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日本の歌人 ウィキペディアから
藤原 敏行(ふじわら の としゆき)は、平安時代前期の貴族・歌人・書家。藤原南家巨勢麻呂流、陸奥出羽按察使・藤原富士麻呂の長男[1]。官位は従四位上・右兵衛督。三十六歌仙の一人。
貞観8年(866年)少内記。大内記・蔵人を経て、貞観15年(873年)従五位下に叙爵し、中務少輔に任ぜられる。のち、清和朝では大宰少弐・図書頭、陽成朝では因幡守・右兵衛権佐を歴任し、元慶6年(882年)従五位上に叙せられた。仁和2年(886年)右近衛少将。
宇多朝に入ると、仁和4年(888年)五位蔵人に任ぜられるが1年ほどで病気により辞任している。寛平6年(894年)右近衛権中将、寛平7年(895年)蔵人頭と要職を歴任し、寛平8年(896年) 正月に従四位下に叙せられるが、同年4月病気により蔵人頭も半年ほどで辞任した。またこの間、春宮大進/亮として春宮・敦仁親王にも仕えている。
寛平9年(897年)7月に敦仁親王の即位(醍醐天皇)に伴って、春宮亮を務めた功労として従四位上に叙せられ、同年9月に右兵衛督に任ぜられた。
小野道風が古今最高の能書家として空海と共に名を挙げ、明治の三筆の一人である中林梧竹も常日頃から空海と敏行の書跡を携帯していたという[2]。
現存する書跡は、署名のある次のものだけである。
敏行は多くの人から法華経の書写を依頼され、200部以上を書いたが、魚を食すなど、不浄の身のまま書写したので、地獄に落ちて苦しみを受けたという(『宇治拾遺物語』)。
他にも亡くなった直後に生き返り自らのお経を書いて、ふたたび絶命したという伝説もある。
勅撰歌人として、『古今和歌集』(18首)以下の勅撰和歌集に28首が入集[4]。家集に『敏行集』がある。
注記のないものは『日本三代実録』による。
『尊卑分脈』による。
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