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キングII作戦(キングツーさくせん、Operation KINGII、作戦計画 13-44号)とは太平洋戦争中の連合国軍によるレイテ島及び周辺島嶼の攻略作戦である。日本側の対応作戦は捷一号作戦。捷号作戦と比較すると、日本語の文献で本作戦名が示される事は極めて少ない。
1944年7月末、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトが出席して行われた軍首脳とのハワイ会談にて、フィリピンへの足場作りを認められた南西太平洋方面最高司令官ダグラス・マッカーサーは、その進攻計画の作成を行った。以前よりマッカーサーはレノと呼ばれるフィリピン進攻計画を持っており、レノ5号(Reno-V )においてはルソン島への進攻は1945年5月を予定していた。8月に入りテニアン、グアムが相次いで陥落、マリアナ諸島を完全に占領したアメリカ軍は、ペリリュー島、ヤップ、タラウド諸島などが次の目標として見えてきた。
8月16日、陸軍参謀総長ジョージ・C・マーシャルはスケジュールを短縮できるとしたマッカーサーに計画の再提出を命じ、マッカーサーは作戦名称をマスケーティア(Musketeer )と改名し27日に計画を提出した。それによれば攻略予定は9月15日にモロタイ、10月15日にタラウド、11月15日にサランガニ、12月20日にレイテ、などとなっており、リンガエンへの上陸時点でレノ5号に比較し40日短縮されていた。統合参謀本部はこの一部を採用し、サランガニ攻略にキングI、レイテ攻略にキングIIの名が付与された(日程はそのまま)。
ただし、フィリピンに足場を設けた後にどの方向に進攻するかについては、中華民国との連絡に重きを置いた台湾案とフィリピン奪回・制海権奪取に重きを置いたルソン島案を巡って対立があり、9月になってもなお議論の収拾をつけないまま棚上げされていた。この問題は10月3日の統合参謀本部決定でルソンに決着するが、キングII作戦自体はその以前より進められている状態にあり、フィリピン全体を奪回する作戦であった訳ではない。
8月29日、指揮権を移譲されたウィリアム・ハルゼーは第3艦隊を出撃させ、内南洋、フィリピン周辺の日本軍の拠点を順次空襲した(詳細は下記)。その際、ダバオ事件が起き、その渦中で撃墜されながらも味方の手で救助されたパイロットの報告などによって新たな情報を得た。このことでハルゼーは事前の予想以上に日本軍の戦力が弱体化していると判断し、レイテ島攻略の繰上げを具申した。この具申は軍中央で審議される過程で上級指揮官から大統領に至る支持を次々と取り付け、9月15日、攻略を2ヶ月繰り上げる決定がなされた。この時、サランガニの攻略は取り止められた。
ところで、フィリピンへの進攻には中部太平洋上からの進攻ルートと重なる面があった。また、フィリピンは南西太平洋方面軍が従来作戦地域としてきたパプア・ニューギニアと異なって近隣の味方航空基地とも離れた場所にあり、サランガニ攻略の取り止めでその傾向は更に拍車がかかった。更に、日本本土と南方資源地帯との航路を遮断する位置にあることから、日本軍の大規模な反撃が予想された。従って、太平洋方面軍の靡下にある太平洋艦隊の協力が不可欠であった。
原勝洋によれば、キングII作戦は、次の作戦要領の説明で述べるように3つの段階からなっていた。
骨子は上記のとおりである。
8月当時、太平洋艦隊の主力である機動部隊の指揮は、第5艦隊と呼ばれ、レイモンド・スプルーアンスが指揮をとっていたが、基本的には一作戦(戦役)ごとにハルゼーと交代することになっており、一方が作戦中にもう一方が後方で次の作戦を練る体制とし、この仕組みを推奨したのは太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツであったが、指揮官の疲労を逓減する狙いがあった。ハルゼーの指揮する第3艦隊司令部は当初、書類上だけの存在であったが、徐々にスタッフを集め、1944年春に組織として始動した。スプルーアンスからの指揮の引継ぎは8月26日になされた。ハルゼーはハワイ会談の際にフィリピン攻略を進める進言をしており、前職の南太平洋方面軍司令官時代からマッカーサーとの関係は良好であった。
