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藤原 伊衡(ふじわら の これひら)は、平安時代前期から中期にかけての公卿・歌人。藤原南家巨勢麻呂流、左近衛中将・藤原敏行の三男。官位は正四位下・参議。
宇多朝において春宮帯刀舎人を務め、春宮大進次いで春宮亮を務めた父・敏行と共に皇太子・敦仁親王に仕える。寛平9年(897年)7月に敦仁親王が践祚(醍醐天皇)すると、帯刀舎人としての功労により右兵衛少尉に任ぜられるが、9月に敏行が右兵衛督となったため、伊衡は左衛門権少尉に遷る。のち、六位蔵人も歴任した。
延喜9年(909年)従五位下に叙爵し、延喜10年(910年)宮内少輔に補せられる。延喜11年(911年)左兵衛権佐を経て、延喜16年(916年)右近衛権少将に任ぜられると、五位蔵人を兼ねながら延喜17年(917年)従五位上、延喜22年(922年)正五位下と昇進し、延長3年(924年)従四位下・右近衛権中将に叙任される。その後も、左右近衛中将を務める傍ら、皇太子・寛明親王にも春宮亮として仕え、延長8年(930年)寛明親王が即位(朱雀天皇)すると正四位下に叙せられている。
承平4年12月(935年1月)参議に任ぜられて公卿に列す。のち議政官として、承平6年(936年)刑部卿、承平7年(937年)左兵衛督を兼帯した。
勅撰歌人として『後撰和歌集』以下の勅撰和歌集に11首が入首している[1]。
酒豪としての話が残る。延喜11年(911年)6月15日に宇多上皇の主催で行われた酒合戦に酒豪として招聘され参加した際、他の参加者が泥酔・嘔吐する中、伊衡がただ一人乱れることなく10杯を呑んだところで止められ優勝。賞として駿馬を与えられたという(紀長谷雄「亭子院賜飲記」〔藤原明衡撰『本朝文粋』所収〕)。
注記のないものは『公卿補任』による。
『尊卑分脈』による。
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