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エメリア・エストバキア戦争(エメリア・エストバキアせんそう)は、バンダイナムコゲームス(後のバンダイナムコエンターテインメント)のXbox 360用フライトシューティングゲーム『エースコンバット6 解放への戦火』の舞台となった架空の戦争。
2015年8月30日のエストバキア連邦によるエメリア共和国の首都グレースメリアへの侵攻に端を発し、その後のエメリア軍の反攻により2016年4月1日もしくは5月下旬に終戦を迎えた戦争である。EE戦争[1]やエ・エ戦争(E.E. War)[2]とも呼ばれる。本項では便宜上、エメリア・エストバキア戦争の背景となったエストバキア内戦についても取り扱う。
1999年7月に小惑星ユリシーズが落着するであろうことが国際天文学連合(IAU)によって予測されており、その被害を懸念した世界各国は地表に落下してくるユリシーズの破片への対抗策を練っていた。当初、主な被害範囲はユージア大陸に集中すると見られており、中央ユージア連合(FCU)を中心とするユージア大陸諸国はユリシーズの破片を迎撃することを目的としたSTN計画を進め、サンサルバシオンにストーンヘンジを建造していた。1998年6月、コモナ天文台が探査衛星による追跡調査を継続して42ヶ月が経過した頃、撮像と重力測定結果を総合したところ小惑星本体の組成がより鮮明化し、ユリシーズの内部構造に空洞もしくは隙間が存在している可能性が明らかになった。この内容をもとにIAU天文物理学チームが予測軌道の再計算を行い、シールズブリッジ大学も検算を受託した。地球の重力とユリシーズの質量から換算すると、分裂したユリシーズは大別して2つのグループに離散し、従来想定されていた以上の広範囲に渡り岩石の破片が地表面に分散するものと判明した。具体的には東経135度から西経30度までの子午線を貫く形で破片が分散すると予測され、アネア大陸東部にも落着すると見込まれた。調査結果は被害予測パターンの月次更新報告としてIAU単独で7月に公表された。新たに加えられた落着予測範囲はストーンヘンジの射程外であったが、FCUは難航している国家間の調整や、STN計画全体の安定性確保と確実な遂行を同盟国間で行う事を優先し、ストーンヘンジの迎撃可能範囲の拡大は見送られた。ユリシーズ落着までおよそ1年しかなく、IAUの公表にアネア大陸諸国は騒然とした。[3]
エメリアは隕石迎撃施設の建造は行わず、グレースメリア城など各種城塞の地下をシェルターとして施工して対策した。また避難民の受け入れ先としてもエメリア首都グレースメリアはオーシア首都オーレッドに次ぐ規模となった[3]。エストバキアはストーンヘンジと同様に大型レールガンによる隕石迎撃を目的とした施設「シャンデリア」の建造を開始した。エメリアは隕石迎撃兵器の軍事転用を危惧しており、計画差し止めを求めていた[4]。エストバキア政府はシャンデリアの建造を続行したが、シャンデリアは検証を重ねるごとに砲台は大型化し、隕石迎撃の為の照準に必要な基部旋回機構の開発が難航した。隕石迎撃施設として運用することは叶わず、アネア大陸東部に位置するエストバキアにはユリシーズの破片が多数落着することとなる。この結果としてエストバキアの経済やインフラは破綻した。それに対してエメリアの隕石被害は僅少であった。エメリア政府はユリシーズ復興援助政策を開始し、2000年1月10日からエストバキアに対してNGOなどと共同で復興支援を開始した[5]。
エストバキア内戦 Estovakian Civil War | ||
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戦争:エストバキア内戦 | ||
年月日:2007年6月30日 - 2013年10月29日[6] | ||
場所:エストバキア全土 | ||
結果:東部軍閥の勝利。軍事政権の成立。 | ||
交戦勢力 | ||
リエース派統一戦線 | 東部軍閥
北部高地派 |
自主関税同盟
諸島連合 |
指導者・指揮官 | ||
リエース | グスタフ・ドヴロニク
アイザック・アレンスキー |
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経済破綻状態に陥ったエストバキアに対し、エメリアはNGOと共に援助を実施していたが、慢性的な物資不足やインフラ復旧の遅延が発生していた。政治家や官僚は次々に国外へ脱出し、政府は機能を停止した[7]。中央政府の影響力低下に伴って台頭したのが各地の軍人たちであり、リエース派軍閥、東部軍閥、自主関税同盟、諸島連合、北部高地派、政府残党軍と呼ばれる6つの軍閥がエストバキア国内を分割統治したが、こうした統治は上手く行かず、軍閥間の抗争や略奪が発生し小規模な衝突が繰り返されるようになった[8]。これを受けてエメリアによる援助は一時凍結を余儀なくされた[5]。2002年3月20日には情勢悪化のため、オーシアやエメリアなどが参加する戦略物資輸出規制の対象国に指定され[1]、オーシアなどの圧力によってベルカからも兵器の購入ができなくなった[9]。2004年2月1日にはアネア共和国準備機構が設立され、エメリア、エストバキア、ノルデンナヴィクを統一するアネア共和国構想の実現に向けて動き出しており、2008年にはアネア共和国としてアークバードでのG7サミットに参加しているが、エストバキアの情勢悪化に伴って構想は同年10月23日に一時凍結となった。[10]
