17世紀西暦1601年から西暦1700年までの100年間 / ウィキペディア フリーな encyclopedia 親愛なるWikiwand AI, これらの重要な質問に答えるだけで、簡潔にしましょう:トップの事実と統計を挙げていただけますか 17世紀?この記事を 10 歳向けに要約してくださいすべての質問を表示17世紀(じゅうしちせいき、じゅうななせいき)は、西暦1601年から西暦1700年までの100年間を指す世紀。 この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。(2023年3月) 概要 千年紀:, 世紀: ...千年紀: 2千年紀世紀: 16世紀 - 17世紀 - 18世紀十年紀: 1600年代 1610年代 1620年代 1630年代 1640年代 1650年代 1660年代 1670年代 1680年代 1690年代閉じる ルイ14世の世紀。フランス語では「偉大なる世紀(フランス語版)」を意味するGrand Siècleと呼ぶこの時代に、フランスの権勢と威信を示すために王の命で壮麗なヴェルサイユ宮殿が建てられた。画像は宮殿の「鏡の間」。 スペインの没落。国王フェリペ4世の時代に「スペイン黄金時代」は最盛期を過ぎ国勢は傾いた。画像は国王夫妻とマルガリータ王女を取り巻く宮廷の女官たちを描いたディエゴ・ベラスケスの「ラス・メニーナス」。 ルネ・デカルト。「我思う故に我あり」で知られる『方法序説』が述べた合理主義哲学は世界の見方を大きく変えた。画像はデカルトとその庇護者であったスウェーデン女王クリスティナ。 アイザック・ニュートン。主著『プリンキピア』で万有引力と絶対空間・絶対時間を基盤とするニュートン力学を構築した。 レンブラント・ファン・レインの「テュルプ博士の解剖学講義」。この時代はオランダの黄金時代であり数多くの画家を輩出した。またこの絵にみられる実験や観察は医学に大きな発展をもたらした。 チューリップ・バブル。オスマン帝国からもたらされたチューリップはオランダで愛好され、その商取引はいつしか過熱し世界初のバブル経済を生み出した。画像は画家であり園芸家でもあったエマヌエル・スウェールツ『花譜(初版は1612年刊行)』の挿絵。 三十年戦争。「17世紀の危機」の中でも全ヨーロッパを巻き込んだ最後の宗教戦争であるこの戦争は、各国を消耗させとりわけ神聖ローマ帝国の解体を促進した。画像はボヘミアの都市バウツェンを包囲するザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク1世。 ヴェストファーレン会議。以後ヨーロッパの国際関係はヴェストファーレン体制と呼ばれる主権国家を軸とする体制へと移行する。画像はヘラルト・テル・ボルフの絵画(アムステルダム国立美術館蔵)で、三十年戦争の終結のために開かれたミュンスターでの会議の様子。 清教徒革命。国王と議会の対立はイングランドを巻き込んだ内乱となり、その渦中で国王は処刑された。近年ではスコットランド・アイルランドを含めた三王国戦争の名でも知られる。画像はヴァン・ダイクによる「国王チャールズ1世の三面肖像画」。 ロンドン大火。1666年9月1日に起こった火事はロンドン市内の8割を炎上させる惨事となった。画像は炎に包まれた市内を描いた記録画で、左手にロンドン橋、右手にロンドン塔、そして遠方にセント・ポール大聖堂が見える。 バロックの栄光。対抗宗教改革でカトリック教会は宗教的感情に訴える総合芸術「バロック」を作り出した。画像はローマのサンタ・マリア・デッラ・ヴィットリア教会コルナロ礼拝堂に置かれたベルニーニの「聖テレジアの法悦」。 