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江戸時代後期の公卿、廷臣。醍醐家7代・9代。従一位、内大臣 ウィキペディアから
形式上、本家である一条家の猶子となっていたが、寛政5年(1793年)に叙爵、実家の家督を相続する。以降父同様に清華家当主として速いスピードで昇進し、侍従・左近衛権少将・左近衛権中将を経て、寛政12年(1800年)に従三位に達して公卿に列する。その後、踏歌節会外弁・権中納言を経て、文化12年(1815年)に権大納言となる。
1819年、長男の忠善が生まれ家督も譲るが、翌年に死亡。再度当主となるが、1830年に次男の忠順が誕生し、翌年これに家督を譲った。
幼少の当主忠順を補佐する一方で、輝弘自身もその後長らく昇格しなかったが、天保11年(1840年)には踏歌節会内弁に就任し、弘化4年(1846年)に内大臣・右近衛大将・右馬寮御監に任命された。嘉永元年(1848年)すべての官職を辞した。嘉永2年(1849年)に従一位を授与された。1859年に亡くなった。
醍醐家は、一条昭良の子である醍醐冬基を始祖とし、清華家の一つであった。
後陽成天皇の男系六世子孫である。後陽成天皇の第九皇子で一条家を継いだ一条昭良の男系後裔。
詳細は皇別摂家#系図も参照のこと。
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