2007年4月3日にはリエース中将率いるリエース派軍閥がエストバキアの首都含む西部の広範囲を掌握し、名実共にエストバキア最大の勢力となり中央政府を支配下に置いた。リエース派軍閥はリエース派統一戦線(LUF)へ改称すると共に、自身をエストバキアの正当な政府と主張した。LUFは他国から復興支援を受けるための窓口となり、エメリアはLUFの主張する復興政策を支援するためエストバキアに対する援助を再開した。LUFは支援物資を各地に分配し復興の兆しを見せ始めた所もあったが、一方でLUFは支援物資を支配下に置かない地域への弾圧にも転用した[8]。LUFの支配下に置かれることを拒んだグレジーナではLUFがライフラインを破壊し、物資の配給を停止したため約20万人もの犠牲者を出すに至った[5]。この事件を受けて、6月30日にグスタフ・ドヴロニク上級大将率いる東部軍閥が対決の姿勢を示した。それに続くように自主関税同盟、諸島連合、北部高地派といった軍閥が一斉に蜂起し、6年にも渡る本格的な内戦状態に突入した[8]。エメリアによるLUFへの援助は2010年2月19日に打ち切られ、2011年5月9日にはエストバキアに対する復興支援自体が停止された[5]。エストバキア各地で戦闘が勃発し、内戦の過程で軍閥はやがて2つに収斂していった。LUFは自主関税同盟の撃破に成功し、エストバキアでの支配領域が50%以上に上る大勢力となったが、戦線の急激な拡大は軍閥内部で混乱を起こし一時的にLUFの進撃は停滞した。この間に東部軍閥のドヴロニク上級大将は、北部高地派を率いるアイザック・アレンスキー空軍中将との交渉により自派への併合に成功し、また諸島連合を撃破糾合した[11][8]。
2013年1月15日、数に勝るLUFは東部軍閥に対し陸と海から大規模攻勢を開始したものの、東部軍閥の反撃を前に攻撃は頓挫した。東部軍閥の勝利の一因としては、エリートパイロット部隊であるシュトリゴン隊やヴァンピール隊の活躍や、ベルカ戦争やベルカ事変によって発生したベルカや北オーシアからの亡命者を雇って傭兵としたことや、ベルカから亡命してきた技術者の協力で重巡航管制機アイガイオンを建造し戦場に投入できたからであった。LUFは東部軍閥のエリートパイロット部隊とアイガイオンによる連携攻撃で、わずか一週間で支配領域の80%を喪失した。10月29日、エメリア国境付近の戦闘でLUFは決定的な敗北を喫し、リエース中将の戦死によって内戦は終結に向かっていった[8][10]。
アイガイオンの存在は国際社会では表沙汰にならず、フロントライン2012年4月号に寄稿した軍事アナリストによれば「空中艦隊構想は事実上頓挫した」としており[9]、2015年4月の時点ではユークトバニアの偵察衛星によって、4日に渡り巨大な謎の機影がエストバキア南東の沿岸付近から北東沖を飛行し、大規模な石油採掘施設で機影を消したことが明らかになっただけであった[1]。
統一後のエストバキアは主要軍閥の各軍管区司令官を務める将軍から選ばれる「将軍たち(The Generals)」と呼ばれる少数の指導者らによる軍事政権が樹立することとなる。他軍閥の将軍も「将軍たち」に取り入れた理由は、内戦時に東部軍閥に吸収された各軍閥の不満を緩和させるためであった[7]。しかし統一後もユリシーズ落着の影響と内戦によって疲弊した国内をまとめることは困難を極め、インフラ復旧の遅延や、40%を超える失業率、独立を主張する武装勢力に悩まされた。2013年11月には旧LUFの軍人によるアイザック・アレンスキー外相襲撃事件が発生し、怪我により12月2日にアレンスキー外相は死去した。エメリア有力シンクタンクのアマースト研究所による分析では、エストバキアに対する世界的な復興支援が実施されない限り、エストバキアが1990年代の経済水準に復興するまでには30年以上必要と報告している。アレンスキー外相襲撃事件以降から旧LUF系武装勢力の活動が活発化し、2014年2月4日にはビストークにある復興援助物資の一時集積施設が旧LUF系武装勢力の襲撃を受けエメリア兵8名が死亡、NGOスタッフを含む民間人27名が死傷し、5万人分あまりの食料と医薬品などを含む援助物資が奪われた。エメリアのベル特別復興大使はこの事件を受け、同日に行われたエストバキア復興支援会議の席上で、「2011年より停止していたエストバキアに対する復興支援は予定通り再開させる」と表明した。同席上でエストバキアのアントニナ・コズニク外相は、内戦時にエメリア政府が実施したLUFに対する「無計画な援助」をエストバキアにおける内戦勃発の一因として発言し、これに対してベル特使は、「LUFへの支援はエストバキアの早期復興が目的であり、LUFの武力制圧を支援したものではない」とした上で「復興支援を受けている立場にもかかわらず、エストバキアは国内の不満をエメリアに向けるつもりではないのか」と反論の声もあげた。2007年から3年に渡り実施されたエメリアによるLUFへの援助は、東部軍閥を母体とするエストバキア政府との間に暗い影を落としていた。[5]