本作戦の内容面で注目すべきは、ニミッツがハルゼーに下した命令に但し書きを加えていたことである。そこには、第3艦隊の攻撃の結果日本艦隊が出撃してきた場合、作戦のどの段階であろうと最優先でこれを叩くというものであり、その任務は第7艦隊の支援にすら優越するというものである。
このような計画が生まれた背景にはマリアナ沖海戦の顛末が影を落としている。このときスプルーアンスはサイパンに上陸する両用戦部隊の支援と護衛を最優先事項とし、日本艦隊の追撃を行なわなかった。そして、同海戦時には第3艦隊の上級参謀が観戦目的で乗組み、一部始終を直接目撃していた。そのため、スプルーアンスは海戦後各所より消極性について批判を受け、決定的な戦果を挙げられなかった結果に不満を抱いたハルゼーと参謀団は作戦要領を練った際に、上記のような攻撃的な方針を纏め、ニミッツはそれを許可したのであった[1]。ただし、艦隊攻撃以外の後方拠点への空襲については、「マッカーサー軍に対する直接掩護の必要があれば、いつでもその任に当たる、という諸制限は相変わらず存在する」と10月19日にも釘を刺されている[2]。
10月23日の時点でアメリカ海軍はハワイとアジアの間に44隻の潜水艦を配置し、監視を行っていた。別の資料によれば、太平洋艦隊直轄の潜水艦隊である第17任務部隊は豊後水道からフィリピン周辺までの海域に3隻が1群となって21隻が展開、第7艦隊指揮下の潜水艦隊である第77任務部隊第1群はフィリピン西部などに7隻を配置しており、海戦時に栗田艦隊を襲撃したのは後者である。このように潜水艦の指揮系統も2つに分かれていたが、ハルゼーは台湾沖航空戦の直前に、第3艦隊が進出する当該海域で行動中の太平洋艦隊の潜水艦群を自分の指揮下に置くように要求し、ニミッツに却下された。その理由は潜水艦の任務には通商路攻撃も含まれるからであった。ニミッツは代案として潜水艦30隻を送り込み、可能な限り支援をさせる旨を伝えたが、ハルゼーはその配置計画を見てあちこちに穴があると応えた。このことを含め、潜水艦による敵情監視は後に日本の機動部隊発見を混乱させる元となった。
本作戦では南西太平洋軍の流れと南太平洋軍の流れが合流する位置にあることから、連合幕僚長会議(Combined Chiefs of Staff[3])は統一行動の為に指揮権の改定を行い、作戦の最高指揮官をマッカーサーとした。ただし、第3艦隊は引き続きニミッツの命令系統に保持され、本作戦の際共同して行動するという体制がとられた。
また、従来南西太平洋方面軍に属する第7艦隊の兵力は弱勢であった。しかし、ダバオ事件(詳細はレイテ沖海戦参照)の影響で本作戦が2ヶ月繰り上げられることが決められ、その際中部太平洋方面軍から海軍のウィルキンソン中将が指揮する両用戦部隊の第7艦隊への移管が図られ、大幅な増強があった。具体的には、9月13日、ハルゼーからの進言を受けたニミッツが、キングに対してヤップ攻略を取り止め、パラオは攻略したいと電報を送り、それによりヤップ攻略用の第24軍と両用作戦艦艇が浮くので、それをマッカーサーに割愛する申し出を電報で送ったのであった。これは当日夜急遽開かれた統合参謀長会議で認められ、統合参謀本部名でマッカーサーに申し出を受諾するように電報が打たれた。翌日マッカーサーはこれを認め、レイテ攻略を2ヶ月繰り上げる進言を行い、この進言は当時ケベックで開催していた米英軍事会議に諮られ、マッカーサーからの返電から僅か90分で一連の決定が下された。この措置により、第3艦隊は機動部隊と補給を担当する第30任務部隊第8群のみの編成となった[4]。谷光太郎は同時期の日本側の意思決定プロセスと比較してこの即決振りを高く評価している。
指揮については他の項でも述べたが、本節で述べるのは、よりハード的要素の強い事項である。
ハルゼーは第5艦隊を引き継ぐ際に旗艦として空母部隊に随伴可能な速力を持ち、航続距離に優れる艦載機を持つ敵機動部隊に間合いを詰めた際に、敵の攻撃から司令部機能を喪失しない防御力を持つ艦としてアイオワ級戦艦を要求、これは受け入れられハルゼーは24日にニュージャージー(USS New Jersey, BB-62 ) を率いて真珠湾を出港した。同艦は26日にサイパンに到着し、ハルゼーはスプルーアンスから指揮を引き継ぎ、艦隊の名も第3艦隊に変わった。その後直ちに第1段階の日本軍拠点への空襲を指揮した(別記)。ハルゼーは思いつきで作戦行動を取る傾向があり、その命令を確実に遂行するために第3艦隊司令部は大きくなり、約200名(内士官50名)が配員され、連絡係は18名いた[5]。この陣容はスプルーアンスの司令部の倍であったという。また、カール・ソルバーグは『決断と異議』の後書きでインタビューを行なった者の内23名が1944年10月第3艦隊の参謀をしていたと述べている。