ピーテル・パウル・ルーベンス。フランドル出身の画家で壮大なスケールと肉感のある迫真の描写により王侯たちに愛され「王の画家、画家の王」と呼ばれた。画像は「フランス王妃マリー・ド・メディシスの生涯」の連作から王妃がマルセイユ港に到着した場面(ルーヴル美術館蔵)。 第二次ウィーン包囲。オスマン帝国と神聖ローマ帝国・ポーランド王国が激突する大規模な戦争となった。この敗北に続いてオスマン帝国はハンガリーを喪失し中央ヨーロッパでの優位は揺らぐことになる。画像はウィーン軍事史博物館所蔵の逸名画家による「1683年9月のウィーン市包囲と救援」。 モスクワ総主教ニーコンの改革。この改革で奉神礼や祈祷の多くが変更され、反対した人々は「古儀式派」と呼ばれ弾圧された。画像はワシーリー・スリコフの歴史画「貴族夫人モローゾヴァ(トレチャコフ美術館蔵)」で古儀式派の信仰を守り致命者(殉教者)となる貴族夫人を描いている。 スチェパン・ラージン。ロシアではロマノフ朝の成立とともに農民に対する統制が強化されたが、それに抵抗したドン・コサックの反乱を率いたのがスチェパン・ラージンである。画像はカスピ海を渡るラージンと一行を描いたワシーリー・スリコフの歴史画。 露土戦争の始まり。長らくリトアニア・ポーランドの支配下にあったウクライナでは、オスマン帝国との衝突から隣国ロシアを巻き込んでの大規模な戦争が勃発した。画像はイリヤ・レーピンの歴史画「ザポロージャ・コサックの返信(英語版)」で指導者であるイヴァン・シルコがオスマン皇帝メフメト4世に宛てて世にも無礼な返信を書かせている場面。 ロシア皇帝ピョートル1世の大使節団。西欧の科学技術導入のために派遣したもので皇帝自らが随行員として参加している。画像はムスチスラフ・ドブジンスキーが1910年に描いたオランダのアムステルダムで船大工の仕事に勤しむピョートル1世の歴史画。 スルタンアフメト・モスク。トルコのイスタンブールを代表するモスクで、オスマン帝国の第14代スルタン・アフメト1世の命で7年の歳月をかけて建築家メフメト・アー(英語版)により建設された。優美な6本のミナレットと堅牢な大ドームを含め青い壁面で覆われた「世界で最も美しいモスク」と評される。 オスマン帝国の女人天下(英語版)。 第14代アメフト1世の寵妃キョセム・スルタンは息子が第17代ムラト4世として即位したことで母后(ヴァーリデ・スルタン)になり、孫の第19代メフメト4世まで3代にわたりハレムから国政に関与し絶大な権力を握った。以後もこうした女性が続き「女人天下」とよばれた。画像は母后キョセムを描いた17世紀の細密画。 旅行家エヴリヤ・チェレビ。首都イスタンブール生まれのチェレビはその生涯を通じてオスマン帝国各地を訪ね歩き、17世紀の帝国最盛期の風俗や習慣を『旅行記』で克明に記録している。画像はハンガリーのエゲル城に再現されたチェレビの彫像。 エスファハーンの栄華。サファヴィー朝のシャー・アッバース1世が造営したこの都市は「世界の半分(エスファハーン・ネスフェ・ジャハーン・アスト)」と讃えられた。画像はエスファハーンに建てられたシェイク・ロトフォラー・モスク(英語版)の内部。 イスラム国家間の平和。シ-ア派とスンナ派という立場はあれど、隣接するサファヴィー朝とムガル朝の関係はおおむね良好であった。画像はムガル皇帝ジャハーンーギルに歓待されるサファヴィー朝のシャー・アッバース1世。 ムガル絵画の黄金時代。インド伝統絵画と中央アジア伝来の絵画が混交し、洗練された宮廷の絵画様式を誕生させた。画像はアブ-・ハッサンとマンスールにより1610年頃に描かれた細密画「プラタナスの樹にいるリスたち」。 タージ・マハル。