エストバキアは経済不況にもかかわらず軍備拡張を続けていた。アイガイオンは内戦中に完成したが、空中艦隊を構成する随伴艦は完成していなかった。しかし内戦後も建艦が続き、ギュゲスとコットスをそれぞれ2隻建造し空中艦隊を完成させた。また東部軍閥が建造を再開していたシャンデリアは、内戦中に旋回機構や砲身が完成していたが、砲身の排熱問題を解決できず内戦には使用されなかったが、2014年には冷却装置の増設によって一応の完成にこぎつけ、エメリア・エストバキア戦争の末期に運用された。[12]
エストバキアのグスタフ・ドヴロニク上級大将は中央軍管区司令官兼エメリア遠征軍総司令官に就任し、全軍を掌握した[11]。エストバキアは貧窮した経済を立て直すためエメリアへの侵攻を開始した[13]。
2015年8月30日、エストバキアはエメリアに対し宣戦布告すると同時にエメリア首都グレースメリアに対し攻撃を開始した。エストバキア軍は多数の航空部隊をグレースメリアに展開させた。B-52爆撃機は市街地を爆撃し、C-17輸送機からは空挺戦車が降下した。エストバキア軍の攻撃でチェスターシティとノーヴァスメリアを結ぶ王様橋が寸断された。エメリア軍はただちに反撃を開始し、グレースメリア空軍基地から全戦力をスクランブルさせ、近海で訓練飛行中だった第2空母航空団の戦闘機部隊も迎撃に当たった[1]。王様湾では多数のエメリア軍艦艇が対空攻撃を実施した。陸軍からは第1軍第9旅団が展開し、グロブダー戦車中隊などが空挺戦車への対処に当たった。エメリア軍の反撃によってエストバキア軍は多数の戦力を喪失し、戦闘は一時的にエメリア軍の優勢に傾いた。しかしエストバキア軍はアイガイオンからニンバス弾頭を発射し、増援としてSu-33戦闘機からなるシュトリゴン隊などを送ると戦局は一気にエストバキア軍優勢へと傾いた。
ニンバス弾頭は空中炸裂式の巡航ミサイルで、小型のマーカードローンをあらかじめ現地に展開させておくことで終端誘導を受けつつ、任意の場所で炸裂させられる兵器である。炸裂したニンバス弾頭は巨大な火球で空間を制圧し、その範囲にいる標的の破壊が可能である。ニンバス弾頭によってエメリア軍は航空戦力の多くを喪失し、王様湾にいた艦艇も多数が撃沈された。エメリア軍はニンバス弾頭によって戦力の7割を喪失し[1]、司令部は首都防衛は不可能と判断し全軍の撤退を決定した。グレースメリアはエストバキア軍に制圧され、エメリアは首都を喪失した。グレースメリアの陥落から時を経ず、各地の国境線からもエストバキア軍が侵攻しエメリア各地を占領していった。エメリア共和国議会はエストバキアに対する開戦決議を全会一致で採択した。
内戦では常勝を誇ったエストバキア軍のシュトリゴン隊はグレースメリアの戦いで少なからず損害を被った。隊長のヴィクトル・ヴォイチェク中佐は被弾により機体から脱出を強いられ、足を負傷したため空軍情報部に転属となった。部隊の指揮はダリオ・コヴァチ少佐が後を継いだ[11]。
エストバキア占領軍の到着によって街からエメリア国旗は降ろされエストバキア国旗が掲げられた。エメリアの美術品に興味を持つ一部の将軍はグレースメリア城にある様々な美術品を求めたが、それらは占領軍の到着前に学校の授業で見学に訪れていた子供たちにより城の地下に秘匿され見つかることはなかった。
エストバキアの侵攻によってエメリア人の多くが難民となり西へ逃れていった。こうした難民を守るため陸軍の第1軍第9旅団の第4戦車中隊(サーバル隊)などは殿軍となりエストバキア軍から追撃を受けた。海軍においても損害は大きく、南洋艦隊群第2艦隊の残存艦隊は巡洋艦マリーゴールドを旗艦として再編成しエストバキア海軍の海上包囲網を突破して西へ逃れた。エメリア軍は首都奪還を目的としたキング&バルーン作戦を4度に渡り実施したが、エストバキア軍の空中艦隊や第3空母航空団によって阻まれ、いずれの作戦も失敗に終わった[11]。エメリア軍は西方への撤退を続けた。9月、大陸中南部に位置する港湾都市サン・ロマにおける戦いでも、ニンバス弾頭によってエメリア軍は敗北した[3]。エストバキア軍の電撃的な侵攻を前に敗北を重ねたエメリア軍であったが、各地で孤立した友軍を救助したイエロージャケット隊のようなヘリ部隊や、指揮系統が混乱する中で各部隊の退却を誘導したシェルパ通信大隊、敵の攻勢を機動防御戦術によって一時的に退けてシルワートタウン周辺の防衛線を構築する時間を稼いだグリズリー戦車大隊といった諸部隊の活躍により、後にエメリア軍が反攻作戦に転じられる戦力を蓄えることができた[11]。
10月、大陸での抵抗に限界を感じたエメリアの主力軍は海峡を渡りケセド島への撤退を試みた。エストバキア軍が封鎖線を構築しており、海峡を渡ることは困難であったが、第2艦隊を指揮する旗艦マリーゴールドの艦長[注 2]によって実行された陽動作戦によって封鎖線の突破に成功し、主力軍がケセド島へ渡ることが可能となった[11]。しかしエメリア軍の主力軍に合流できなかった部隊も存在しており、大陸各地では残存兵が絶望的な抗戦を続けた。
また、時期は不明ながらもエメリア人の間で反エストバキア感情が高揚し、民間人によるパルチザンが結成されエストバキアの支配に抵抗した。
