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スペインの自転車競技選手 ウィキペディアから
アルベルト・コンタドール・ベラスコ(Alberto Contador Velasco, 1982年12月6日- )は、スペイン・マドリード生まれの元自転車競技ロードレース選手。2007年のツール・ド・フランスと2008年のジロ・デ・イタリアおよびブエルタ・ア・エスパーニャで総合優勝し、史上5人目となるグランツール完全制覇達成者となった[1]。
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基本情報 | |||||||||
本名 |
アルベルト・コンタドール・ベラスコ Alberto Contador Velasco | ||||||||
愛称 |
El Pistolero(エル・ピストレロ) Conta(コンタ) | ||||||||
生年月日 | 1982年12月6日(41歳) | ||||||||
国籍 | スペイン | ||||||||
身長 | 176cm | ||||||||
体重 | 62kg | ||||||||
選手情報 | |||||||||
所属 | 引退 | ||||||||
分野 | ロードレース | ||||||||
役割 | 選手 | ||||||||
特徴 |
オールラウンダー クライマー | ||||||||
プロ経歴 | |||||||||
2003 2004–2006 2006 2007 2008-2010 2011-2012 2012.8.6-2013 2014-2016 2017 |
オンセ・エロスキ リバティセグロス・ウルト アスタナ・ウルト ディスカバリーチャンネル チームアスタナ サクソ・バンク - サンガード サクソ - ティンコフ ティンコフ - サクソ ティンコフ トレック・セガフレード | ||||||||
グランツール最高成績 | |||||||||
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主要レース勝利 | |||||||||
UCI ワールドランキング
ティレーノ〜アドリアティコ
パリ〜ニース
バスク一周
セトマナ・カタラナ
スペイン選手権
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最終更新日 2018年10月18日 |
幼少期はサッカーや陸上に親しんでいたが、自転車競技をやっていた兄の影響を受け、自身も競技を始めるようになる。そして2002年にスペインのU-23個人タイムトライアルで優勝するなどの実績をあげて、2003年にオンセ・エロスキでプロデビュー。
同年のツール・ド・ポローニュでステージ優勝を飾りプロ初勝利を飾ったほか、ブエルタ・ア・カスティーリャ・レオンでも総合4位に入り、期待の若手選手としての評価を高めていった。
しかし2004年5月12日、出場していたアストゥリアス一周の第1ステージで突然意識を失って落車。緊急輸送された病院で脳の海綿状血管奇形が原因と判明。緊急の開頭手術が行われた。一時は生死の境をさまよう重体に陥ったが、半年間の入院期間を経て退院。その復帰初戦となった2005年の1月に開催されたツアー・ダウンアンダーの第5ステージで優勝を果たして復調ぶりをアピールした他、同年3月が最後の開催となったセトマナ・カタラナ(カタロニア週間レース)では総合優勝を果たした。
その後、バスク一周では、優勝のダニーロ・ディルーカ、2位のダヴィデ・レベッリンのイタリア勢に続く総合3位に入りポイント賞を獲得。ツール・ド・ロマンディでもステージ勝利をあげて総合4位に入った。さらに初出場となったツール・ド・フランスでは総合31位、マイヨ・ブラン(新人賞)争いでは3位に入り、活躍の場を一気に広げていった。
