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ベルカ戦争(ベルカせんそう、英: Belkan War)は、ナムコ(後のバンダイナムコゲームス→バンダイナムコエンターテインメント)のPlayStation 2用フライトシューティングゲーム『ACE COMBAT ZERO THE BELKAN WAR』の舞台となった架空の戦争。1995年3月25日のベルカ連邦による周辺諸国への宣戦布告から、侵攻された周辺諸国を中心とした連合軍の勝利によって、同年6月20日に停戦条約が調印されるまでの期間行われた戦争である。本項では便宜上、同年12月25日に発生した多国籍クーデター組織「国境無き世界」によるクーデター事件についても取り扱う。
ベルカ戦争の初出は『エースコンバット5』であり、2010年を舞台にした作中では1995年に起こった本戦争を「15年前の戦争」という呼び方で描いている。ベルカ人の過激派からなる「灰色の男たち」は15年前の戦争で屈辱を覚え、作中で描かれる環太平洋戦争を引き起こしている。ベルカ戦争の前史や約3ヶ月間の戦いはこの時点である程度設定されており、作中のムービーや攻略本で大まかな流れが描かれている[1][5]。
次作の『エースコンバットZERO』ではベルカ戦争を舞台とし、ベルカ戦争そのものを本格的にクローズアップする形となった。
『エースコンバット7』公式サイトのコラムでは、作中世界で作られた雑誌の記事という体裁で、2020年に執り行われたベルカ戦争終結25周年記念式典について描かれた[6]。
ベルカ公国は高い工業力に支えられて強力な国家となり、1970年代には軍事力の拡大政策が取られていた。高い軍事力を持ったベルカは軍事的圧力によって東方諸国を自国に併合していったが、国境付近では民主主義と民族主義を掲げた紛争が多発していた。同年代にはレクタ紛争が発生しておりベルカ軍は手を焼いたが、やがてレクタの解放戦線が居を構えるコールを陥落させ鎮圧した。ベルカは連邦制を採用し、ベルカ連邦を名乗るようになった[7]。
1980年代になると冷戦が発生し、オーシアとユークトバニアの間で弾道ミサイルの開発やその迎撃技術が飛躍的に発展していった。ベルカもその潮流に乗り、弾道ミサイル防衛(BMD)構想の遂行や、核兵器や新型戦闘機の開発といった様々な軍事計画を推進していった。しかしこういった軍事計画の遂行は国家予算を圧迫し、経済の停滞を招いていった。1987年末から1988年頃[注 3]、ベルカ政府は連邦法を改正した。連邦を構成する東部諸国からベルカ駐留軍は撤退し、政治権限の多くを東部諸国の政府に移譲した。これを受けて東部諸国に独立の機運が発生した。1988年2月8日には東部のゲベートが独立し、同年5月12日に南東部のウスティオが独立した[9]。
ベルカの経済危機はなおも収まる気配はなく、ベルカ政府はオーシアとの協調路線によって自国経済の建て直しを図った。ベルカはオーシアと共同出資会社として五大湖資源開発公社を設立し、五大湖周辺の埋没資源を調査させた。公社の調査によれば五大湖周辺には相当量の資源が埋没しているとし、オーシアはその資源の配当量をベルカ優位にするとした上で五大湖周辺地域と北方諸島の領土割譲を要求した。五大湖周辺地域は長年に渡りベルカとオーシアの間で領有権が争われた地域だったが、経済難からベルカ政府は割譲を決定した。1991年8月16日、五大湖資源開発公社の採算割れ隠蔽工作が発覚した。埋没資源量の調査報告はオーシア政府によって誇張されたものであった[5]。この報を受けてベルカでは大規模な抗議運動が発生した[10]。8月29日、ベルカは五大湖周辺のラザフォードやウェッソンといった地域から北のハイエルラークまでと、クレセンス島などで構成される北方諸島をオーシアに割譲した。また同日に東部から南部にかけての領土をファト、ゲベート、ウスティオ、サピンに売却した[2]。特にファトに対しては安い価格で売却した[4]。