エメリアの主力軍はケセド島でエストバキア軍に抗戦したが、敗北を重ね島の南部のブリリアンテ高原に位置するヴィトーツェまで撤退した。ケセド島のエメリア軍が使用できる航空基地はヴィトーツェにあるカンパーニャ飛行場のみとなった。11月24日、エストバキア軍はカンパーニャ飛行場の破壊を目的にヴィトーツェへ向けて多数の戦闘機と爆撃機を出撃させた。エメリア軍はカンパーニャ飛行場から戦闘機部隊を出撃させ、地上のレーダー施設と連携してエストバキア軍の爆撃機を全機撃墜することに成功した。ケセド島での航空脅威度が下がったと見たエメリア軍は直ちに反攻作戦を開始した。
11月27日、エメリア軍はシプリ高原に向けて進撃した。エストバキア軍はシプリ高原のミスコを拠点とし、カルツァラーニ川沿いに戦車部隊を主力とする防衛線を構築した。エメリア陸軍のワーロック独立大隊、クォックス機甲大隊、スティールガンナーズ隊の3つの大隊がそれぞれ川に架かる4つの橋に向けて前進し、エストバキア軍との間で橋の争奪戦が起こった。エメリア軍兵士の間ではこの作戦は稼働戦力の9割を投入したものと噂され、この状況を賭けに例える者もいた。航空部隊としてガルーダ隊やウィンドホバー隊、アバランチ隊等の戦闘機部隊と、戦闘ヘリ部隊のイエロージャケット隊が参加し、これらの航空支援もあってエメリア軍は橋の突破に成功し、ミスコに展開するエストバキア軍を撃破した。エストバキア軍はシプリ高原を放棄しケセド島北部のマルチェロ山脈まで撤退した。
エメリア軍はマルチェロ山脈のバルトロメオ要塞を攻略するため進撃を開始した。12月27日、ワーロック独立大隊が南西から要塞に接近し、南東からはクォックス機甲大隊が向かった。両隊を援護するため警戒航空隊のE-767が電子支援機として展開した。またガルーダ隊等の戦闘機部隊がこれらの部隊に対し護衛や航空支援を実施した。エストバキア軍は要塞へ至るルートにおいて、西側では鉄道橋に装甲列車を展開して対抗し、東側では山脈から撃ち下ろすように火砲を配置した。これらはエメリア軍の航空攻撃で甚大な被害を被り、エメリア軍はエストバキア軍の防衛線を突破し要塞に達した。エメリア陸軍は要塞に向けて砲撃を開始し、戦闘機部隊も航空攻撃を加えた。増援としてカルロ・ボグダノヴィッチ大尉率いるシュトリゴン隊の2機が参加したが、両機共にガルーダ隊によって撃墜された[11]。バルトロメオ要塞は陥落し、その後エメリア軍はケセド島全域からエストバキア軍の放逐に成功した。ケセド島のエメリア軍は大陸本土の国土回復を目指し大陸への上陸作戦を策定した。
2016年1月26日、エメリア軍はラルゴムビーチへの上陸作戦を開始した。ホバークラフトでワーロック独立大隊がビーチの中央から上陸しジャメル砂漠の進撃を試み、西からはホバークラフトでクォックス機甲大隊が上陸しオルタラの解放を目指し、イエロージャケット隊がCH-47輸送ヘリに搭乗する特殊部隊を護衛し飛行場の制圧を担った。東ではキエラ油田の近辺に展開したエストバキア海軍の艦隊を封殺し、上陸部隊への支援を絶たせるため第2艦隊が展開した[11]。エストバキア軍はオルタラと飛行場では戦車や対空火器で抵抗し、ジャメル砂漠では海上トーチカが最前衛となり上陸したエメリア軍を戦車やトーチカが阻み、榴弾砲によって砲撃を加えた。東側では迫るエメリア軍艦隊にエストバキア軍艦隊が展開し、あらかじめキエラ油田を構成する一部の海上油田上に榴弾砲を配置して対艦攻撃に従事させ、沿岸部には地対艦攻撃部隊が展開した。戦局はエメリア軍優位に展開し、エストバキア軍は増援として陸と空からなる部隊を送ったがエメリア軍の攻撃によって粉砕された。スティールガンナーズ隊も上陸し、主力軍の進撃を側面から支援する局地戦を転戦した[11]。
ローリンズ平原のシルワートタウン周辺では数万人規模のエメリア残存軍が籠城しており、その数倍の規模に及ぶエストバキア軍から熾烈な攻撃を加えられ続けてきた[14]。エストバキア軍はシルワートの南に野戦軍支援司令部(FASCOM)を築き、中央から地上軍による攻撃を加え、左右にも部隊を展開し包囲網を形成していた。また、戦闘機や攻撃機でシルワート北の変電所を攻撃し、攻撃ヘリ部隊でセボルナ飛行場を攻撃した。これに対しエメリア軍はグリズリー戦車大隊が西に展開し、中央西側はバラクーダ機甲大隊、中央はドラゴンバスターズ隊、東側はガビアル戦車大隊が守備していた。北の変電所ではシェルパ通信大隊が展開していた。また、西部諸都市防衛に携わっていた戦闘機部隊のスカイキッド隊もシルワート防衛に参加していた。
突出しすぎたグリズリー戦車大隊はクラウディア湖南西で孤立し、シルワートタウンへ至る橋をエストバキア軍に塞がれ完全に包囲されていた。セボルナ飛行場ではA-10A攻撃機からなるスティングレイ隊のパイロットが出撃を逸っていたが、飛行場が戦闘ヘリの攻撃に晒されており出撃は困難であった。スカイキッド隊は変電所上空でエストバキア軍の戦闘機部隊と交戦していた。バラクーダ機甲大隊はレーダー車両と連携した戦車部隊の攻撃を受けており、ドラゴンバスターズ隊は度重なる戦闘で戦力の7割を消耗した状態で[11]、戦車部隊と長距離砲部隊から攻撃を受けていた。東側ではガビアル戦車大隊が戦車部隊や長距離砲部隊から攻撃を受けており、その長距離砲部隊の中には1000mm砲を搭載した列車砲が存在していた。
