ヴェルサイユ宮殿
フランスの宮殿 ウィキペディアから
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ヴェルサイユ宮殿(ヴェルサイユきゅうでん、フランス語:Palais de Versailles)は、1682年、フランス王ルイ14世(1638年 - 1715年、在位1643年 - 1715年)が建てたフランスの宮殿(建設当初は離宮)である。ヴェルサイユ城(ヴェルサイユじょう、フランス語:Château de Versailles)ともいい、フランス語ではこちらの表記がよく使用されている。
パリの南西22キロメートルに位置するイヴリーヌ県ヴェルサイユにある。主な部分の設計はマンサールとル・ブランによっておこなわれ、庭園はアンドレ・ル・ノートルによって造営された。バロック建築の代表作で、豪華な建物と広大な美しい庭園で有名である。2024年パリオリンピックでは馬術と近代五種の会場として使用された。
ヴェルサイユ宮殿は、ルイ14世が建造した宮殿である。宮殿内には地方の有力貴族の居住空間も用意され、権力の一極集中を実現していた。そのため、フランス絶対王政の象徴的建造物ともいわれる。宮殿はルイ14世をはじめとした王族と、貴族たちが国政を議論する場であり、時には社交場でもあった。その結果様々なルール・エチケット・マナーが生まれた。それの中に今につながるものもあるという。
宮殿のファサードは400メートルもあり、左右対称の構成としている。正面玄関は東面のU字型に凹んだ位置にあり、大通りがパリの方向にのびている。西側は庭園に面している。
儀式や外国の賓客を謁見するために使われた鏡の間は、1871年にドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の即位式が行われ、また第一次世界大戦後の対ドイツとの講和条約であるヴェルサイユ条約が調印された場所でもある。鏡の間にはたくさんの銀製品が飾られていたというが、ルイ14世は晩年になって、スペインの王位継承争いが続いて戦費の捻出に困り、破産を免れるためにこれらを売って戦費に充てたという。
宮殿の建設よりも労力を費やされている噴水庭園には、宮殿建設の25,000人に対し、36,000人が投入されている。そして、その噴水にはルイ14世の三つの意図が込められている。
噴水庭園は、遠近法を用いて修景され、宮殿からラトナの泉、タピスヴェール(Tapis Vert、緑の絨毯)に沿って、アポロの戦車の盆地へと続いている。水面から昇る戦車は、太陽の昇りを象徴した。シャルル・ルブランが設計し、1668年から1670年の間に彫刻家ジャン=バティスト・テュビが王立ゴブラン製作所で製作したもので、鉛で鋳造された後に金メッキが施されている[1]。噴水の向こうには、大運河(Grand Canal, グランド・カナール)が公園の南端まで1800メートル伸びている[2]。
アンドレ・ル・ノートルの設計に基づいて、ルイ14世の依頼でジュール・アルデゥアン=マンサールが建築したその温室は、絶対君主の威光を示すために金に糸目をつけない壮大なスケールで構想された。[3]
言い伝えによれば、ヴェルサイユ宮殿の木々の中の1本は、宮殿が建設される200年近く前にナヴァール王妃からアンヌ・ド・ブルターニュに送られた接ぎ穂から育てられたものだという。この木はグラン・ブルボンと呼ばれ、1894年に枯れるまで花を咲かせ、果実を実らせた。現在も冬になるとこのオレンジ栽培温室に千本以上の木々が収容される。木々は四隅にちょうつがいのついた伝統的なヴェルサイユ式のプランターに植えられる。5月から10月の間はプランターが温室前の花壇に並べられる。[3]
この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。
パリ市内のイル=ド=フランス地域圏急行鉄道網(RER) C線 列車にミュゼ・ドルセー駅で乗って、ヴェルサイユ=シャトー駅で降り、ソー通り(l'avenue de Sceaux)を歩いて宮殿・庭園入口まで約500メートルである。
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