ムガル皇帝シャー・ジャハーンが絶世の美女と称えられた愛妃ムムターズ・マハルを偲んでアーグラに建てた白亜の霊廟。 絶頂から衰退に向かうムガル帝国。皇帝アウラングゼーブの長い治世にこの帝国の領土は最大に拡がった。しかしイスラム教徒優先の政治は不満や衝突を惹起し、早くもこの皇帝の晩年には衰退の兆しが見え始めた。画像は孔雀の玉座に座るアウラングゼーブ帝。 アユタヤ朝の最盛期。タイでは中国・日本のみならずイギリスやオランダの貿易船も来訪し活況を呈した。画像はナーラーイ王のもとで交渉をするフランス人使節団(ロッブリーのプラ・ナーライ・ラーチャニーウエート宮殿遺跡記念碑)。 ラサのポタラ宮。ラサにチベット仏教の教主ダライ・ラマ5世を頂点とするガンデンポタン体制が成立し、アジア各地にチベット仏教の信仰が拡がった。 芸林百世の師。爛熟する明の文雅の世界にあって書画に独自の美意識を導入したのが董其昌である。その美学は後世に大きな影響を与えた。画像は「倣古山水図冊(ネルソン・アトクンス美術館蔵)」。 イエズス会の中国宣教。イエズス会宣教師は異文化に対する順応主義を採用し、中国の古典教養を尊重する漢人士大夫の支持を得た。画像は『幾何原本』に描かれたマテオ・リッチ(利瑪竇)と徐光啓。 清初三大師。明朝から異民族である清朝の支配交代は漢人士大夫に大きな衝撃を与えた。この状況で黄宗羲・顧炎武・王夫之は清朝に仕えることなく経世致用を探り考証学の基礎を築いて三大師と呼ばれた。画像は「東洋のルソー」とも呼ばれた黄宗羲の肖像画。 康熙帝。この皇帝の時代までに清は南明政権を倒し、三藩の乱も制圧して満州人の中国支配を確立した。康熙帝は賢君英主として知られ、近侍したイエズス会士ブーヴェの『康熙帝伝』でもその様子は窺える。画像は1699年に描かれた読書する40代の康熙帝の肖像。 紫禁城太和殿。明清交代の戦火で紫禁城の多くが焼亡したが、太和殿は康熙帝の時代に再建がなされ現在もその姿をとどめている。ここで皇帝の即位・大婚・皇后冊立・遠征出征などの儀礼が行われ、皇帝が群臣の祝賀を受ける朝会も行われていた。 清とジュンガルとの戦い。中央アジアの征服を目指したジュンガル部のガルダン・ハンであったが、清の康熙帝の遠征によりジョーン・モドの戦い(英語版)で敗北した。この後も両者の抗争は長く続くことになる。画像は『北征督運圖冊』に描かれたヘルレン川流域で陣を構える清の部隊。 台湾の鄭成功。北京失陥後も「反清復明」を唱え、オランダ人を駆逐した台湾を根拠地に独立政権を打ち立てた。その母が日本人だったこともあり近松門左衛門の「国姓爺合戦」などを通じて日本人にも広く知られた。 江戸幕府の成立。徳川家康は関ヶ原の戦いで勝利して征夷大将軍となり、以後260年余にわたる幕府の基礎を固めた。画像は狩野探幽による「徳川家康像」(大阪城天守閣蔵)。 日光東照宮。徳川家康は死後に東照大権現の称号を贈られ日光に葬られた。続く三代将軍徳川家光の時代までに豪奢で絢爛な社殿が造営された。画像は「日暮御門」とも通称される東照宮の陽明門。 歌舞伎の誕生。1603年に京都北野社の勧進興業で行われた出雲阿国の「かぶき踊り」が端緒となり、男装の女性による奇抜な演目が一世を風靡した。画像は『歌舞伎図巻』下巻(名古屋徳川美術館蔵)に描かれた女歌舞伎の役者采女。 新興都市江戸。17世紀半ばには江戸は大坂や京都を凌ぐ人口を擁するまでとなった。画像は明暦の大火で焼失するまで威容を誇った江戸城天守閣が描かれた「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館蔵)。 「鎖国」への道。