ベルカの世論は公社の採算割れ隠蔽工作をオーシアによる恣意的な改竄と捉え、反オーシア感情が急激に再燃した。また、連邦構成国の独立に対する政府の政策にも疑義が呈され、急進右派の祖国労働者党を支持する者からなる4万人の市民による議会包囲は全国に飛び火した。抗議運動は次第に大規模な暴動へと発展し、内閣の退陣要求が叫ばれた。祖国労働者党は公社の採算割れ隠蔽工作について、オーシアの拡大政策に基づく計画的な背信行為であると主張した。ベルカ政府のフォン・ノーデンシュタット外務報道官は「詳細な事実関係は調査中」とし明確なコメントを避けたが、この背景にはオーシアとの共同歩調がなければ経済の立て直しは不可能とする政府方針があった[10]。こうした政府の態度にベルカの世論は納得せず、1992年2月24日に選挙で極右政党のベルカ民主自由党が単独過半数の議席を獲得し与党となった[4]。ベルカ民主自由党は国民の支持を背景に独裁性を強めていった[9]。
ベルカ政府は周辺諸国に強硬な態度を見せるようになっていった。1994年3月21日には何らかの勢力との交戦でベルカ空軍のベルンハルド・シュミッド大尉がF-15C戦闘機を撃墜した。また5月10日にはデトレフ・フレイジャー少佐がウスティオ国境のベルカ絶対防衛戦略空域B7Rでウスティオ空軍機のSu-27戦闘機を3機撃墜し、5月15日には5機のF-16C戦闘機を撃墜した。フレイジャー少佐にはベルカ銀十字徽章を与えられ、その戦績は国内で大々的に宣伝された[3]。
1995年、ウスティオに多量の地下資源が埋没していることが発覚した[注 4]。ベルカではすでに司法の独立性が失われており、ベルカ連邦最高裁判所は連邦法改正は外国の干渉により違憲であり、東部諸国の独立は無効であるとする判決を下した。これを大義名分としてベルカ全土に動員令が発動され、ベルカ軍が国境付近に移動を開始した[9]。
1995年3月25日、ベルカは周辺諸国に宣戦布告すると共に、東部、南部、西部に進撃した。各国は準備不足により次々にベルカの占領を許す形となった[2]。
3月27日、ゲベートではベルカとの国境近くに位置するモーデルで戦闘が繰り広げられ、隣国のファトは援軍として戦闘機部隊を送ったが、ベルカ軍機によって瞬く間に撃墜された。ゲベートやファトは戦線を構築する間もなく敗退を重ね、次々にベルカの占領下に置かれていった。ベルカ空軍のパイロットにとって、東部戦線は絶好の撃墜数稼ぎの場となった[3][注 1]。
ウスティオではベルカ軍の攻勢によって、3月30日時点で首都ディレクタスを含む大部分がベルカの支配領域に置かれた[2]。同日にはモンテローザ上空戦が勃発しており、少なくともウスティオ軍の2個戦闘飛行隊のうち6機が撃墜された[7]。ウスティオの反攻拠点は地理的に制圧が困難だったテュラン山脈のヴァレー空軍基地しか残されなかった。ウスティオ空軍の第6航空師団は緒戦で正規パイロットの90%を失ったため、戦力を補填するため外国人傭兵を雇って再編成した[11]。
南部のベルカ軍は国境からサピン領に向けて侵攻を開始し、アルロンやフトゥーロ運河の東岸を占領下に置いた。また、ウスティオ領を抜けたベルカ軍もサピン領に向けて侵攻した[2]。
西部のオーシア領を攻めたベルカ軍は、北ではハイエルラークを超え、五大湖周辺ではウェッソンを制圧し南西でもラザフォードやフトゥーロ運河の西岸を制圧した。その支配領域は連邦法改正前の領土以上に上った[2]。
4月1日、オーシアやウスティオは共同して反抗することを決定した[4]。後に「連合軍」と呼ばれるこの戦略的軍事機構に参加した国家は少なくともオーシア、ウスティオ、サピンで、直接的に本戦争に関係がないユークトバニアも連合軍に参加した[9]。
4月2日、ベルカ軍はウスティオのヴァレー空軍基地に爆撃機部隊を向かわせた。ウスティオ空軍は爆撃機部隊の迎撃を目的としたクロスボー作戦を開始した。第6航空師団に編入された傭兵部隊によってベルカ軍の爆撃機編隊は迎撃され、ベルカ軍の作戦は失敗に終わった。
4月3日にはオーシア軍の反攻が始まった。ベルカ空軍は元々の少数精鋭主義と戦域の拡大によって地上部隊を支援しきれなくなり、ベルカ地上軍の進撃は停滞しつつあった[5]。
4月15日、ウスティオ空軍第6航空師団は171号線に展開するベルカ地上軍の排除を目的とした、ローゼライン作戦を開始した。171号線はウスティオ首都ディレクタスからサピン領アルロンを抜けてオーレッド湾の海岸に通ずる全長1100kmの幹線道路であり、連合軍にとって重要な輸送路であったが、開戦直後にベルカ軍によって制圧されていた。アルロンにおける171号線はアーレ川とS字に曲がるエムス川の計3ヶ所に橋がかかっており、ベルカ軍の機甲部隊が防衛線を張っていた。この防衛線はウスティオ軍機の航空攻撃により甚大な被害を被った。