この年はツール・ド・ロマンディステージ1勝をあげて総合でも2位。ツール・ド・スイスでもステージ勝利を上げる活躍を見せたが、ツール・ド・フランス開催の迫る5月末に行われたドーピング摘発作戦オペラシオン・プエルトで所属チーム監督が逮捕され、スポンサーが撤退。一時はチーム解散の危機に会う。その後新たなスポンサーがつき出場のめどこそついたが、直後にUCIからドーピングの疑いがあるとしてコンタドールに出場停止処分が下される憂き目にあった(その後無罪となり停止処分は解除されている。また今回の騒動と発端となったスペイン人医師もコンタドールは知らないと語ったとされる)。
さらに追い討ちをかけるように、ブエルタ・ア・エスパーニャに向けた調整のために出場していたブルゴス一周の第4ステージ終了後、突然の失神。幸いすぐに意識を取り戻したものの、2年前の多孔性血管腫の後遺症と診断され、大事をとるためブエルタの出場はキャンセル。その後もレースに出ることのないままシーズンを終え、結局オペラシオン・プエルトのあおりでこの年いっぱいでチームも解散。新しい所属先を探すことになった。
2007年1月にディスカバリー・チャンネル プロ・サイクリングチームへ移籍。
パリ〜ニースでは頂上ゴールが設定された第4ステージでステージ優勝を遂げたほか、最終ステージで総合首位だったダヴィデ・レベッリンを逆転して総合優勝を果たし、初のメジャータイトルを獲得。続くブエルタ・ア・カスティーリャ・イ・レオンでも総合優勝を果たした。
この勝利が評価され、ツール・ド・フランスではリーダーゼッケンをつけるリーヴァイ・ライプハイマーに次ぐ2番手のポジションを与えられ、同年のジロ・デ・イタリアでエースを務めたヤロスラフ・ポポヴィッチをアシストに従えるという贅沢な布陣で挑むことになった。
2つの超級山岳パイエル峠(標高2001m、平均勾配7.2%、長さ16.8km)とプラトー・ド・ベイユ(標高1780m、平均勾配7.9%、長さ19.7km)を登る第14ステージ山頂ゴールにおいて、初のステージ優勝を果たして総合でも2位に浮上[2]。総合首位だったミカエル・ラスムッセンに第16ステージで競り負けて差を広げられたものの、次ステージ前にラスムッセンが棄権した[3][4]ことによりついに総合トップへ浮上。第17ステージ終了後に待望のマイヨ・ジョーヌを手中にした。
この時点で総合2位のカデル・エヴァンスとの差は1分53秒、4位のライプハイマーとも2分49秒差にとどまり、両者が得意とする個人タイムトライアルが行われる第19ステージの結果次第では逆転の可能性があったが、懸命の走りで区間5位に食い込み、ステージ優勝したライプハイマーから2分18秒、エヴァンスからも1分27秒遅れにとどめて23秒差でエヴァンスを振り切り総合1位を死守[5]。史上まれに見る接戦を制して、24歳の若さ、そしてグランツール2回目の出場にして総合優勝を達成。新人賞のマイヨ・ブランも同時に獲得し、ローラン・フィニョン(1983年)、ヤン・ウルリッヒ(1997年)に続く3人目のツール・ド・フランス総合優勝&新人賞同時獲得者となった。
しかし、ツール・ド・フランスが終了した翌7月30日に オペラシオン・プエルトに関連して、コンタドールの名前が書かれたリストをドイツ警察当局が入手したという話を契機として、ドーピング疑惑が浮上[6]。これに対して本人は一貫して潔白を主張し、疑惑を証明するような事実も出てこなかったが、当年限りで所属チームのディスカバリーチャンネルが解散することを決定したことも重なり、シーズン終盤は、レース出場よりも、移籍先探しに奔走せざるを得なくなった。
そのためツール・ド・フランス以降は、カテゴリーの低いレースに出場することはあっても、世界自転車選手権やUCIプロツアー対象レースに出場することはなかったものの、ツール・ド・フランスなどでの活躍が高く評価され、2007年度のヴェロ・ドールを受賞。大飛躍のシーズンを締めくくった。