徳川幕府は将軍家光の時代までに、島原の乱の鎮圧に見られた厳格なキリスト教対策もあって、ヨーロッパとの貿易を限定していくことになる。画像は島原の乱で切支丹反乱軍が用いていたとされる軍旗「天草四郎陣中旗」(天草切支丹館蔵)。 海を渡る日本の陶磁器。明清交代で疲弊した中国の陶磁器産業に代わり、オランダ東インド会社を通じて日本から陶磁器が数多く輸出された。画像は1699年に着工されたベルリンのシャルロッテンブルク宮殿の「磁器の間」。 探検家ヘンリー・ハドソン。イングランドの探検家で、ニューヨークを流れるハドソン川や、カナダ北部のハドソン湾にその名がつけられている。最後の航海では船員と仲違いし、置き去りにされ行方不明となった。画像はジョン・コリアによる歴史画「ヘンリー・ハドソンの最後の航海(1881年)」。 セイラム魔女裁判。新大陸アメリカでも共同体内部での摩擦から人間関係の衝突を引き起こすことがあった。画像は19世紀の歴史画で、証人の少女メアリー・ウォルコットが失神している場面。 海賊の黄金時代。西インド諸島での貿易の高まりはカリブ海周辺に多くの海賊を生み出した。画像はハワード・パイルが描いた「カリブ海のバッカニーア」。 スペイン副王支配のリマ。リマはこの当時スペインの南米支配の拠点であり、カトリック教会によるウルトラバロックとも呼ばれる壮麗な教会建築が並んだ。画像は1656年の大地震で大破したのちに再建されたリマのサン・フランシスコ教会・修道院。 ケープ植民地。オランダ人ヤン・ファン・リーベックがこの地に到達して以来、白人系による植民地が形成された。画像は1683年にテーブルマウンテンを背後に広がるケープタウンを描いたもので、港には国旗を掲げるオランダ船が見える。 未知の南方大陸を求めて。地理上の空白地帯である「未知の南方大陸(テラ・アウストラリス・インコグニタ)」を探すべく、多くの探検家が挑戦をした。オランダ人タスマンもその一人で、タスマニア島やニュージーランドを訪れた最初のヨーロッパ人となった。画像は地球儀を指さすタスマンとその妻と娘を描いた肖像画。
17世紀(じゅうしちせいき、じゅうななせいき)は、西暦1601年から西暦1700年までの100年間を指す世紀。 この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。(2023年3月) 概要 千年紀:, 世紀: ...千年紀: 2千年紀世紀: 16世紀 - 17世紀 - 18世紀十年紀: 1600年代 1610年代 1620年代 1630年代 1640年代 1650年代 1660年代 1670年代 1680年代 1690年代閉じる ルイ14世の世紀。フランス語では「偉大なる世紀(フランス語版)」を意味するGrand Siècleと呼ぶこの時代に、フランスの権勢と威信を示すために王の命で壮麗なヴェルサイユ宮殿が建てられた。画像は宮殿の「鏡の間」。 スペインの没落。国王フェリペ4世の時代に「スペイン黄金時代」は最盛期を過ぎ国勢は傾いた。画像は国王夫妻とマルガリータ王女を取り巻く宮廷の女官たちを描いたディエゴ・ベラスケスの「ラス・メニーナス」。 ルネ・デカルト。「我思う故に我あり」で知られる『方法序説』が述べた合理主義哲学は世界の見方を大きく変えた。画像はデカルトとその庇護者であったスウェーデン女王クリスティナ。 アイザック・ニュートン。主著『プリンキピア』で万有引力と絶対空間・絶対時間を基盤とするニュートン力学を構築した。 レンブラント・ファン・レインの「テュルプ博士の解剖学講義」。この時代はオランダの黄金時代であり数多くの画家を輩出した。またこの絵にみられる実験や観察は医学に大きな発展をもたらした。 チューリップ・バブル。