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藤井 茂太(ふじい しげた、万延元年 9月21日(1860年11月3日) - 昭和20年(1945年)1月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
福本藩(交代寄合 池田松平家、6千石)公用人・藤井義柄の次男として生まれる。外国語学校、陸軍幼年学校を経て、明治13年(1880年)12月、陸軍士官学校(旧3期)を卒業して砲兵将校となった。野砲第2大隊付などを経て、明治18年(1885年)12月、陸軍大学校(1期)を卒業。
参謀本部第2局員、清国出張、陸大教官、ドイツ留学、兵站総監部付などを歴任し、第2軍参謀(後方主任)として日清戦争に出征。陸大教官、オーストリア公使館付、陸大教官兼教頭、陸大幹事を経て、明治35年(1902年)6月に陸軍少将に進級すると同時に陸大校長に補された[1]。
明治37年(1904年)2月に日露戦争が勃発すると、同月に第1軍参謀長に補されて出征[1]。第1軍司令官の黒木為楨大将を補佐した。司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』において、藤井は優れた軍参謀長として描写されているが、実際の藤井は優柔不断であり、軍参謀長の職務である「軍参謀を統括し、作戦をまとめ上げる」能力に乏しかったと指摘されている[2]。
日露戦争が明治38年(1905年)9月に終結すると内地に凱旋し、明治39年(1906年)2月に陸軍砲工学校長、明治42年(1909年)1月に東京湾要塞司令官を歴任[1]。
明治42年(1909年)8月に陸軍中将に進級し、同年11月に野戦砲兵監に転じ、大正2年(1913年)8月に第12師団長に親補された[1]。
折から帝国海軍高官による大規模な汚職が発覚し(シーメンス事件)[3]、藤井の弟である藤井光五郎・海軍機関少将が大正3年(1914年)9月に軍法会議で懲役4年6か月の有罪判決を受け[4]、失官・位記剥奪となった[4]。
第12師団は、格付けの高い「一等師団」であり、藤井は第12師団長の後にポストをもう1つ務め、陸軍大将に親任されることが確実視されていた[3]。しかし弟の犯した汚職への道義的責任を痛感した藤井は[3]、弟が有罪判決を受けるのを待たずに大正3年(1914年)5月に自ら第12師団長を辞して待命となり(依願待命)[1]、8月に予備役に編入されて現役を去った[1]。
日露戦争では第1軍に外国の観戦武官が多数配置され、参謀長の藤井が広報や苦情処理に苦心した結果、好評を博した。一方、藤井は苦境にあっても観戦武官を意識して平静を装わねばならず「外国人の常に身辺に在ることは、誠に迷惑千万であった」と後に感想を述べている[5]。
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