2月7日、エメリアの主力軍の航空部隊が到着すると、迅速な航空支援により戦局はエメリア軍の優勢へと傾いた。グリズリー戦車大隊は包囲を脱し後方の部隊と合流に成功した[11]。航空支援を得られたガビアル戦車大隊は列車砲の破壊に成功した[11]。エストバキア軍はエメリア軍の反撃によって攻撃続行が困難となった。エストバキア軍は南に向けて撤退を開始したが、エメリア軍の追撃によって大きな損害を被り、FASCOMも攻撃を受け破壊された。ドヴロニク上級大将の娘であり戦闘機のパイロットでもあったイレーナ・ドヴロニク少尉も戦死した[11]。他にもクヴィトコ・デュディッチ大尉率いる4機のシュトリゴン隊が作戦に参加していたが、ガルーダ隊との戦闘で全機撃墜された[11]。長期に渡ったシルワートにおける戦闘はエメリア主力軍の航空部隊が到着したことで、かろうじてエメリア軍の勝利に終わった。
エメリア軍の主力軍と残存軍は合流に成功し、戦力の増強が図られた。一部部隊は再編成され、バラクーダ機甲大隊はドラゴンバスターズ隊に編入された[11]。国土の奪還が本格的に進む中で、エメリア軍将兵たちの士気は上がっていた。彼らの士気の源は数々の戦場で戦果を上げ続けるエメリア空軍のガルーダ隊にあった。エストバキア軍は度重なる敗戦によって疲弊の色を見せ始めていた。
エメリアの国家治安諜報部は、セルムナ連峰ではエストバキア軍の戦力が乏しく、地形や気候条件からも進軍に最適であると軍に指摘した。エメリア軍は国家治安諜報部の情報を元にセルムナ連峰を通過して東へ進軍した。しかし山に覆われた雪道が続くため地上戦力の進軍には困難がつきまとい、航空攻撃への脆弱性の懸念もあった。エメリア軍は空中給油によって航空部隊を地上部隊に随伴させ、エストバキア軍の空襲に備えた。2月12日、セルムナ連峰を通過するワーロック独立大隊とクォックス機甲大隊に対してエストバキア軍が航空部隊を向かわせ、迎撃に当たったエメリア軍機との間で大規模な空戦が発生した。エストバキア軍はEA-200[注 3]やトーネードGR.4を電子支援機として使用し空域にジャミングを発生させ、またXB-70超音速爆撃機などによって空爆を試みた。これらは警戒航空隊のE-767によって早期に発見された。エメリア軍機の抵抗を前にエストバキア軍機は撤退を決断した。エメリア軍機は撤退するエストバキア軍機に対し追撃し損害を与えたが、エストバキア軍はアイガイオンからニンバス弾頭を射出しセルムナ連峰上空で炸裂させた。エメリア軍のAWACS管制官はニンバス弾頭の着弾前に空域に低速で接近するドローンを確認しており、それがニンバス弾頭の終端誘導を担っていると判断した。管制官は全航空機に撤退指示を出しつつ、その一方でガルーダ隊にドローンの破壊を指示した。エストバキア軍が展開させたマーカードローンはすべて破壊され、ニンバス弾頭による攻撃が停止した。エメリア軍はセルムナ連峰の突破に成功したが、ニンバス弾頭の脅威を再度認識させられた。
エメリア軍は採取したミサイルやドローンのサンプル、レーダー記録などを元に情報収集を急いだ。その結果、巡航ミサイルは重巡航管制機から発進し遠隔操作されたマーカードローンから誘導を受け、目標地点で炸裂し対象を破壊するという複合的なシステムであることが判明した。統合参謀本部はこれらミサイルシステムの破壊を決定し、そのための足がかりとしてサン・ロマの解放を目指した。サン・ロマにはカヴァリア空軍基地があり、重巡航管制機を破壊するための航空拠点になるからである。またサン・ロマからグレースメリアの間には航空基地として機能する滑走路は存在せず、重巡航管制機の存在に寄らずともエメリア軍にとって戦略的重要拠点であった。エストバキア軍もこの点を認識しており、サン・ロマに大規模な防衛戦力を置いていた。
エメリア軍はサン・ロマに向けて進撃し、2月15日には街に達し大規模戦闘が発生した。ワーロック独立大隊が北西から都市部を目指し、爆撃機部隊のハンマーヘッド隊が海岸線に沿って東進し地上防空施設の破壊を試みた[注 4]。また第2艦隊が洋上から接近しエストバキア艦隊と交戦した。こうしたエメリア軍の攻撃に対しエストバキア軍は抵抗し、アイガイオンもニンバス弾頭で攻撃を加えたにもかかわらず敗北を喫した。サン・ロマはエメリア軍によって解放され、エストバキア軍は放逐された。
エメリアの国家治安諜報部はエストバキア内部にスパイを潜入させ、重巡航管制機に関する様々な機密情報の入手に成功していた。その情報には重巡航管制機の正式名称や、それを守る航空プラットフォーム、そしてアイガイオンが持つレーダーの欠陥が含まれていた。空中艦隊の対空監視能力はアイガイオンのレーダーと艦載機に頼っており、随伴する航空プラットフォームは近接防空や電子支援しか担当しない。アイガイオンは空中給油を受ける際、機体前方の給油口から複数の空中給油機と接続するが、その時アイガイオンのレーダーは前方にいる動体の認識能力が著しく低下する。加えてスパイが得た情報には空中艦隊のフライトスケジュールが含まれていた。エメリア軍は空中給油中のアイガイオンの前方から一定角度と一定高度を維持しつつ航空機が飛行すれば空中艦隊の懐に飛び込めると確信し、得られたフライトスケジュールを元に作戦日時を策定し戦闘機部隊による攻撃を決定した。