2008年は、エースだったアレクサンドル・ヴィノクロフをドーピング疑惑で失い、チームの建て直しが急務だったアスタナに監督として迎えられたヨハン・ブリュイネールから誘いを受けたこともあり、ライプハイマーら5名のチームメイトとともにアスタナへ移籍。
しかし、この年はUCIとアモリ・スポル・オルガニザシオン(ASO)の対立のあおりで、前年度に大きなドーピング問題のあったアスタナをASOが主催するレースには招待しないという表明(詳しくは、パリ〜ニース2008#ASOがUCIを排斥を参照)がなされ、前年度の総合優勝者でありながらツール・ド・フランスの出場が不可能となってしまったほか、ジロ・デ・イタリアを主催するRCSがジロ・デ・イタリアについてもアスタナを招待しないことに決したことから、一時は当年のジロ出場も不可能となった。
上述の問題から、途中移籍騒動まで持ち上がった[7]が、当人はこの噂を否定。その渦中に開催されたブエルタ・ア・カスティーリャ・イ・レオンでは連覇を達成した。さらにバスク一周でも第1ステージから総合首位に立ち、そのまま最後まで首位を守って総合優勝して実力を猛アピール。さらにツール・ド・ロマンディでもアンドレアス・クレーデンが総合優勝するなどアスタナの活躍が続いたためか、ジロ・デ・イタリアを主催するRCSが開催一週間前になって急遽招待を決定した。しかしこの時、コンタドールはバカンス中で「ビーチでトレーニングしていた」とコメント。まったくコンディション調整をしていないままで参加する事態になり、そのうえ前年のツール・ド・フランス総合優勝者ということで周囲からも厳しいマークにあうことになった。
それでも徐々に調子をあげていき、第8ステージでの落車で左腕の橈骨にヒビが入ってしまう事態[8]に見舞われたものの幸いにして怪我の程度は軽く、厳しい上りが設定された第10ステージの個人タイムトライアルではステージ2位の快走を見せて総合で4位まで浮上。その後の山岳ステージでも堅実な走りを見せ、第15ステージ終了後、ついに総合首位に立ってマリア・ローザを獲得[9]。その後も、第16ステージではプラン・デ・コロネス(標高2273m、平均勾配8.4%、最大勾配24%)へのヒルクライム個人タイムトライアルにおいてステージ4位[10]など3週間を通じて安定した走りをして、区間未勝利ながらもリカルド・リッコやダニーロ・ディ・ルーカらとの激戦を制して、イタリア国籍選手以外では1996年のパヴェル・トンコフ(ロシア)以来12年ぶり、スペイン国籍選手としては1993年のミゲル・インドゥライン以来15年ぶりとなる総合優勝を果たした[11]。
8月の北京オリンピックでは、男子ロードレースと男子個人タイムトライアルに出場。ロードレースではアシストに徹し、終盤の牽引役を務めた後でリタイア。個人タイムトライアルでは、中間のタイム計測地点ではトップに立ったが、後半ペースが落ち、優勝したファビアン・カンチェラーラに遅れること1分18秒で4位となった。
そして迎えたブエルタ・ア・エスパーニャでは前半は堅実な走りに徹し、最難関と見られた第13ステージの「魔の山」と称されグランツール最難関の山と噂のアングリル(高低差1263m、平均勾配10.3%、最大勾配23.5%)の上りでリーヴァイ・ライプハイマーとの絶妙な連携を見せて総合優勝争いのライバルであるカルロス・サストレを引き離し、しぶとく食い下がるアレハンドロ・バルベルデらも振り切ってステージ優勝[12]。ついにマイヨ・オロ(ゴールデンジャージ)を手中にすると次の第14ステージでも勝利し[13]、その後も安定した走りを見せて総合優勝(複合賞も獲得)[14]。1981年にジョヴァンニ・バッタリンが達成して以来史上3人目、1995年にブエルタが開催時期を現在の開催時期に移行(1994年までは例年概ね、4月から5月にかけての開催)してからは初となる、同一年度におけるジロとブエルタの両レースでの総合優勝達成者となったほか、史上5人目となるグランツール完全制覇の偉業を達成した[15]。
ヴォルタ・アン・アルガルヴェでは初の総合優勝を飾り、シーズン初頭から好調な走りを見せた。
