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1968年メキシコグランプリ (1968 Mexican Grand Prix) は、1968年のF1世界選手権第12戦(最終戦)として、1968年11月3日にマグダレナ・ミクスカで開催された。
レース詳細 | |||
---|---|---|---|
1968年F1世界選手権全12戦の第12戦 | |||
マグダレナ・ミクスカ(1962–1970) | |||
日程 | 1968年11月3日 | ||
正式名称 | VII Gran Premio de Mexico | ||
開催地 |
マグダレナ・ミクスカ メキシコ メキシコシティ | ||
コース | 恒久的レース施設 | ||
コース長 | 5.000 km (3.107 mi) | ||
レース距離 | 65周 325.000 km (201.946 mi) | ||
決勝日天候 | 晴(ドライ) | ||
ポールポジション | |||
ドライバー | ロータス-フォード | ||
タイム | 1:45.22 | ||
ファステストラップ | |||
ドライバー | ジョー・シフェール | ロータス-フォード | |
タイム | 1:44.23 (52周目) | ||
決勝順位 | |||
優勝 | ロータス-フォード | ||
2位 | マクラーレン-フォード | ||
3位 | ロータス-フォード |
ロータスは、地元出身のモイセス・ソラーナを3台目にスポット起用した[1]。フェラーリは、カナダGPで脚を負傷したジャッキー・イクスが復帰したが、脚を副え木で固定しながらという状態であった[2]。
ロブ・ウォーカーでロータス・49Bを駆るジョー・シフェールがポールポジションを獲得し、2番手のクリス・エイモンとともにフロントローを占めた。チャンピオンを争うグラハム・ヒルとデニス・ハルムは2列目、ジャッキー・スチュワートは4列目からスタートする[5]。
自身のチームから参加するヨアキム・ボニエは予選2日目、マクラーレン・M5Aに搭載されたBRMエンジンが壊れてしまい、ホンダにRA301のスペアカーの借用を申し出た。ホンダはRA301の2号車をボニエに貸し出し、長身のボニエのためにクラッチペダルを調整した[6]。1号車を走らせるジョン・サーティースは6番手で3列目からスタートする[5]。
順位 | No. | ドライバー | コンストラクター | タイム | 差 | グリッド |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 16 | ジョー・シフェール | ロータス-フォード | 1:45.22 | - | 1 |
2 | 6 | クリス・エイモン | フェラーリ | 1:45.62 | +0.40 | 2 |
3 | 10 | グラハム・ヒル | ロータス-フォード | 1:46.01 | +0.97 | 3 |
4 | 1 | デニス・ハルム | マクラーレン-フォード | 1:46.04 | +0.82 | 4 |
5 | 14 | ダン・ガーニー | マクラーレン-フォード | 1:46.29 | +1.07 | 5 |
6 | 5 | ジョン・サーティース | ホンダ | 1:46.49 | +1.27 | 6 |
7 | 15 | ジャッキー・スチュワート | マトラ-フォード | 1:46.69 | +1.47 | 7 |
8 | 3 | ジャック・ブラバム | ブラバム-レプコ | 1:46.80 | +1.58 | 8 |
9 | 2 | ブルース・マクラーレン | マクラーレン-フォード | 1:47.00 | +1.78 | 9 |
10 | 4 | ヨッヘン・リント | ブラバム-レプコ | 1:47.07 | +1.85 | 10 |
11 | 12 | モイセス・ソラーナ | ロータス-フォード | 1:47.67 | +2.45 | 11 |
12 | 8 | ペドロ・ロドリゲス | BRM | 1:47.80 | +2.58 | 12 |
13 | 21 | ジャン=ピエール・ベルトワーズ | マトラ | 1:48.38 | +3.16 | 13 |