第7艦隊による上陸作戦の総指揮には輸送船を改装して指揮通信設備を備えた揚陸指揮艦ワサッチ(USS Wasatch, AGC-9 )が使用された。本艦は海事委員会(Maritime Commission)型の標準型貨物船C2-S-B1型(満載排水量12,560トン)をベースとするアパラチアン型(Appalachian class )の1艦であり、同艦種の存在は大戦中軍極秘とされ、戦後公表された。本型は広く、豊富な指揮通信能力と電子装備、作戦指揮用のスペースを持っている。揚陸指揮艦は直接戦闘を行わない艦種であるため、本型の武装は船首尾に配した2基の5インチ単装砲、および数基の40mm機銃程度である。大和の場合、煙突と後檣の間に傾斜したアンテナマストを設置しているが、それでも展張するアンテナの大きさは10m程度が限界であり、アメリカ戦艦では多数の垂直ホイップアンテナを煙突周辺に配置したケースもあった。一方本型の場合、前後のデリック支塔と船橋はそれぞれ30m以上離隔しており、この配置を徹底的に活用してアンテナの展張を行っている。このレイアウトは、戦闘艦艇のように砲の配置や射界による制約がない商船船型で可能なものであった。なお、下記に述べる低周波向けのアンテナの送受信能力を良くするには、波長に比例した大きなものを使用することが望ましい。また、大口径主砲発砲の際の爆風(ブラスト)でアンテナが振動することもない(なお、日本側の事例であるが、充実した旗艦設備と紹介されることの多い戦艦大和はシブヤン海海戦時、自艦の強大な対空砲火によりアンテナを損傷したり、火砲の発砲による振動で通信室が使用不能となる弊害が報告されている)。
本型には司令部要員は368名乗組んでいた。指揮系統・職務の割当については不明であるが、アメリカ軍は両用作戦の規模に応じて指揮艦の数を変えており、本作戦では揚陸4個師団、予備2個師団に対してアパラチアン型を中心に計6隻が充てられた[6]。
佐藤和正は著書『レイテ沖海戦』で謎の反転問題を論じた際、日本海軍の短波通信の扱いについて触れている。それによると太陽黒点活動等自然界の悪影響は12-13MHz付近で強く現れ、2-4MHzでは小さいことを発見した日本海軍は低周波での艦隊通信を確立する必要を認識し、その開発に着手したものの太平洋戦争を迎えて広く実用するには至らなかったことを述べている。一方、下記の作戦計画の通信計画では各隊・目的別の周波数割当についての記載があり、そこには2-4MHz[7]の周波数が多く記されている。一例としては、第7艦隊第77任務部隊司令官より第3艦隊司令官への割当は4,135Kcsの電信(CW)である。なお、電信は当時の通信で一般的に主用されていた手段であった。
また、揚陸作戦の指揮との関連では近垂直放射空間波(Near Vertical Incidence Skywave,NVIS)の活用があった。これは、アメリカの無線技術者で博士のハロルド・ベバレッジ(Harold Beverage)により発想されたものである。短波は直接波(地上波)と空間波(反射波)により伝播するが、近距離ではその両方が伝達しない不感帯が存在する。これを解消するために、高角度で電波を発射する事で短波でも近距離で通信を行おうとするものである(詳細は外部リンク)。密林での通信確保には有用な方法で揚陸指揮艦と上陸部隊との通信確保に使われ、よく知られた事例としては1944年6月のオーバーロード作戦にてアンコン(英語: USS Ancon (AGC-4))が使用し、トラブル無く作戦を成功させるのに寄与した例があった。この手法はその後も重用され、朝鮮戦争、ベトナム戦争などでも使われた。なお、アンテナの設置はダイポールと異なり水平かつ波長に対して低い位置(0.1~0.25波長)で行う。
ニミッツは太平洋艦隊司令部と同じ敷地にある情報部門のウルトラや通信傍受の解析結果から毎日日本軍の動向について報告を受け、それを元に前線の第3艦隊などに指示を出していた。この情報は本作戦でも、有用な結果をもたらすこともあれば、誤った方向に推測を導く事もあった。