3月に行われたパリ〜ニースでは、第1、第6ステージを制し、第6ステージ終了時点で総合首位に立ったが、第7ステージ終盤にハンガーノックを起して先頭集団から後退、ルイス・レオン・サンチェスに首位の座を明け渡し、総合4位となる。一方、4月に行われたバスク一周では逆に第4ステージにおいて、サンチェスから総合首位の座を奪い、そのまま最後まで守りきって総合連覇を達成した。
前年制覇したジロ・デ・イタリアには参加せず、6月上旬に開催されたドーフィネ・リベレに出場。ツール・ド・フランスのための調整を主眼とした走りで総合3位に入った。また、同月下旬に行われた国内選手権・個人タイムトライアルを制覇。
ツール・ド・フランスは2年ぶりの出場となった。
モナコで行われた第1ステージの個人タイムトライアル(ITT)において、ファビアン・カンチェラーラに18秒差の2位に入り、山岳賞部門では首位[16]。第4ステージのチームタイムトライアル(TTT)では区間優勝に貢献する走りを見せた[17]。ピレネー山脈超え山岳ステージ第1ラウンドとなる第7ステージのアンドラ・アルカリス(標高2240m、登坂距離10.6km、平均勾配7.1%)の頂上ゴールでは、強力なアタックを見せて総合争いのライバル達を引き離し、総合首位のリナルド・ノチェンティーニに対し、6秒差の総合2位に浮上[18]。そして、アルプス山脈超え山岳ステージ第1ラウンドとなった第15ステージ、スイス、ヴェルビエ(標高1,468m、登坂距離8.8km、平均勾配7.5%、最大勾配8.5%)の頂上ゴールを制し、総合首位に立った[19]。アルプスでの山岳ステージが終了した直後に行われたアヌシー湖を周回する第18ステージのITTでは、モナコで敗れたカンチェラーラに対して3秒差をつけて破り、2度目の区間優勝[20]。また総合2位のアンディ・シュレクに4分11秒の差をつけ、この時点で2度目の総合優勝に大きく前進。そして最後の勝負どころとなった、モン・ヴァントゥがゴールの第20ステージでは、アンディに1秒たりとも差を縮めさせず決着をつけ、2回目の総合優勝を果たした。
UCIワールドランキングではツールでステージ3勝、総合優勝を達成したことでツール・ド・スイスまでトップであったアレハンドロ・バルベルデからトップを奪取。その後のレースにはほとんど出場しなかったが(特にワールドカレンダー指定レースはツールがラスト)、ブエルタ終了時点での2位バルベルデに44ポイント差で逃げ切り、バルベルデがイタリア国内でレースができないために最終戦のジロ・ディ・ロンバルディアに出場できないことから、この時点でワールドカレンダー移行後初の年間王者が決定した。
2009年オフ、今年のランス復帰によるアスタナダブルエース体勢に不満があり、またヴィノクロフの復帰によりカザフスタンチーム色が強まる事の懸念、レディオシャック立ち上げによる有力アシスト陣離脱、アスタナの経営難などという様々な不安要素を抱えたコンタドールは移籍を決意。これにはケス・デパーニュ、ガーミン・スリップストリーム、クイックステップら多数のチームが獲得に名乗り出る。しかしながらアスタナの契約があと1年残っており、強制離脱しようとしたときの違約金がかなりの額になる事が発覚。アスタナ内マネージャーの内紛などもあり、残留か、それとも強制離脱なのか、円満離脱なのかは泥沼と化す。
基本的には違約金額の関係で残留しかないと思われていたが、その後契約書に「アスタナがプロツアーチームであれば契約」という文章が発見され、一時期アスタナが経営難を理由にプロツアーライセンスが下りないという報道が有ったために移籍にGoサインが出された。しかしながら11月26日、新たなスポンサーを獲得した事によるプロツアーライセンスの申請が許可された結果、残留が確定した。
昨年までチームにいた有力アシスト陣がチーム・レディオシャックに移籍したため、チームのアシスト力が懸念されていたが、2月に行われたヴォルタ・アン・アルガルヴェを連覇。3月のパリ〜ニースでは、マンドの山頂ゴールとなった第4ステージを制して総合首位に立ち、追いすがるアレハンドロ・バルベルデに11秒差をつけ、3年ぶり2度目の総合優勝。