4月中旬から下旬頃、ベルカと対峙する国家群による戦略的軍事機構が正式に「連合軍」と命名された。連合軍は水上輸送路となるフトゥーロ運河を奪還すべく、戦域攻勢作戦計画4101号を発案した。オーシア海軍第3艦隊を主力としたこの作戦の前段階として、4月20日にウスティオ空軍第6航空師団第66飛行隊(ガルム隊)が、B7Rにて陽動と強行偵察を目的としたチョーカーワン作戦を開始した。B7Rには多数のベルカ軍機が展開していたが、ガルム隊はわずか2機でありながらベルカ軍機に損害を与え、増援としてやってきたベルカ空軍の精鋭部隊も撃墜した。オーシア軍の海上部隊はB7Rの陽動作戦成功をもって進軍を開始した。4月24日、オーシア軍とウスティオ軍は戦域攻勢作戦計画4101号を開始した。この計画は、運河南部でベルカ航空部隊と港湾施設を攻撃するゲルニコス作戦、運河北部でベルカ海軍の艦隊と港湾施設を攻撃するラウンドハンマー作戦、運河を突破するオーシア海軍第3艦隊の護衛を目的としたコスナー作戦の3つで構成されていた。第3艦隊の旗艦を務める空母ケストレルはまだ就役もしていない艦であったが、試験航行という名目で作戦に投入された。戦域攻勢作戦計画4101号は成功し、連合軍はフトゥーロ運河を奪還し水上輸送路を確保した。
南部戦線において戦況は流動的であったが概ね均衡状態を維持していた。南部戦線におけるベルカ軍は戦線の急激な拡大によって兵站が麻痺しており、後方との連絡線が遮断されることもしばしばあった。ベルカ軍は航空部隊を派遣することで戦線を維持させていたが、パイロットに日に5回の出撃を強いるケースもあった。均衡状態は長くは続かず、4月23日から実施された連合軍の攻勢作戦によって戦況は連合軍優位に傾きつつあった[3]。
5月12日、ウスティオ領のソーリス・オルトゥスの奪還を目的としたヴァーシティー作戦が開始された。これはウスティオ軍とオーシア軍の共同作戦で、オーシア軍の空挺部隊が街を解放し、ウスティオ軍が対空陣地や迎撃機を排除する手筈であった。オーシア軍の第101空挺師団が空挺降下し、ベルカ軍の対空陣地や迎撃機はウスティオ軍機によって排除された。ソーリス・オルトゥスは解放され、ディレクタス解放の足がかりとなった。翌5月13日、連合軍はディレクタスの解放を目的としたコンスタンティーン作戦を開始した。ディレクタスにはベルカ軍のウスティオ方面軍司令部が存在しており、各所に対空陣地や戦車部隊が展開していた。連合軍は陸と空から攻撃を開始し、ガルム隊の強力な航空支援によりベルカ軍の陣地は次々に崩れていった。ベルカ軍指揮官の少将は味方陣地が崩れだすと早々に戦意を喪失し、CH-47輸送ヘリで脱出を図った。少将の逃走による指揮官の不在や、ガルム隊の航空支援によりベルカ軍の防衛線は立ちどころに崩壊し、それに合わせるようにディレクタスの市民が決起し教会の鐘を打ち鳴らした。ベルカ軍のウスティオ方面軍司令部は壊滅し、ディレクタスは解放された。
オーシア軍、ウスティオ軍、サピン軍はベルカ軍に奪われた失地を次々に奪還し、戦線は開戦前のベルカ国境まで達した。連合軍はベルカの核兵器や大量報復兵器「V2」の開発計画を掴んでおり、連合軍首脳部は核兵器査察と資源権益確保を確約させるため、ベルカ領への侵攻を決定した。また、戦後の再編が確実視される中で本戦争を静観していた周辺各国も続々と参戦し始め、ベルカへの攻撃を開始した。
5月17日、ベルカ領南部に位置し、オーシアからサピンとの国境の約700kmを結ぶハードリアン線の突破を目的としたヘルバウンド作戦が開始された。イヴレア山の山頂に位置するグラティサントは遺跡を活用した要塞で、ハードリアン線の主要陣地であった。連合軍の攻撃でグラティサントは陥落し、連合軍はハードリアン線の突破に成功した。同日、ウスティオ領からベルカ領へ進撃した連合軍部隊が、ベルカのBMD兵器であるエクスキャリバーによって撃破された。エクスキャリバーはタウブルグ丘陵に位置する対空レーザー砲で、上空の航空機や衛星に搭載された反射鏡と連携することで、理論上は半径約1200km以内の標的への攻撃を可能としていた[12]。