14 | 11 | ジャッキー・オリバー | ロータス-フォード | 1:48.44 | +3.22 | 14 |
15 | 7 | ジャッキー・イクス | フェラーリ | 1:49.24 | +4.02 | 15 |
16 | 23 | ジョニー・セルボ=ギャバン | マトラ-フォード | 1:49.27 | +4.05 | 16 |
17 | 18 | ビック・エルフォード | クーパー-BRM | 1:49.48 | +4.26 | 17 |
18 | 17 | ヨアキム・ボニエ 1 | マクラーレン-BRM ホンダ |
1:49.96 | +4.74 | 18 |
19 | 22 | ピアス・カレッジ | BRM | 1:50.28 | +5.06 | 19 |
20 | 9 | アンリ・ペスカロロ | マトラ | 1:50.43 | +5.21 | 20 |
21 | 19 | ルシアン・ビアンキ | クーパー-BRM | 1:50.57 | +5.35 | 21 |
フロントローからスタートしたジョー・シフェールとクリス・エイモンは逃げられず、グラハム・ヒルが首位に立ったが、好スタートを切ったジョン・サーティースが1コーナーでリードを奪った。ヒルは1周目の後半で首位を奪い返し、1周目を終える頃までにサーティース以下を引き離していった。ジャッキー・スチュワートはエイモン、デニス・ハルム、ペドロ・ロドリゲス、ヨッヘン・リントを抜いて3位に浮上した。レース序盤は順位が目まぐるしく変わった[5]。サーティースはヒルを抜いた際にエンジンが8,000rpm以下になると不調を起こすトラブルに見舞われだし、周回を重ねるごとに悪化していった。3周目にスチュワートに抜かれ、5周目に釘を踏んでしまい右リアタイヤがパンクしてしまった。11周目にタイヤ交換を終えてピットアウトしたが、エンジンが急激なオーバーヒートを起こしてしまい、19周目にリタイアした[9]。リントは点火装置の問題でリタイアした[5]。ジャッキー・イクスは脚の負傷で前戦アメリカGPを欠場した後フェラーリに復帰したが、彼も点火装置の故障により4周目にリタイアした[2]。スチュワートは数周に渡ってヒルからリードを奪ったが、ヒルはスチュワートから首位の座を取り戻した。ハルムは3位に浮上した直後にマシンの挙動が乱れだしてシフェールに抜かれていき[5]、11周目にダンパーが壊れてバリアにクラッシュし、もぎ取られた左のホイールは2つともピットロード出口の向こう側まで滑っていった。さらに燃料ラインが路面で削り取られ、摩擦による火花で出火してしまった。消火前にハルムはマシンを脱出し、彼のチャンピオン争いは終わった[10]。
ハルムのリタイアにより、チャンピオン争いとレースの行方はヒルとスチュワートの一騎打ちとなっていたが、22周目にシフェールが首位に立った。しかし、シフェールはスロットルケーブルが壊れたためピットインしなければならず、再びヒルとスチュワートが1-2位に戻り、ジャック・ブラバムが3位に浮上した。そして、スチュワートは燃料供給の問題によりすぐに後退していく。さらにエンジンがミスファイアを起こし、ハンドリングも悪化していった。51周目にブルース・マクラーレン(ブラバムを抜いて3位に浮上していた)とブラバムがスチュワートを抜いていったが、ブラバムはエンジントラブルでリタイアし、ジョニー・セルボ=ギャバンもエンジントラブルでリタイアしたため、ジャッキー・オリバーが3位に浮上した。スチュワートは7位に後退した。ヒルはトップでチェッカーフラッグを受け、1962年以来2度目のドライバーズチャンピオンを獲得した[5]。オリバーは自身初の3位表彰台を獲得した。1965年以来3度目のコンストラクターズチャンピオンを獲得したロータスは、4月にジム・クラークを失い窮地に陥ったが、それを乗り越えて再びしっかりと前進を再開した[11]。2台目のホンダ・RA301を走らせたヨアキム・ボニエは5位に入賞し、ホンダにコンストラクターズポイント2点をもたらした。しかし、年間合計ポイントは14点でコンストラクターズランキング6位[注 1]、サーティースは12点でドライバーズランキング8位[注 2]という結果にとどまり、シーズン開幕前にはチャンピオン獲得を目論んでいたホンダにとっては不本意以外の何物でもなかった[4]。
