した。この文化の繁栄は、当時の皇室の姓(パレオロゴス王朝)を取って「パレオロゴス朝ルネサンス」と呼ばれ、西欧のルネサンスに非常に大きな影響を与えた。
1453年4月、コンスタンティノープルの奪取に並々ならぬ意欲を燃やすメフメト2世が、10万のオスマン帝国軍を率いてコンスタンティノープルを包囲した。オスマン側は大型の大砲(ウルバン砲)を用いたり、艦隊を陸越えさせて金角湾に入れるなど、大規模な攻囲作戦を行なった。コンスタンティノープルの堅固な防壁は健在であり、東ローマ帝国軍とイタリア人傭兵部隊はわずか7千の兵力だったにもかかわらず2か月に渡って抵抗を続けた。しかし5月29日未明、オスマン軍は総攻撃を行い、閉め忘れた城門からついに城内へと侵入した。コンスタンティノープルは陥落し、最後の皇帝コンスタンティノス11世パレオロゴスは乱戦の中で戦死、東ローマ帝国は滅亡した。 メフメト2世は兵士たちに都市を3日間略奪するように命じたが、古代から続くこの帝国への敬意を忘れなかったため、数時間後に一転して軍の行動を阻止するように命じた。 その後ハギア・ソフィア大聖堂などはモスクへ改修された。
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