ハードリアン線を突破した連合軍はシェーン平原を拠点とするベルカ軍の第二次対空防衛線に衝突した。現地には迎撃機や対空砲による防空陣地が構築されており、連合軍の輸送計画に遅れを生じさせていた。5月19日、連合軍は第二次対空防衛線の破壊を目的としたダイナモ作戦を開始した。ダイナモ作戦はアルファ方面隊、ベータ方面隊、シータ方面隊の3隊に分かれて展開された。連合軍の攻撃は一応成功し、シェーン平原の対空防衛線を破壊できたものの、ベルカ軍はエクスキャリバーを使用し連合軍機に多大な損害を与えた。安全な航空輸送路はエクスキャリバーを破壊しなければ確保できないことを認識した連合軍は、エクスキャリバーの破壊を最優先事項とした。
連合軍はエクスキャリバーの破壊作戦を立案し、本作戦をジャッジメント作戦と命名し、5月23日に連合軍は航空部隊をタウブルグ丘陵に向かわせた。一方でベルカ軍は作戦司令本部主導でブラントフレック作戦を進めていた。作戦の目的は、これまで各地のベルカ軍を撃滅してきたウスティオ空軍第6航空師団のガルム隊を抹殺することにあった。ブラントフレック作戦はガルム隊含む連合軍機をエクスキャリバーの射程圏に誘引し一気に殲滅することを企図していた[13]。タウブルグ丘陵に達した連合軍機は、エクスキャリバーから反射鏡を介さない直接射撃を受けた。KC-10空中給油機が撃墜されたものの、連合軍機はエクスキャリバーの懐に達しており、レーザー砲の照準合わせ中に回避軌道を取ればレーザー攻撃を回避することができた。各所の電子妨害装置や発電施設もガルム隊によって破壊されていき、エクスキャリバー頂上部のレーザー砲も破壊された。ついには塔の中心部を狙い撃ちにされ、高さ約1kmに上るエクスキャリバーは完全に倒壊した。これまで凄まじい戦果を上げてきたガルム隊だったが、ジャッジメント作戦の戦果によって「タウブルグの剣を抜いた者」として更にその名声は高まることとなった。ベルカ軍のブラントフレック作戦は完全に失敗し、エクスキャリバーは実戦運用を開始してわずか6日で倒壊した。
5月28日、連合軍はB7Rに対する不可侵条約の永久破棄を国際会議の席上で表明すると同時にバトルアクス作戦を決行し、B7Rに向けて戦闘機部隊を差し向けた。B7Rは連合軍機とベルカ軍機による大規模空戦の場となった。ベルカ軍機は連合軍機の40%を撃墜し戦局は一時的にベルカ軍優位に傾いていたが、ウスティオ空軍のガルム隊が到着すると戦局は一転して連合軍優位に傾いた。特にガルム隊の隊長を務めるサイファーの活躍は凄まじいものがあり、両軍の将兵から「円卓の鬼神」と渾名された。連合軍の勝利によって、ベルカ軍はB7Rにおける影響力を喪失した。この頃、ベルカ内部の強硬派である「灰色の男たち」は、連合軍の進撃を食い止めるため自国領への核兵器の投下を画策していた。核攻撃に対してはベルカ内部でも反発があり、核攻撃を命令されたウォルフガング・ブフナー大佐は戦闘機を強奪して脱走し、逃亡中に撃墜されている[注 5]。
6月1日、連合軍は北ベルカの南東に位置する工業都市ホフヌングの破壊を目的としたカニバル作戦を開始した。ホフヌングはベルカの軍需産業を支える工業地帯と見られており、連合軍による爆撃対象に選定された。現地では連合軍の地上部隊が進撃し、爆撃機連隊による空爆が加えられた。また、ベルカ軍による焦土作戦も同時に実施された。連合軍は民間区域も無差別に攻撃し、ベルカ軍の地上部隊によって兵器関連施設が焼き払われB-2爆撃機による空爆も敢行された。街は炎で覆われ、敵味方からの攻撃で現地の民間人は大混乱に陥った。
ベルカ軍は各地で次々に敗走していった。特に連合軍との最前線になった南ベルカは北ベルカの政府に不満を抱き、5月中旬頃から各都市が非武装宣言をして次々に無血開城していき、ベルカ軍は防衛線の構築すらできずに後退を続けた。連合軍は南ベルカを制圧し、戦線は南北ベルカを隔てるバルトライヒ山脈にまで達した。
南ベルカのバルトライヒ山脈沿いに位置するスーデントールではベルカ軍が徹底抗戦を繰り広げており、この戦いはバルトライヒの決戦とも呼ばれている。この地でベルカ軍の主力となったのは灰色の男たちであり、南ベルカ国営兵器産業廠の工場に眠っていた完成前で未塗装の兵器を用いて抗戦した。6月5日、スーデントールを包囲していた連合軍は3個軍を残して転進し、バルトライヒ山脈の細い退路に苦慮していたベルカ軍の追撃に当たった[5]。