オスマン帝国からもたらされたチューリップはオランダで愛好され、その商取引はいつしか過熱し世界初のバブル経済を生み出した。画像は画家であり園芸家でもあったエマヌエル・スウェールツ『花譜(初版は1612年刊行)』の挿絵。 三十年戦争。「17世紀の危機」の中でも全ヨーロッパを巻き込んだ最後の宗教戦争であるこの戦争は、各国を消耗させとりわけ神聖ローマ帝国の解体を促進した。画像はボヘミアの都市バウツェンを包囲するザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク1世。 ヴェストファーレン会議。以後ヨーロッパの国際関係はヴェストファーレン体制と呼ばれる主権国家を軸とする体制へと移行する。画像はヘラルト・テル・ボルフの絵画(アムステルダム国立美術館蔵)で、三十年戦争の終結のために開かれたミュンスターでの会議の様子。 清教徒革命。国王と議会の対立はイングランドを巻き込んだ内乱となり、その渦中で国王は処刑された。近年ではスコットランド・アイルランドを含めた三王国戦争の名でも知られる。画像はヴァン・ダイクによる「国王チャールズ1世の三面肖像画」。 ロンドン大火。1666年9月1日に起こった火事はロンドン市内の8割を炎上させる惨事となった。画像は炎に包まれた市内を描いた記録画で、左手にロンドン橋、右手にロンドン塔、そして遠方にセント・ポール大聖堂が見える。 バロックの栄光。対抗宗教改革でカトリック教会は宗教的感情に訴える総合芸術「バロック」を作り出した。画像はローマのサンタ・マリア・デッラ・ヴィットリア教会コルナロ礼拝堂に置かれたベルニーニの「聖テレジアの法悦」。 ピーテル・パウル・ルーベンス。フランドル出身の画家で壮大なスケールと肉感のある迫真の描写により王侯たちに愛され「王の画家、画家の王」と呼ばれた。画像は「フランス王妃マリー・ド・メディシスの生涯」の連作から王妃がマルセイユ港に到着した場面(ルーヴル美術館蔵)。 第二次ウィーン包囲。オスマン帝国と神聖ローマ帝国・ポーランド王国が激突する大規模な戦争となった。この敗北に続いてオスマン帝国はハンガリーを喪失し中央ヨーロッパでの優位は揺らぐことになる。画像はウィーン軍事史博物館所蔵の逸名画家による「1683年9月のウィーン市包囲と救援」。 モスクワ総主教ニーコンの改革。この改革で奉神礼や祈祷の多くが変更され、反対した人々は「古儀式派」と呼ばれ弾圧された。画像はワシーリー・スリコフの歴史画「貴族夫人モローゾヴァ(トレチャコフ美術館蔵)」で古儀式派の信仰を守り致命者(殉教者)となる貴族夫人を描いている。 スチェパン・ラージン。ロシアではロマノフ朝の成立とともに農民に対する統制が強化されたが、それに抵抗したドン・コサックの反乱を率いたのがスチェパン・ラージンである。画像はカスピ海を渡るラージンと一行を描いたワシーリー・スリコフの歴史画。 露土戦争の始まり。長らくリトアニア・ポーランドの支配下にあったウクライナでは、オスマン帝国との衝突から隣国ロシアを巻き込んでの大規模な戦争が勃発した。画像はイリヤ・レーピンの歴史画「ザポロージャ・コサックの返信(英語版)」で指導者であるイヴァン・シルコがオスマン皇帝メフメト4世に宛てて世にも無礼な返信を書かせている場面。 ロシア皇帝ピョートル1世の大使節団。西欧の科学技術導入のために派遣したもので皇帝自らが随行員として参加している。画像はムスチスラフ・ドブジンスキーが1910年に描いたオランダのアムステルダムで船大工の仕事に勤しむピョートル1世の歴史画。 スルタンアフメト・モスク。トルコのイスタンブールを代表するモスクで、オスマン帝国の第14代スルタン・アフメト1世の命で7年の歳月をかけて建築家メフメト・アー(英語版)により建設された。