4月、2連覇中だったバスク一周を回避して、当年より、バスク一周終了後の開催時期に移行となったブエルタ・ア・カスティーリャ・イ・レオンに参加して2年ぶり3度目の総合優勝。その後、これまでめったに出場することがなかった春のクラシックレースに参加することになり、フレッシュ・ワロンヌでは、優勝のカデル・エヴァンスと同タイムで3位に入った。本人曰く、「クラシックの経験を積むため」に参加したという。[21]
6月に行われたクリテリウム・デュ・ドーフィネ(ドーフィネ・リベレ)では、第6ステージのラルプ・デュエズゴールを制し総合2位とポイント賞を獲得。その後連覇を期してツール・ド・フランスへと挑んだ。
アルプス山脈超え第一ラウンドの第8ステージ終了後、総合3位に浮上[22]。続く同第2ラウンドの第9ステージでは、総合首位に浮上することになるアンディ・シュレクと同タイムでゴールし、総合2位に浮上した[23]。その後4ステージ続くことになるピレネー山脈超えラウンドでは、アンディとの虚々実々の戦いに終始した。第15ステージ、バレ峠付近となる残り24km地点でアンディがアタックを仕掛けると、これを猛追。直後にアンディの自転車のチェーンが外れ、失速したが、構わずに加速を続けた。結局、このアタックが実り、区間7位でゴール。区間12位に終わったアンディに39秒の差をつけ、総合時間差ではわずか8秒差ながらも、ついにマイヨ・ジョーヌを奪取した[24]。アンディのトラブルを待たなかったことに関しては非難する見解と、コンタドールが追撃を始めた後でのトラブルであり、重要な勝負所でレースが動いた局面では待つ必要は無いという見解に意見が分かれたが、表彰台ではブーイングをも浴びることとなった。[25]その後、ツールマレー峠ゴールとなった第17ステージでは、終盤、逆転を期すアンディとのマッチレースが展開されたが、同タイムゴールの区間2位でまとめ[26]、最後の正念場となる第20ステージの個人タイムトライアルを迎えた。迎えた同ステージでは総合上位陣のスタートする時間帯に向かい風が強まりタイムが伸びず、区間優勝のファビアン・カンチェラーラよりも6分近く遅い区間35位に終わったが、区間44位のアンディには31秒の差をつけた結果、アンディを総合タイム39秒差で下し、2年連続3度目の総合優勝を果たした[27]。しかし、2012年2月にドーピング違反が認定されたことにより、この優勝は剥奪された。
ツール・ド・フランス終了後、チーム・サクソバンクの後身チーム名である、サクソ・バンク - サンガードに移籍することが決まった。
2011年はクレンブテロールの陽性反応問題を引きずったままシーズンインを迎えた。
ヴォルタ・アン・アルガルヴェから始動。カタルーニャ一周の前哨戦となるブエルタ・ア・ムルシアで総合優勝し、カタルーニャ一周では、アンドラのバユノルの山頂ゴールとなった第3ステージを制して総合首位に立つと、最終ステージまで守りきって総合優勝を果たしたが、2012年2月にドーピング違反が認定されたことにより2011年1月25日から出場停止処分が適用され、出場停止期間中とされたことで優勝は剥奪された。
3年ぶりに出場したジロ・デ・イタリアでは、好調のミケーレ・スカルポーニと、前年のブエルタ・ア・エスパーニャ総合優勝者であるヴィンチェンツォ・ニバリとの三つ巴戦が予想されたが、エトナがゴールの第9ステージで2人を圧倒して区間優勝を果たしてマリア・ローザを奪取すると[28]、その後のモンテ・ゾンコランやセストリエーレなどの山岳コースゴール区間でも安定した走りを見せ、何と総合2位のスカルポーニに対し6分10秒ものリードをもって総合優勝。ポイント賞も併せて獲得した。また、山岳賞部門でも、第13、14STで首位に立ち、両区間では3部門で首位を経験した。そしてこれで、グランツール出場機会6連続優勝を果たしたが、後にドーピング違反の出場停止期間中とされ優勝は剥奪となった。