6月6日、連合軍のウスティオ空軍第6航空師団はスーデントールに残るベルカ軍の排除を目的としたラヴェージ作戦を開始した。一方で、ベルカでは核攻撃を主張する強硬派の主導でBm-335爆撃機とその護衛機が出撃し、ウスティオ領へ向かう進路を取った。連合軍司令部はこれをウスティオへの核攻撃を担う爆撃機であると判断し、スーデントールに向かっていたウスティオ軍機にこれを緊急伝達し迎撃に当たらせた。実際には核攻撃の情報は欺瞞であり、この情報は連合軍だけでなくベルカ軍内の反核攻撃派も騙したものであった。反核攻撃派はMiG-31戦闘機からなる部隊に爆撃機を追撃させ、核攻撃派とウスティオ軍機が交戦する中に反核攻撃派も突入するという三つ巴の様相を呈した。結果的に爆撃機はウスティオ軍機により全機撃墜され、後に調査された結果として爆撃機の残骸から核兵器は発見されなかった。
この戦闘の最中、ベルカ軍はバルトライヒ山脈に沿って7発のV1戦術核兵器を炸裂させた。5発はスーデントール近郊やシュティーア城近辺などの南北ベルカを隔てる地点、1発はウスティオ国境付近、1発はレクタ国境付近であった。この核爆発で北ベルカとを接続する7つの街が消滅し、1万2000人を超える死者が発生した。ベルカ領内での核攻撃を想定していなかった連合軍は完全に混乱状態に陥った。核爆発によって生じた電磁パルスで通信網は破壊され、連合軍は戦局の把握が困難となった。スーデントールのベルカ軍はこの隙に突撃を敢行し、連合軍の包囲網を突破した[5]。連合軍はバルトライヒ山脈を超えての進撃が困難となり、北ベルカへの本格的な攻勢は頓挫した[9]。
なお、後に決起する「国境無き世界」の指導者と考えられているジョシュア・ブリストー大尉率いるオーシア空軍の第8航空団第32戦闘飛行隊がバルトライヒの決戦の最中に戦線から行方をくらました[注 6]。6月6日には核爆発の混乱に乗じてブリストー大尉はガルム隊2番機を務めるラリー・フォルク少尉と接触し共に離脱した。
ベルカでは核兵器を用いた自爆作戦は政治的にも軍事的にもダメージが大きく、連合軍主導で暫定政権が成立した[9]。しかし未だベルカ国内では主戦派の軍人が抵抗を続け、武装解除に応じない部隊も師団レベルで存在していた。
連合軍は武装解除に応じないベルカ軍の掃討を開始した。6月13日、ウスティオ空軍第6航空師団はシルム山の麓のイエリング鉱山周辺を拠点に活動するベルカ軍抵抗部隊の排除を目的としたストーンエイジ作戦を開始した。ガルム隊がイエリング鉱山付近のベルカ軍に損害を与えたものの、ベルカ軍の撤収は始まっており、現地にあった「鳥の巣」と呼ばれる巨大格納庫で建造が進められていた重巡航管制機フレスベルクも既に別の場所に移動されていた。戦争前から「鳥の巣」の存在は周辺国にも知られていたが、南から吹く湿度の高い風によって常に雲で覆われ、衛星による解析が困難だったため、連合軍はそこで何が建造されているかを掴めていなかった[14]。
6月20日、南ベルカのルーメンで連合軍参加国とベルカ暫定政府の間で停戦条約が締結された。降伏文書調印式は16時より開始された。降伏に応じないベルカ軍の抵抗部隊は北ベルカ北東のアンファングに集結していた。ただし、ベルカ側の資料では連合軍への降伏地点としてアンファングが指定されていたとするものもある[15]。アンファングに集結したベルカ軍を殲滅するため、連合軍は極秘作戦としてブルーム作戦を開始した。作戦開始時刻は降伏文書調印式が始まる16時で、傭兵を主力とする部隊が攻撃を担った。連合軍は作戦区域を3つに分け、それぞれマーズ方面隊、マーキュリー方面隊、ジュピター方面隊と名付け、マーズ、マーキュリー、ジュピターの順で作戦が開始された。連合軍の攻撃によってアンファングにいたベルカ軍は大きな損害を被った。
ルーメンでの降伏文書調印をもってベルカ戦争は終結した。戦後処理については終戦協定に基づいて、戦勝国の間で国境線の画定に関する交渉や、ベルカが保有していた天然資源の分配に関する交渉が展開された。
国境無き世界蜂起 | |
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戦争:国境無き世界蜂起 | |
年月日:1995年12月25日 - 1995年12月31日 | |
場所:ルーメン、ヴァレー空軍基地、シュティーア城周辺、B7R、アヴァロンダム | |
結果:連合軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
連合軍 | 国境無き世界 |
指導者・指揮官 | |
アントン・カプチェンコ ジョシュア・ブリストー | |