メキシコ政府は国民の不安を抑えようと努力した結果、憲兵隊から非武装の警官隊に切り替え、観衆を統制するためにコースマーシャルとともにコース上に配置された[12]。しかし、レースが終わる頃には観衆がコース上に侵入した。これが後にメキシコGPを中止に追い込んだ理由の一つとなった[13]。
順位 | No. | ドライバー | コンストラクター | 周回数 | タイム/リタイア原因 | グリッド | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | 10 | グラハム・ヒル | ロータス-フォード | 65 | 1:56:43.95 | 3 | 9 |
2 | 2 | ブルース・マクラーレン | マクラーレン-フォード | 65 | +1:19.32 | 9 | 6 |
3 | 11 | ジャッキー・オリバー | ロータス-フォード | 65 | +1:40.65 | 14 | 4 |
4 | 8 | ペドロ・ロドリゲス | BRM | 65 | +1:41.09 | 12 | 3 |
5 | 17 | ヨアキム・ボニエ | ホンダ | 64 | +1 Lap | 18 | 2 |
6 | 16 | ジョー・シフェール | ロータス-フォード | 64 | +1 Lap | 1 | 1 |
7 | 15 | ジャッキー・スチュワート | マトラ-フォード | 64 | +1 Lap | 7 | |
8 | 18 | ビック・エルフォード | クーパー-BRM | 63 | +2 Laps | 17 | |
9 | 9 | アンリ・ペスカロロ | マトラ | 62 | +3 Laps | 20 | |
10 | 3 | ジャック・ブラバム | ブラバム-レプコ | 59 | 油圧 | 8 | |
Ret | 23 | ジョニー・セルボ=ギャバン | マトラ-フォード | 57 | イグニッション | 16 | |
Ret | 14 | ダン・ガーニー | マクラーレン-フォード | 28 | サスペンション | 5 | |
Ret | 22 | ピアス・カレッジ | BRM | 25 | エンジン | 19 | |
Ret | 19 | ルシアン・ビアンキ | クーパー-BRM | 21 | エンジン | 21 | |
Ret | 5 | ジョン・サーティース | ホンダ | 17 | オーバーヒート | 6 | |
Ret | 6 | クリス・エイモン | フェラーリ | 16 | トランスミッション | 2 | |
Ret | 12 | モイセス・ソラーナ | ロータス-フォード | 14 | ウイング破損 | 11 | |
Ret | 1 | デニス・ハルム | マクラーレン-フォード | 10 | サスペンション | 4 | |
Ret | 21 | ジャン=ピエール・ベルトワーズ | マトラ | 10 | サスペンション | 13 | |
Ret | 7 | ジャッキー・イクス | フェラーリ | 3 | イグニッション | 15 | |
Ret | 4 | ヨッヘン・リント | ブラバム-レプコ | 2 | イグニッション | 10 | |
DNS | 17 | ヨアキム・ボニエ | マクラーレン-BRM | エンジン | |||
ホンダはRA301をインディアナポリス・モーター・スピードウェイに持ち込み、F1活動初期の1964年-1966年に在籍していたロニー・バックナムによってテスト走行を行った[18]。その後、本田技研工業が2輪主体から本格的な4輪並行出産に移行するため、世界市場に通用する市販車の開発を優先する方針もあり、F1撤退を決定した。ただし、イギリスのホンダ・レーシングから発表されたプレスリリースは「撤退」ではなく、「ホンダが本格的な4輪メーカーとして成長するまでの”一時休止”」という形を取った[19]。こうして5年に渡るホンダの第1期活動は幕を閉じた。ホンダがF1活動を再開するのは、エンジンサプライヤーとして15年後の1983年まで[4]、フルワークス活動の再開は2006年まで待たなければならなかった。
そして、1959年-1960年にコンストラクターズチャンピオンを獲得したクーパーもこの年をもってF1から撤退した[20][注 3]。
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