2月20日、カヴァリア空軍基地から発進したエメリア軍機はフォスカム海のグラバ諸島近海の上空を飛行し、給油を受けているアイガイオンを含む空中艦隊を捉えた。艦載機部隊のシュトリゴン隊は哨戒任務を終え帰投した直後であった。アイガイオンに給油していた6機のKC-10空中給油機が直ちに離脱を図り、シュトリゴン隊がスクランブルした。航空火力プラットフォームである2隻のギュゲスは対空攻撃を実施し、電子支援プラットフォームである2隻のコットスはECMによってエメリア軍機の攻撃を妨害した。しかしギュゲスとコットスはすべて撃沈され、シュトリゴン隊も壊滅的被害を被った。アイガイオンは全エンジンを破壊され、周囲にニンバス弾頭をばらまいて抵抗したものの戦局は好転せず、ガルーダ隊によってコックピットや中枢部を破壊された。アイガイオンは空中で爆散しつつ、フォスカム海に墜落し沈んだ。空中艦隊の壊滅は、エストバキアにとって歴史的大敗であった。
エメリア軍にとって数々の勝利の立役者であったガルーダ隊は、エストバキア軍にとって悪魔であり、同隊の粉砕は喫緊の課題であった。数々の戦闘で徐々に戦力を消耗していったシュトリゴン隊であったが、フォスカム海上空戦の敗北によって隊長を務めるコヴァチ少佐機を含む多数の機が撃墜されたため、他部隊を併合して部隊の存続が図られた。各地を転戦していた精鋭部隊のヴァンピール隊はシュトリゴン隊に統合され、イリヤ・パステルナーク少佐が隊長に就任した。パステルナーク少佐は内戦時にシュトリゴン隊の副隊長を務め、その後併合した他軍閥の精鋭が集まるヴァンピール隊の隊長になった経歴を持つ人物で、今回の併合で古巣に戻ったことになる。軍は内戦時から活躍を続け、今戦争においても黄金射手勲章を筆頭に様々な戦時勲章を持つ実力者のパステルナーク少佐がガルーダ隊を撃破してくれることに期待していた[11]。
大陸を東進するエメリア軍は、グラジオ渓谷に位置するエストバキア軍の強固な防衛拠点であるラグノ要塞に直面した。大規模な陸上戦力を通過できるルートはグラジオ渓谷に限られており、エメリア軍にとってラグノ要塞の攻略は不可欠であった。それと同時にエストバキア軍にとってもグレースメリア防衛のための重要拠点であった。しかしラグノ要塞はもともとエメリア領内の要塞であり、エメリア軍は施設の全容を把握していた。3月6日、エメリア軍はラグノ要塞奪還のため攻撃を開始した。ワーロック独立大隊が要塞正面の敵地上戦力の排除を試み、ウィンドホバー隊は要塞に電力を供給しているケルノスダムと水上輸送路の破壊に当たり、要塞の弱体化を試みた。イエロージャケット隊は要塞内部のトンネル制圧に当たり、特殊部隊を内部に浸透させる役目を担った。これら同時に進行する複数の作戦をガルーダ隊が支援した。エストバキア軍は要塞正面に無数の戦車部隊と防空陣地を配置し、ワーロック独立大隊の進撃を妨害した。また、要塞へ至る道を挟む渓谷の下から複数のAV-8B攻撃機が奇襲を仕掛け、渓谷を挟んだ対岸の基地の地下施設からエレベーターで榴弾砲が次々地上に送られ、ワーロック独立大隊に向けて渓谷越しに砲撃を試みた。加えて要塞正面には2機の巨大な重榴弾砲が配置されており、要塞からの攻撃も相まってワーロック独立大隊は厳しい状況にあった。しかしエメリア軍の作戦は順調に推移し、要塞の防衛機能は完膚なきまでに破壊され、特殊部隊によって要塞内部は制圧された。エストバキア軍はグレースメリアまでのルートを妨げる拠点を完全に喪失した。
エメリア軍はグラジオ渓谷から南東に位置するグレースメリアに向けて進軍し、3月25日にはモロク砂漠に達した。モロク砂漠ではエストバキア軍の残存部隊が結集し、大規模な戦力で防衛線を構築していた。エメリア陸軍は川の南北に分かれ、北はワーロック独立大隊が防衛線の突破を試み、南はクォックス機甲大隊が前進し野戦飛行場の制圧を目指した。ハンマーヘッド隊は司令部に向けて爆撃を実施し、警戒航空隊のE-767が戦域上空を巡航し各部隊に電子支援を提供した。これら諸部隊に対し、戦闘機部隊が護衛や航空支援を実施した。エストバキア軍は各地で戦車やトーチカによってエメリア軍を阻み、A-10AやAC-130攻撃機によってエメリア地上軍を攻撃させた。ゴア少佐が率いる武装LCAC部隊は進軍ラッパを鳴らしながら突進し、前線まで戦車や対空車両を運搬するため移動した。
エメリア軍の攻勢を前に、エストバキア軍は防衛を諦め撤退を開始した。エメリア軍は追撃に移ったが、国家治安諜報部はエストバキア軍がグレースメリアに対し大量破壊兵器を用いる可能性があるという情報を掴んだ。統合参謀本部はこのままグレースメリアに向けて前進を続ければエストバキア軍は確実に焦土戦術を実行すると確信し、全軍に向けて直ちに追撃中止命令を下した。モロク砂漠で航空部隊を指揮していたAWACS管制官は攻撃中止命令を下したが、ガルーダ隊は命令を無視してエストバキア軍と戦闘を続行した。エストバキア軍はシュトリゴン隊にガルーダ隊の抹殺指示を出しており、またガルーダ隊の2番機を務めるマーカス・ランパート中尉も撤退命令に激高していたため、両者の戦闘は不可避であった。今作戦に参加したシュトリゴン隊はニノ・リューベック大尉とフランツ・レコ中尉がそれぞれ率いる3機小隊の計6機で構成されており、ガルーダ隊と交戦したが全機が返り討ちにあった。リューベック大尉は消息不明となり、レコ中尉の部隊は全員が戦死した[11]。