ベルカ戦争の終結後、約半年に渡って一見すると平和な時間が流れた。引き続き各国による資源権益の分配や国境線の線引きについての交渉が続けられており、連合軍という軍事機構も維持されていたが、軍人同士が公然と戦闘する状況ではなくなった。一方でベルカの敗戦が決定付けられる前から活動を開始していた「国境無き世界」は各国から同志を集めており、決起に必要な準備を進めていた。国境無き世界は、既存の世界体制を打破し、国家や国境、国籍、人民、領土といった概念を破壊することを目的とした多国籍クーデター組織である。組織の明確な創設時期は不明だが、ベルカ戦争中の1995年5月下旬にはオーシア空軍のジョシュア・ブリストー大尉による勧誘活動が確認できる。
組織の創設者や指導者は不明瞭ではあるが、有力視されているのがベルカ空軍に所属していたアントン・カプチェンコ中佐と、先述したブリストー大尉である。また、ヴァルデマー・ラルドを中心とするベルカ国内の主戦派からなる旧ラルド派も関与していた[16]。カプチェンコ中佐は1970年にベルカ空軍に入隊しトップエースとして名を馳せ、その卓越した腕前から「金色の啄木鳥」の異名で知られていた人物である。カプチェンコ中佐は年齢を重ねたこともあって1985年に兵器開発部署に転属となり、核兵器や化学レーザー兵器といった様々な兵器の研究開発を目的としたペンドラゴン計画の技術顧問になった。1994年1月には領土拡大を企図していた軍上層部の命令により再度戦闘機パイロットに任命され、中隊を率いる身となったが、1995年3月に突如として中隊ごと姿を消した[注 7]。大規模な捜索隊が組織されたにもかかわらず部隊員が見つかることはなく、4月に空軍はカプチェンコ中佐を戦死と公表した[17]。実際にはカプチェンコ中佐は活動を続け、国境無き世界の創設に携わり、クーデター終結後にB7Rの外れで遺体が発見された。連合軍の捕虜となった人物の証言や、中隊メンバーの通話記録、撃墜された機体の通信記録などからカプチェンコ中佐が国境無き世界の主要人物であることが判明している[16]。国境無き世界が迅速かつ計画的に試作型V2戦略核兵器を発射可能なアヴァロンダムの接収に動いたことから、ペンドラゴン計画に携わったカプチェンコ中佐の情報が活用された可能性が指摘されている[17]。ブリストー大尉も捕虜の証言で組織の主要人物であることが判明している。ブリストー大尉は連合軍が結成され他国との合同作戦が増えるようになると、各国軍の将兵と接触し国境無き世界へ誘った。また、連合軍将兵以外にもベルカ軍将校との接触も確認されている[18]。
国境無き世界の理念は、国家や国境の概念を破壊することにある。ベルカの資源を求めて連合軍参加国の間で資源分配で優位に立つために繰り広げられていた外交競争をカプチェンコ中佐は「醜いパイの奪い合い」と形容している。国境無き世界の指導者層は国家や国境といった概念を破壊するための第一歩として、試作型V2戦略核兵器を使うことを画策した。V2は個別誘導複数目標弾頭(MIRV)であり、一発のミサイルから複数の核弾頭に分離し多数の目標への核攻撃を可能とする。国境無き世界は、この試作型V2でオーシア大陸各地の主要都市や資源採掘所を攻撃することで文明の退化を促し、国境のない新たな社会秩序の構築をゼロから目指そうとした[19]。ただし、こうした理念が国境無き世界参加者の全員が共有していたわけではなく、部隊長への個人的な忠誠心から参加した者や、反オーシア感情から参加したユークトバニア人などが存在していた。国境無き世界への参加者は国際色豊かで、少なくともベルカ人、オーシア人、サピン人、ウスティオ人、ユークトバニア人の存在が確認できる[16]。
時期は不明ながらも、元ベルカ空軍所属のパウル・ルンメニゲが率いる部隊によって最新鋭機器を含む兵器が強奪され、これらは国境無き世界の武装となった。ユークトバニア人と考えられるビクター・メトレフは、ユークトバニア軍から国境無き世界参加者を募った[16]。
12月に入ってから、ムント渓谷の奥地に位置する「アヴァロンダム」から水が抜かれた。アヴァロンダムは表向き多目的ダムとして建造された施設だが、実際はダムに偽装した弾道ミサイル発射基地であり、水を貯めることで普段はダムとしてカモフラージュしていた。いつから水が抜かれたのかは明確ではないが、11月30日にダムの写真が撮影されており、その時点ではまだ水が満たされていた[20]。水を抜かれたアヴァロンダムは弾道ミサイル基地としての能力を発揮できる状態となり、試作型V2が発射可能となった。
