1945年の映画(1945ねんのえいが)では、1945年(昭和20年)の映画分野の動向についてまとめる。
1944年の映画 - 1945年の映画 - 1946年の映画
日本
- 戦火で焼失する映画館、逐次増加。1月・5館、2月・3館、3月・106館、4月・55館、5月・47館、6月・84館、7月・140館、8月・74館[注 1]。
- 1月
- 松竹太秦撮影所失火。
- 1月26日 - 映写用炭素棒[7]、一部製造中止。
- 1月27日 - 東京・新富町にある松竹本社が米軍の直撃弾を受け、即死6名・負傷者30名。
- 2月
- 情報局国民映画賞、『加藤隼戦闘隊』(総裁賞)、『雷撃隊出動』、『野戦軍楽隊』[10]、『雛鷲()の母』[11]受賞。
- 映配九州本部倉庫、失火により全焼。プリント(ポジフィルム[12])の被害甚大。
- 2月1日 - フィルム事情悪化のため、映画館の4割に映画が配給されなくなる。2月3日、同様にニュース映画が2週間ごとの更新になった。
- 2月2日 - 「大東亜映画選定褒章制度」、映画協会で設定。
- 2月5日 - 『海の虎』(春原政久監督)、情報局国民映画に選定、8日封切[14]。
- 2月15日 - 大映直営浜松映画劇場、空襲のため焼失。
- 3月
- 文部大臣賞、『加藤隼戦闘隊』(特賞)、『あの旗を撃て』、『轟沈』、『爆風と弾片』(ドキュメンタリー)受賞。
- 大東亜映画賞、『あの旗を撃て』、『狼煙は上海に揚る』[15]、『萬世流芳()』[16]受賞。
- 映画雑誌『映画評論』・『新映画』・『日本映画』の3誌、空襲による印刷製本の機能破壊で発行不能。
- 3月9日 - 東宝、大阪・梅田映画劇場と南街映画劇場を吸収合併。
- 3月10日
- 3月13日
- 3月19日 - 名古屋・常楽館 (休止館)、空襲のため焼失。
- 4月
- 日映練馬撮影所、戦災により焼失。
- 4月1日 - 入場税率改正、1円未満100%、1円以上200%。
- 4月13日 - 京都・東舞鶴大映劇場、疎開命令により休止。
- 4月24日 - 大日本映画製作(大映)の直営館29館、日本活動写真(日活)への譲渡成立調印[20] [注 2]。日活の劇場数は合計90館になる[20] [注 3]。
- 5月
- 5月1日 - 大日本映画製作(大映)の直営館3館(浅草電気館・麻布大映劇場・京都京極映画劇場)、松竹へ譲渡。
- 5月17日 - 『生ける椅子』(野淵昶監督)、情報局国民映画に選定、同日封切[23]。
- 5月24日 - 東宝、東京世田谷・砧撮影所に多数の焼夷弾が落下したが被害は僅か。
- 5月25日 - 大日本映画製作(大映)の本社4階[注 4]、空襲のため焼失。
- 6月
- 6月1日 - 映画公社発足。それまでのあらゆる統制団体(大日本映画協会、映画配給社など)は解散。
- 7月
- 8月
- 8月6日 - 俳優・丸山定夫、女優・園井恵子ら、広島原爆による戦災死。
- 8月15日
- 日本全国で映画館は僅か850館しか残っていなかった[注 5]。戦災で焼失した映画館は日本全国で513館。終戦後1週間は上映する映画も無かったので休館となった[注 6]。
- 決戦非常措置により閉鎖した高級劇場再開、劇映画の一部、文化映画、時事映画の配給全部停止。
- 松竹、直営館数が前年(1944年)7月には110館であったが、戦災による焼失・破損のため35館に激減。
- 8月30日 - 松竹、戦後封切り第1作『伊豆の娘たち』(五所平之助監督)公開[29][注 7]。
- 9月
- 映画監督・島津保次郎死去。
- 9月10日 - 新聞・映画・通信に対する一切の制限撤廃に関するGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)覚書発表。新たな検閲の権限はCIE(民間情報教育局)に委譲。
- 9月13日 - 大阪・梅田映画劇場再オープン。