また、アメリカ軍はガダルカナル島の戦いの頃から士官による文書伝達制度(Officer Messenger Service)を設け、直接文書を携行させて南太平洋方面軍と南西太平洋方面軍との連絡を行なっていた(後年この戦いのノンフィクションを執筆したカール・ソルバーグもその任務の経験があった)。この仕組みは電信によるよりも資料の伝達が早いことがあり、アメリカ軍は重用していた。本作戦でも両組織の連絡調整を緊密且つ迅速に行なう必要が生じ、連絡将校が派遣された。
さらに、情報の共有化については次のような事実が知られている。従来から第3艦隊は、南西太平洋方面軍からあらゆる情報を貰えるように資料づくりなどを図ってきたが、8月頃になると南西太平洋方面軍は多くの情報を保有していた。第7艦隊の情報本部には士官だけで150名がおり、マラッカム大佐が指揮を取っていた。集められた情報の形態としてはSIGINTの他HUMINTがあり、海図、地図、写真、戦況報道、各種報告書等を各前進基地や艦隊に送る仕組みが完成していた。これらの活動の根本にはフィリピンのゲリラ、コースト・ウォッチャー、捕虜からの尋問などがありゲリラの情報に大きな関心が寄せられた。海軍乙事件で押収した新Z作戦の計画書も回送されていたが、マリアナ沖海戦には間に合わず、本作戦遂行時も、一部の情報士官以外はそこから日本軍の活動推定に有用な情報を見出す事が出来なかった[8]。
9月26日の段階で南西太平洋方面軍(主に第7艦隊)向けに発令された作戦計画13-44について、冒頭主要部を日本語に翻訳すると概ね次のようになる。詳細は計15の別紙に記載されている。日程的にも第2段階以降のものであり、主な記述は第3段階となる。作戦の計画文書は連合陸海軍(Combined Allied Naval Forces,CANF)、南西太平洋軍(Southwest Pacific Area,SWPA)の連名となっており、マスケティーアからの継続性が見て取れる。別紙の作戦要領、日程等に示されているがA-dayは10月20日を示している。この編制は9月26日時点のものであり、細部では実際の作戦時と異なる部分もある。第3艦隊についてはレイテ沖海戦#戦闘序列(連合軍)のを参照のこと。
MUSKETEER
KING II
連合陸海軍(Combined Allied Naval Forces,CANF)
南西太平洋方面軍(Southwest Pacific Area, SWPA)
- 作戦計画 13-44
あらゆる予防措置をとり、この計画が敵中に落ちる事を防止すること。 もし艦船に拿捕或いは亡失が差し迫った際には、この計画は完全に破棄される。
A4-3(6) |
連合国海軍部隊司令官、SWPA |
作戦計画
CANF, SWPA NO. 13-44
77.1.2 巡洋艦部隊 コニー(CONEY)海軍大佐
司令官支援用航空機、中部フィリピン
攻撃軍 ホワイトヘッド(WHITEHEAD)海軍大佐
多用途、護衛並びに哨戒用艦艇
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77.5.2 第7艦隊より配属した測量調査船 海軍中佐
記載箇所で
連合軍は次の線: マリアナ-ウルシー-パラオ-モロタイ に沿って占領しており、そして東部よりフィリピンに向けた諸処の進出を調整している。空母並びに沿岸の基地航空機による攻撃は、フィリピンの敵航空部隊を著しく減勢させている。日本がフィリピンに配置した航空部隊は消耗した状態に陥っており、それは我が方の艦載機が持つ能力により、特定の地域の制空権を確立することが、東部フィリピンの沿岸一帯のどの地点においても可能だからである。航空機と潜水艦による攻撃は甚大な損失を敵船腹に与えており、それ故に敵のフィリピン各部隊への兵站支援は大きな障害を抱えている。
T.C.キンケイド
海軍中将、
連合海軍部隊司令官
第7艦隊司令官並びに
中部フィリピン攻撃軍司令官
作戦が進展するごとに台湾沖航空戦、十・十空襲、レイテ沖海戦が発生した。連合軍は一部に不備な点もあったもののこれらを計画通りこなし、反撃してきた日本軍に決定的打撃を与えた(詳細は各記事を参照のこと)。反撃による進攻スケジュールの遅れは2週間に過ぎなかった。以後、作戦の中心は10月3日の統合参謀本部決定に従いルソン島の戦い、硫黄島の戦い、沖縄戦に移行する。
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