12月25日、国境無き世界は本格的に蜂起した。秘匿されていた重巡航管制機フレスベルクを運用し、かつて降伏調印式が執り行われたルーメンを爆撃した。ヴァレー空軍基地のウスティオ空軍はフレスベルクを撃墜するため、航空部隊の出撃準備を進めていたが、護衛機を従えたフレスベルクは先んじてヴァレー空軍基地に爆撃を加えた。基地への爆撃に成功したフレスベルクは北西へ転進した。ウスティオ空軍はヴァルキューレ作戦を開始し、ヴァレー空軍基地から発進したガルム隊は、シュティーア城近辺を飛行していたフレスベルクを捉えた。フレスベルクは多数の護衛機を伴っていたが、いずれも撃墜されフレスベルクも撃墜された。この戦闘で連合軍は国境無き世界にはベルカ軍のみならずオーシア軍やサピン軍も加わっていることをはっきりと認識し、情報捜査が進められた。
国境無き世界は南ベルカ国営兵器産業廠を接収しており、その際に両者の間で密約が交わされた。南ベルカ国営兵器産業廠はADFX-02技術検証機の提供を見返りに、優秀なパイロットによる実戦データを要求した。この取引によってADFX-02は国境無き世界によって運用され、試作型V2の管制を担うことになった。パイロットは元ガルム隊2番機のラリー・フォルク少尉が担当した[21]。
アヴァロンダムを接収した国境無き世界は、試作型V2の発射を試みた。12月31日、脅威を認識した連合軍は、直ちに航空部隊を派遣した。ヴァレー空軍基地からはガルム隊がB7R上空を突っ切ってアヴァロンへと向かうサンダーボルト作戦を開始した。ガルム隊はB7R上空で国境無き世界の戦闘機部隊と交戦に入り、全機を撃墜した。ガルム隊は空中給油を受けつつアヴァロンへ向かい、別ルートからも多数の連合軍機がアヴァロンへ向かった。アヴァロンダムには無数の対空火器があり、航空機の接近は困難であった。連合軍は作戦参加機を、対空砲火を引きつける囮部隊と、ダム攻撃部隊のふたつに分けた。囮部隊が対空砲火を引きつけている間にアヴァロンダムに通ずるムント渓谷の間を攻撃部隊が強行突破し、ダムの中に位置する核ミサイルの制御装置を破壊する作戦であった。連合軍はこれをポイントブランク作戦と命名した。ムント渓谷の間を縫うようにダム攻撃部隊が強行突入したが、国境無き世界は峡谷の間にも対空火器を設置しており、また峡谷に侵入して連合軍機と相対しヘッドオンを狙う戦闘機部隊もあった。多数の連合軍機が撃墜されたものの、ガルム隊はアヴァロンダムへの到達に成功し、試作型V2の制御装置があるダムの地下に突入し3つの制御装置を破壊した。地下から脱出したガルム隊はフォルク少尉が搭乗するADFX-02と交戦を開始した。フォルク機はレーザー砲による先制攻撃でガルム隊2番機を撃墜し、ガルム隊1番機パイロットのサイファーと一対一のドッグファイトを展開した。戦闘の最中に1発の試作型V2が発射されたものの、サイファーがADFX-02を撃墜したことで管制を失い、試作型V2は大気圏外で暴発した[9]。これをもって、オーシア大陸各地への核攻撃は阻止された。
バルトライヒ山脈で炸裂した7つの核爆発による混乱や、ベルカが使用した電磁兵器によって情報が錯綜し、記録抹消工作も合わさって、ベルカ戦争と国境無き世界によるクーデターの戦後処理は困難を極めた[9]。情報の錯綜によって戦死者の遺体確認においても問題が発生した。B7Rのように地理的に遺体の捜索が困難な地域もある上に、生前の姿と一致しない遺体が発見されたり、偽装工作も加わり捜査が難航した[9]。
戦後も国境線の画定について争われたが、停戦条約の発効によって決着がついた。南ベルカはオーシアの信託統治領となり、ノースオーシア州になった。それ以外の国々の国境線は戦前の状態で確定した。南ベルカの割譲によってベルカは戦前と比較して領土の半分以上を失った。ベルカ連邦は連邦の盟主であったベルカ公国領のみが残り連邦制は解体された。ベルカが持つ天然資源の分配については、引き続き各国の政府間交渉で決定することとなった[9]。南ベルカのスーデントールに位置する南ベルカ国営兵器産業廠は、オーシア領に組み込まれたことでノースオーシア・グランダーI.G.へと改組し、後にグランダー・インダストリー・グループと呼ばれる巨大軍需企業となった[6]。