戦闘終了後、ガルーダ隊は撤退した。エストバキア軍は大量破壊兵器を使用しなかったものの、エメリアから見ればいつ焦土戦術を実行してもおかしくない状況であった。ガルーダ隊には出撃禁止命令が下され、自室以外での活動を禁じられた。ガルーダ隊が軍内部で危機的状況にあるという報は一日足らずでエストバキア軍の間に届いたが、後述するようにガルーダ隊の謹慎はわずか一日で解除されており、実質的に欺瞞に近い情報であった。
エメリア軍は大量破壊兵器の触媒となる化学物質はエストバキアから陸路を通ってグレースメリアの北に位置するフォートノートンに隠匿されているという情報を掴んだ。エメリア軍は触媒を輸送する部隊に対し空から急襲を仕掛け破壊する作戦を立案し、統合参謀本部の認可を受けた。触媒の輸送部隊はフォートノートンが位置する渓谷の間のアルマ川沿いに位置しており、渓谷の上を飛行すればエストバキア軍のレーダー網に発見されるため、攻撃には渓谷の間を飛行できるほどの高い練度を持つガルーダ隊が必要とされた。3月26日、大量破壊兵器の触媒を破壊するため、フォートノートンに向けてガルーダ隊が出撃した。エストバキア軍は川に沿って複数の監視部隊を配置していたが、道すがらガルーダ隊はこれらに航空攻撃を加え、監視部隊は輸送部隊に危機を報告することができなかった。ラーズリーズ鉱山付近に駐留していた輸送部隊はガルーダ隊を発見すると直ちに離脱を図ったが、車両のすべてが破壊され触媒も消滅した。目標を果たしたガルーダ隊は撤退を開始したが、エストバキア軍は大規模な戦闘機部隊を送ってガルーダ隊の撃墜を試みた。圧倒的な大部隊を前にガルーダ隊は危機的状況に陥ったが、エメリア軍も多数の航空戦力を増援として送り大規模な空中戦が展開された。空戦はエメリア軍の勝利に終わり、ガルーダ隊も生き残った。ガルーダ隊の謹慎処分は解除され、エメリア全軍はグレースメリアに向けて突進した。
エストバキア軍は空中艦隊と大量破壊兵器の喪失によって後がなくなっていた。グレースメリアを要塞都市化し防衛体制を整えていたが、エストバキア軍にとってグレースメリアが奪われることは容易に想像できるものであり、ドヴロニク上級大将はシャンデリアを使った攻撃計画を進行させつつあった。
3月31日、エメリア軍はグレースメリアに達し市内外で抵抗を続けるエストバキア軍と交戦した。グレースメリア空軍基地を奪還するためスティールガンナーズ隊は海岸に沿って旧市街地を東進した。ドラゴンバスターズ隊は新市街地を解放するため国会議事堂に向けて南進しスティングレイ隊が空から援護した。ワーロック独立大隊は放送局を目指して南進し、海岸を進むLCAC部隊からリゲル戦車隊が上陸し共同してエストバキア軍を挟み撃ちにした。第2艦隊は王様湾に向けて進み、湾の内外に展開するエストバキア艦隊と交戦した。市街地や王様湾上空では両軍の航空機が大規模な空戦を展開した。戦闘はエメリア軍優勢に進み、グレースメリア城や捕虜収容所などが次々に解放されていった。ドラゴンバスターズ隊も国会議事堂奪回に成功した[11]。
パステルナーク少佐率いるシュトリゴン隊は遅れて作戦区域に向かっていた。しかし戦闘の趨勢は既に決まった状況であり、パステルナーク少佐は部下を逃がすため単独でエメリア軍機と交戦した。パステルナーク少佐はCFA-44戦闘機に搭乗しており、機体が持つ無人機の管制能力を活かして無数のUAV-45無人戦闘機を引き連れて戦闘に臨んだが、ガルーダ隊との交戦により撃墜され、パステルナーク少佐は戦死した。一部地域でわずかなエストバキア軍が抗戦を続けたが、夜までには鎮圧された。エメリア政府は停戦決議のためエストバキア政府との会議準備に入った。しかしドヴロニク上級大将は実質的な敗戦を認めることができず、一部のエストバキア軍将兵と共にシャンデリアに移動しグレースメリアへの砲撃準備を始めていた。
サン・ロマの戦いの最中に軍から脱走し、グレースメリア中央銀行で金庫破りをしようとしていた戦車兵のルイス・マクナイト軍曹たちは測量ミスによってグレースメリア城の地下に穴をあけ、そこで城に備わっていた中世時代の罠によって閉じ込められていた戦災孤児たちとエストバキア軍将校に加えて、金色の王様像を見つけた。マクナイト軍曹らはこれらの人々を救助し、戦車に金色の王様像を載せて市内を凱旋し終戦を高々と叫んだ。市民たちは街の解放を喜び、口々に「A Brand New Day」を歌い喜んだ。