2011年のツール・ド・フランスでは、第1ステージの落車で1分以上のタイムをロスしたものの、当初は「ちょうど良いハンデキャップなのではないか」という声もあった。しかし、最初のピレネー山岳ステージとなった第12ステージで優勝候補達から遅れを取ると、ジロの疲れから回復し切れていないことが明らかとなった。アルプスに入った16、17ステージでアタックして遅れを多少取り戻したものの、ガリビエ峠にゴールする第18ステージでは再びカデル・エヴァンス等から遅れ、最終的には総合5位で終わり、出場グランツール連勝記録は途絶えた(後に2012年2月にドーピング違反が認定により2011年1月25日から出場停止処分が適用されたことで順位も剥奪された)。
なお、2011年シーズンはツール・ド・フランスをもって活動を終了することになった。
トレック・セガフレードと1年契約を結び、かねて言っていたとおり現役続行。
引退後の2018年には、イヴァン・バッソと共に、スペイン籍のUCIプロコンチネンタルチームとして「ポーラテック・コメタ」を設立。2021年にはイタリアのIT企業・エオーロ(EOLO)が同チームのメインスポンサーに就き、チーム名も「エオーロ・コメタ」に変更された[48]。
さらに2020年には、やはりバッソと共同で、ラテン語で「金」を意味する「AURUM」を冠した自転車ブランド「AURUM MAGMA」を創設[49]。前述のエオーロ・コメタも自チームの自転車として同ブランドを採用している。
2020年10月には、新型コロナウイルス感染症の流行のため中止となったジャパンカップの代替イベント「デジタルジャパンカップ」に出場している。
3年越しに亘る論争の末、コンタドールは「陽性」と判定された。
2006年のリバティセグロス・ウルトでは、BH Global-Concept-G2を使用し、山岳コースで強烈な上りを見せている。後にこのフレームはその年の秋に最高フレーム賞を受賞、ISPの優位性を見せ付け、その後の流行の発端となった。今でもこのフレームの性能は色あせていない。 2007年に所属したディスカバリーチャンネルではトレック社のマドンにシマノのデュラエースを装着してツール・ド・フランス総合優勝を果たしたが、2008年はSRAM社の最高級コンポであるREDをマドンに装着してジロ・デ・イタリアを勝ち取っている[83]。
2009年のツール・ド・フランスはTrek・Madone6.9Pro+SRAM RED+Bontragerのコンポネートで再びツールを勝ち取った。
2009年シーズンオフにスペシャライズドと個人的にスポンサー契約を結ぶ。チームとメーカーという契約は当たり前ではあるが、個人とメーカーの契約は異例の事。
当初はクライマーの傾向が強かったが、アマチュア時代にスペイン選手権のU-23個人タイムトライアルで優勝するなどもともとタイムトライアルの才能も併せ持った選手であった。そのため2007, 2008年のレースではタイムトライアルスペシャリストに迫る能力を発揮しており[84]、オールラウンダー型の選手へと進化した[85]。特に強みが見えるのは急斜面でのアタック能力で、勝負所の峠で切れ味鋭いアタック開始、一撃で他を置き去りにしゴールまで持っていくという戦法を得意としていて、08ブエルタや09ツールでこの戦法でリーダージャージを奪い取っている。細身でありながらTTスペシャリストを撃破するほどの激走ができる。
一方で、ワンデーレースにおける顕著な実績は前述の国内選手権個人TT制覇くらいで、典型的なステージレーサーと言える。
横線はドーピング違反により抹消された戦績
尚、当該年度の全ての成績を剥奪された2011年シーズンを除き、プロ1年目から現役最終年まで全てのシーズンで勝利を挙げた。
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