連合軍参加国によって、ベルカ戦争や国境無き世界に関連した人々が戦犯として裁かれた。多くのベルカ人が戦犯として裁かれたものの、優れた技術力や指導力を持ったベルカ人を自国に招くため罪を軽減する例もあった。こうして各国に招かれたベルカ人は自身の技能を活かして辣腕を振るった者がいる一方で、後述するようにオーシアやユークトバニアでは灰色の男たちに協力して工作活動をする者もいた。また、戦犯追及を逃れるため友好国のエストバキアへ亡命した例も見られる[9]。
ベルカ戦争後から21世紀初頭にかけてベルカ軍の解体が進められた[22]。1996年1月17日、捜査により主戦派の旧ラルド派と国境無き世界との繋がりが明らかとなり、ヴァルデマー・ラルドが失脚した[23]。ラルドの失脚後、ベルカ空軍では第6航空師団長のブラウヴェルト中将が空軍の再建に努めた[16]。強硬派の灰色の男たちは地下に潜伏し、南北ベルカの統一と戦勝国への復讐を目的にオーシアやユークトバニアで工作活動を開始した。また、潜伏した技術将校の間には、V2さえ完成していれば戦局はまた違ったものになったはずとする「V2神話」が生まれており、ノースオーシア・グランダーI.G.によってV2の開発が極秘に進められた[5]。
オーシアでは国民に対して戦争に関する情報公開は制限された。7つの核爆発のような衝撃的な事件は一般報道されていたが、戦争の詳細は公開されずV2の存在についても秘匿された。2005年になってから一部情報が開示され始めた。
ベルカ戦争の教訓と経済的打撃を契機に、戦勝国であるオーシアとユークトバニアの間で融和政策が進展し、冷戦が終結へと向かっていった[24]。
戦後、オーシアではベルカ人や国境無き世界の残党によるテロ事件や工作活動が発生し、情報部や特殊警察などによる捜査が進められた[9]。
元ベルカ空軍パイロットのオズヴァルド・ベイエルマンによって組織された元ベルカ軍人を中心とするテロリストグループの「暁の鷹」は、オーシアを中心に少なくとも7件のテロ事件を起こした。カプチェンコの部下であったイーゴン・ストラウスは、武装した8人と共にOWC通信社を襲撃し人質9人の命と引き換えに、収監されているベルカ人135名の釈放を要求した。事件から38時間後には特殊部隊によってストラウスは射殺された[16]。
国境無き世界の鎮圧後も生き残ったブリストーは国境無き世界の再建を目指して活動した。1996年、オーシア政府が展開するユークトバニア融和政策に反発し、ブリストーは国境無き世界で行動を共にした者たちと共謀して大統領の暗殺を計画した。計画は内部からの密告により当局に露見し、特殊部隊によって隠れ家が急襲を受け、部下たちは射殺、あるいは逮捕された[16]。1999年、部下からの密告を受けてブリストーも逮捕され、複数の重戦争犯罪に関与した罪で2005年時点ではランドフォード・オーシア連邦刑務所に収監されている[18]。
終戦から10年後の2005年、ベルカ戦争に関する一部の資料が公開された。これを受けてジャーナリストのブレット・トンプソンが情報収集と各地への取材に赴き、OBCが制作したドキュメンタリー番組が「Warriors and The Belkan War(ベルカ戦争の真実[25])」である。このドキュメンタリーは、2005年に公開された資料の中で「鬼(Demon)」と記述されていたウスティオ空軍のある傭兵戦闘機パイロットに焦点を当てたもので、この傭兵に関わった人物へのインタビューを始め、当時知られていなかったベルカ戦争とクーデター事件に関する様々な情報を含むものとして、高い評価を受けた[25]。
ベルカ戦争の終戦から15年後の2010年に環太平洋戦争(ベルカ事変)が勃発した。友好国であったオーシアとユークトバニアが突如として開戦した経緯には不透明な点が多々あったが、その背景には開戦以前から継続的に行われていた一連の工作活動が存在していた。ベルカ戦争の終戦後、連合軍による追及から逃れ地下に潜伏していたベルカ人の強硬派テロネットワーク「灰色の男たち」は、両国政府や軍部に対する大規模な工作活動を展開しており、かつての連合軍構成国を代表する両国の同士討ちを図った。壮大な策謀であるが、その目的は単純化すればベルカ戦争の復讐に過ぎず、ベルカ戦争が残した禍根の深さを物語っている。
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