同日夜、グレースメリアでは解放を喜ぶ市民が祭りを始め、花火を打ち上げていた。停戦決議が進むなか、エメリア空軍はグレースメリアの哨戒飛行を開始した。その最中、停戦に反対するエストバキア軍はシャンデリアからスタウロス弾頭を発射し、スタウロス弾頭は複数の巡航ミサイルに分離しグレースメリアに向けて飛翔した。これを捕捉した哨戒飛行部隊と地上の防空部隊が迎撃を開始し、市街では空襲警報が出され市民は空爆に備えた。エストバキア軍のステルス機部隊もグレースメリア上空に突入し、F-117A攻撃機が地上の防空部隊に攻撃を加え、F-22AやSu-47による戦闘機部隊が哨戒部隊を攻撃した。エストバキア軍は計9発のスタウロスを撃ち込んだ後、排熱問題により砲撃を一時中断した。エメリア軍の迎撃によりグレースメリアの被害は最小限に済んだが、エメリアにとって首都を一方的に攻撃できる砲台の存在は看過できるものではなかった。弾頭の飛翔ルートから発射地点はエストバキア北洋のソーン島付近に位置するシャンデリアによる可能性が高いと判断し、エメリア軍は直ちに戦闘機部隊を北に向けて出撃させた。しかしエメリア軍はシャンデリアについてほとんど情報を持ち合わせていなかった。シャンデリアは試作以降から情報開示がされておらず、破壊すべき要点などは不明瞭であった。
グレースメリアに駐在していたエストバキア空軍情報部のヴォイチェク中佐は、シャンデリアを使った攻撃作戦について書かれた封緘命令書を見てから葛藤していた。ヴォイチェク中佐は街で接する戦災孤児たちに同情心を抱いており命令に否定的な感情を抱くと共に、祖国に対する忠誠心から軍人として命令を受け入れるべきとも感じていた。しかしシュトリゴン隊員の恋人で基地のセレモニーにも招かれてヴォイチェク中佐を見知っていた民間人のルドミラ・トルスタヤと偶然出会い、彼女から説得を受けたヴォイチェク中佐はエメリア軍にシャンデリアの機密情報を提供することを決断した。しかしエメリア軍に情報を提供するためのパイプはなく、既に戦闘機が飛び立っている状況で迅速に情報を伝える方法は限られていた。トルスタヤと同行していたエメリアの民間人であるメリッサ・ハーマンは、ラジオから流れる音声を聞いて軍の通信回線に潜り込むことを思いついた。
翌4月1日、エメリア軍の戦闘機部隊がシャンデリア付近に到達すると同時に、冷却に成功したシャンデリアから砲撃が再開した。ラジオ局のクルーと接触し軍用回線に繋ぐことに成功したハーマンは、エメリア軍機に向けてシャンデリアに弱点があることを伝えた。AWACS管制官は敵のプロパガンダを疑ったが、ラジオ局のクルーが詳細な情報を送信すると管制官は情報を信用し情報を各部隊に伝達した。シャンデリアの弱点は各所に備える冷却装置であった。シャンデリアはレールガンの排熱問題を冷却装置で補っており、冷却装置がなければ砲弾の発射ができなくなる。冷却装置は通常用の12基と非常用の1基で構成されていた。攻略の要所を把握したエメリア軍機はシャンデリアに攻撃を加えた。
エストバキア軍は多数の戦力をシャンデリアに集結させており、シャンデリア周辺には複数のイージス艦や駆逐艦が展開した。シュトリゴン隊では隊内で意見が分かれ参戦しなかった者もいたものの、アレクセイ・チェシェンコ中尉率いる4機小隊とヤロスラフ・デリャーギン中尉率いる3機小隊による計7機が戦闘に参加し[11]、他にもF-22AやSu-47からなる戦闘機部隊も参加した。シャンデリア自体にも無数の対空火器が備わっていた。
両軍の交戦によりエストバキア軍の各部隊は大きな打撃を受けた。シュトリゴン隊は壊滅的な被害を被り、シャンデリアの冷却装置も破壊されていった。12基の冷却装置が破壊されるとエストバキア軍は非常用冷却装置を稼働させた。エメリア軍は赤外線走査により非常用冷却装置の位置をある程度特定したが、その位置は戦闘機にとって攻撃が難しい場所であった。ガルーダ隊2番機のランパート中尉は正確な位置を特定するため、非常用冷却装置がある砲台直下の砲弾運搬用コンベアがある溝に単機で侵入し偵察を試みた。ランパート中尉は非常用冷却装置の正確な位置を特定し、その情報をAWACSに伝達し各部隊に共有させた。ランパート中尉機は対空砲によって被弾し、海上で脱出を余儀なくされ負傷した。
ガルーダ隊の1番機を務めるタリズマンは非常用冷却装置に向かって飛行し、溝の内部に突入し破壊を成功させた。エストバキア軍はなお諦めず、砲身そのものを上下に開き排熱を試みた。タリズマンは砲身内部に突入し、砲の奥にあるコアを破壊しその奥の開口部から脱出した。シャンデリアの冷却機能は完全に削がれ、砲身各所で爆発が発生し砲身を支える鉄骨も倒れていった。シャンデリアの戦いはエメリア軍の勝利に終わった。またシャンデリアで指揮を取っていたドヴロニク上級大将は戦死した。ドヴロニク上級大将の死因については意見が分かれており、シャンデリアと運命を共にしたとする説と、脱出途中に撃墜されたとする説がある[11]。
エストバキアの首都では政府に不満を抱いていた者たちによるクーデターが発生したことで「将軍たち」の政権が倒れ、両軍との間で大規模な戦闘は終結した[15]。5月中旬から下旬頃にはエメリアとエストバキアの間で休戦協定が締結され、エメリア・エストバキア戦争は終結した。
戦後の動静はほとんど語られておらず、両国間の関係は不透明である。なお、CFA-44は戦後も細々と製造が続けられており、エメリアの国籍マークが付いた2機のCFA-44がセルムナ連峰上空を飛行する画像が存在する。また、その先進性が各国にも広まったことで、CFA-44を開発したエストバキア先進企業連合は軍から独立して改良案を策定し、量産化モデル開発に向けた多国間共同開発体制へと移行した。
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