優美な6本のミナレットと堅牢な大ドームを含め青い壁面で覆われた「世界で最も美しいモスク」と評される。 オスマン帝国の女人天下(英語版)。 第14代アメフト1世の寵妃キョセム・スルタンは息子が第17代ムラト4世として即位したことで母后(ヴァーリデ・スルタン)になり、孫の第19代メフメト4世まで3代にわたりハレムから国政に関与し絶大な権力を握った。以後もこうした女性が続き「女人天下」とよばれた。画像は母后キョセムを描いた17世紀の細密画。 旅行家エヴリヤ・チェレビ。首都イスタンブール生まれのチェレビはその生涯を通じてオスマン帝国各地を訪ね歩き、17世紀の帝国最盛期の風俗や習慣を『旅行記』で克明に記録している。画像はハンガリーのエゲル城に再現されたチェレビの彫像。 エスファハーンの栄華。サファヴィー朝のシャー・アッバース1世が造営したこの都市は「世界の半分(エスファハーン・ネスフェ・ジャハーン・アスト)」と讃えられた。画像はエスファハーンに建てられたシェイク・ロトフォラー・モスク(英語版)の内部。 イスラム国家間の平和。シ-ア派とスンナ派という立場はあれど、隣接するサファヴィー朝とムガル朝の関係はおおむね良好であった。画像はムガル皇帝ジャハーンーギルに歓待されるサファヴィー朝のシャー・アッバース1世。 ムガル絵画の黄金時代。インド伝統絵画と中央アジア伝来の絵画が混交し、洗練された宮廷の絵画様式を誕生させた。画像はアブ-・ハッサンとマンスールにより1610年頃に描かれた細密画「プラタナスの樹にいるリスたち」。 タージ・マハル。ムガル皇帝シャー・ジャハーンが絶世の美女と称えられた愛妃ムムターズ・マハルを偲んでアーグラに建てた白亜の霊廟。 絶頂から衰退に向かうムガル帝国。皇帝アウラングゼーブの長い治世にこの帝国の領土は最大に拡がった。しかしイスラム教徒優先の政治は不満や衝突を惹起し、早くもこの皇帝の晩年には衰退の兆しが見え始めた。画像は孔雀の玉座に座るアウラングゼーブ帝。 アユタヤ朝の最盛期。タイでは中国・日本のみならずイギリスやオランダの貿易船も来訪し活況を呈した。画像はナーラーイ王のもとで交渉をするフランス人使節団(ロッブリーのプラ・ナーライ・ラーチャニーウエート宮殿遺跡記念碑)。 ラサのポタラ宮。ラサにチベット仏教の教主ダライ・ラマ5世を頂点とするガンデンポタン体制が成立し、アジア各地にチベット仏教の信仰が拡がった。 芸林百世の師。爛熟する明の文雅の世界にあって書画に独自の美意識を導入したのが董其昌である。その美学は後世に大きな影響を与えた。画像は「倣古山水図冊(ネルソン・アトクンス美術館蔵)」。 イエズス会の中国宣教。イエズス会宣教師は異文化に対する順応主義を採用し、中国の古典教養を尊重する漢人士大夫の支持を得た。画像は『幾何原本』に描かれたマテオ・リッチ(利瑪竇)と徐光啓。 清初三大師。明朝から異民族である清朝の支配交代は漢人士大夫に大きな衝撃を与えた。この状況で黄宗羲・顧炎武・王夫之は清朝に仕えることなく経世致用を探り考証学の基礎を築いて三大師と呼ばれた。画像は「東洋のルソー」とも呼ばれた黄宗羲の肖像画。 康熙帝。この皇帝の時代までに清は南明政権を倒し、三藩の乱も制圧して満州人の中国支配を確立した。康熙帝は賢君英主として知られ、近侍したイエズス会士ブーヴェの『康熙帝伝』でもその様子は窺える。画像は1699年に描かれた読書する40代の康熙帝の肖像。 紫禁城太和殿。明清交代の戦火で紫禁城の多くが焼亡したが、太和殿は康熙帝の時代に再建がなされ現在もその姿をとどめている。