- 9月22日 - 日本映画界の代表、城戸四郎・森岩雄・菊池寛などが日本放送協会の6階に呼ばれ、GHQ情報頒布()部(IDS、のちの民間情報教育局CIE)からチャンバラ映画禁止などの映画製作の方針が通達された[30]。邦画代表者の反対意見は受け入れられなかった。
- 9月27日 - 映画製作についての統制撤廃に関するGHQ覚書[34]発表。
- 10月
- 戦後映画第1作『そよかぜ』公開。主題歌「リンゴの唄」(歌唱:並木道子ほか)ヒット。
- 10月3日 - 社団法人日本映画社解散。
- 10月16日 - 映画企業に対する日本政府の統制の撤廃に関するCIE(民間情報教育局)覚書発表。
- 11月
- 映画の自由配給開始。
- 11月16日 - 反民主々義映画・演劇の除去に関するGHQ覚書発表。『宮本武蔵』(松竹、溝口健二監督)[37]など227本が非民主主義的として上映禁止[注 8]。
- 11月27日 - 日本活動写真株式会社が日活株式会社に[20]、大日本映画製作株式会社は大映株式会社に名称変更。
- 11月30日 - 映画公社解散[注 9]。
- 12月
アメリカ興行収入ランキング
さらに見る 順位, 題名 ...
1945年アメリカ興行収入トップ10
順位 | 題名 | スタジオ | 配給収入 |
1. |
母と娘 |
Hallmark |
$16,000,000 |
2. |
聖メリーの鐘 |
RKO |
$8,000,000 |
3. |
哀愁の湖 |
20世紀FOX |
$5,505,000 |
4. |
白い恐怖 |
ユナイテッド・アーティスツ |
$4,971,000 |
5. |
錨を上げて |
MGM |
$4,779,000 |
6. |
愛の決断 |
MGM |
$4,567,000 |
7. |
Week-End at the Waldorf |
MGM |
$4,366,000 |
8. |
Thrill of a Romance |
MGM |
$4,338,000 |
9. |
失われた週末 |
パラマウント |
$4,300,000 |
10. |
サラトガ本線 |
ワーナー・ブラザース |
$4,250,000 |
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- 出典: Box Office Report - Revenue Database - 1945 - ウェイバックマシン(2009年7月13日アーカイブ分)
注釈
合計514館となり、東宝の社史より1館多くなっている。
東宝の資料では「4月24日 (略)譲渡成立調印」となっていて、日活の資料では「5月 大日本映画製作株式会社の映画館を買収」となっている。
ただし、終戦の8月15日時点では、戦災のため36館に減少していた。
『東宝五十年史』では「昭和21年(1946)4月1日 終戦直後の映画館数1,190館」となっている。
『東宝五十年史』では「興行中の劇場は月末まで休場館続出」となっている。
〔引用者註〕『映画賞・映画祭日本・外国受賞作品大全集』では「敗戦一週間後(中略)公開」となっているが、松竹公式サイトの8月30日(木)を採用した。
『映画賞・映画祭日本・外国受賞作品大全集』では「『宮本武蔵』など二二八本が非民主主義的を理由に上映禁止」となっている。
『大映十年史』では、映画公社の解散は10月15日になっている。
『東宝五十年史』では「日本映画製作者連盟」となっている。
出典
“沿革”. 日活公式サイト. 日活. 2020年4月1日閲覧。
柿田清二 (1996年4月). “表現の自由”. 日本映画監督協会. 2019年8月22日閲覧。 “これよりさき、9月22日、GHQ情報頒布部(IDS)は映画製作会社の首脳部を招き、次の内容の「占領の基本目標にもとづく映画製作の具体的な方針」を示した。”
“団体概要 歴史”. 日本映画製作者連盟公式サイト. 日本映画製作者連盟. 2020年1月29日閲覧。 “昭和20年12月1日 「映画製作者連合会」として発足”