ここで皇帝の即位・大婚・皇后冊立・遠征出征などの儀礼が行われ、皇帝が群臣の祝賀を受ける朝会も行われていた。 清とジュンガルとの戦い。中央アジアの征服を目指したジュンガル部のガルダン・ハンであったが、清の康熙帝の遠征によりジョーン・モドの戦い(英語版)で敗北した。この後も両者の抗争は長く続くことになる。画像は『北征督運圖冊』に描かれたヘルレン川流域で陣を構える清の部隊。 台湾の鄭成功。北京失陥後も「反清復明」を唱え、オランダ人を駆逐した台湾を根拠地に独立政権を打ち立てた。その母が日本人だったこともあり近松門左衛門の「国姓爺合戦」などを通じて日本人にも広く知られた。 江戸幕府の成立。徳川家康は関ヶ原の戦いで勝利して征夷大将軍となり、以後260年余にわたる幕府の基礎を固めた。画像は狩野探幽による「徳川家康像」(大阪城天守閣蔵)。 日光東照宮。徳川家康は死後に東照大権現の称号を贈られ日光に葬られた。続く三代将軍徳川家光の時代までに豪奢で絢爛な社殿が造営された。画像は「日暮御門」とも通称される東照宮の陽明門。 歌舞伎の誕生。1603年に京都北野社の勧進興業で行われた出雲阿国の「かぶき踊り」が端緒となり、男装の女性による奇抜な演目が一世を風靡した。画像は『歌舞伎図巻』下巻(名古屋徳川美術館蔵)に描かれた女歌舞伎の役者采女。 新興都市江戸。17世紀半ばには江戸は大坂や京都を凌ぐ人口を擁するまでとなった。画像は明暦の大火で焼失するまで威容を誇った江戸城天守閣が描かれた「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館蔵)。 「鎖国」への道。徳川幕府は将軍家光の時代までに、島原の乱の鎮圧に見られた厳格なキリスト教対策もあって、ヨーロッパとの貿易を限定していくことになる。画像は島原の乱で切支丹反乱軍が用いていたとされる軍旗「天草四郎陣中旗」(天草切支丹館蔵)。 海を渡る日本の陶磁器。明清交代で疲弊した中国の陶磁器産業に代わり、オランダ東インド会社を通じて日本から陶磁器が数多く輸出された。画像は1699年に着工されたベルリンのシャルロッテンブルク宮殿の「磁器の間」。 探検家ヘンリー・ハドソン。イングランドの探検家で、ニューヨークを流れるハドソン川や、カナダ北部のハドソン湾にその名がつけられている。最後の航海では船員と仲違いし、置き去りにされ行方不明となった。画像はジョン・コリアによる歴史画「ヘンリー・ハドソンの最後の航海(1881年)」。 セイラム魔女裁判。新大陸アメリカでも共同体内部での摩擦から人間関係の衝突を引き起こすことがあった。画像は19世紀の歴史画で、証人の少女メアリー・ウォルコットが失神している場面。 海賊の黄金時代。西インド諸島での貿易の高まりはカリブ海周辺に多くの海賊を生み出した。画像はハワード・パイルが描いた「カリブ海のバッカニーア」。 スペイン副王支配のリマ。リマはこの当時スペインの南米支配の拠点であり、カトリック教会によるウルトラバロックとも呼ばれる壮麗な教会建築が並んだ。画像は1656年の大地震で大破したのちに再建されたリマのサン・フランシスコ教会・修道院。 ケープ植民地。オランダ人ヤン・ファン・リーベックがこの地に到達して以来、白人系による植民地が形成された。画像は1683年にテーブルマウンテンを背後に広がるケープタウンを描いたもので、港には国旗を掲げるオランダ船が見える。 未知の南方大陸を求めて。地理上の空白地帯である「未知の南方大陸(テラ・アウストラリス・インコグニタ)」を探すべく、多くの探検家が挑戦をした。オランダ人タスマンもその一人で、タスマニア島やニュージーランドを訪れた最初のヨーロッパ人となった。画像は地球儀を指さすタスマンとその妻と娘を描いた肖像画。