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『胡蝶の夢』(こちょうのゆめ)は、司馬遼太郎の歴史小説。『朝日新聞』朝刊に1976年11月11日から1979年1月24日まで連載された。
徳川幕府の倒壊と15代将軍慶喜の苦悩、また戊辰戦争での軍医としての松本良順、順天堂出身の関寛斎の姿があざやかに描き出される。その一方で、記憶力と語学習得力は抜群ながら、人間関係の構築のまずさで不利を被っている島倉伊之助(後の司馬凌海)の姿が、この両者とは違った形で描かれている。幕末から明治維新の時期を政治でなく、医療の目から、またその医療を通しての身分制度批判という観点から見た作品である。
佐倉順天堂の創設者の実子良順は、奥医師松本良甫の娘登喜と結婚して婿養子となる。奥医師の見習いをしつつ、オランダ語を学んでいた良順のもとへ、佐渡から来た島倉伊之助が弟子入りするが、才能がありながらも厄介ごとを引き起こしがちな伊之助は、一旦佐渡に戻る。伊之助は子供のころから祖父伊右衛門により教育され、特に語学を学ぶことにおいてずば抜けた才能を見せたが、反面良好な人間関係を築くことがなかなかできず、これが後々まで災いする[1]。
その後、良順は奥医師となり江戸城に上がるも、勤めのあり方に疑問を感じ、さらにオランダ語をもっと学びたいと思ったことから、長崎海軍伝習所に軍医として入る。そこでオランダ人医師ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールト(ポンぺ)を講師とする医学伝習所を作り、佐渡の伊之助を呼び寄せて、本格的な蘭方医の養成を始める。これは日本初の、組織立ったオランダ医学の学校だった。良順がこの伝習所にいたころコレラが大流行し、自らも感染した折、その治療でポンペが見せた、身分に関わらない治療に良順はいたく心を揺さぶられた。後に伝習所に設けられた附属病院でもこの姿勢が持ち込まれ、江戸時代の身分制度に大きな影響を与える。また、ポンペが持ち込んだカメラで新しい世界を知る。師であるポンペは人体解剖も行い、丸山遊郭の遊女の梅毒の検査も行った。一方、伊之助は長崎でも抜群の語学力を見せ、学生たちの通訳をも務めるが、やはり奇行が目立ち、ついに伝習所を追い出される。長崎を出る間際、伊之助は『七新薬』という医書を残し、平戸で岡口等伝の娘佳代と結ばれるが、祖父伊右衛門がこの縁組に反対し、佐渡に戻って開業することになる。しかし開業しても他人との呼吸の合わなさは相変わらずで、はやることはなかった[1]。
良順は、ポンペの帰国と共に江戸に戻り、西洋医学所の頭取となる。奥医師を務め、同じ蘭方医ながら権勢欲の強い玄朴とは反発しあうが、その後玄朴の失脚と共に運が向き始める。その後京都で奔走していた一橋慶喜、長州征伐で大阪城にいた徳川家茂を次々と診察するが、家茂は大阪城で帰らぬ人となる。さらに、京都に詰めていた新選組への助言と健康診断を行い、この壮士集団に急速に親しみを覚えるようになり、後の戊辰戦争でも彼らに協力するようになる[1]。
もう1人の主人公、関寛斎は順天堂で学び、その後長崎に行って、伊之助の人間関係構築に助言を与えたりする。この寛斎は不思議と伊之助を嫌わなかった。さらに一旦銚子に戻った後、阿波蜂須賀家に侍医として召し抱えられる。戊辰戦争では負傷兵を助け、明治維新後は町医となり、貧しい人々には無料診療を施した[1]。
時が移って明治維新となり、良順は賊軍に与したかどで逮捕され、のち赦免され、明治政府に出仕して華族に叙されるなど栄達を得る。一方伊之助は、祖父伊右衛門の死によって佐渡を出、語学力にものを言わせて新政府や公立学校で働くようになる。しかしのちに肺結核にかかり、療養先の熱海から東京まで駕籠で向かうという無謀な行動に出る。その最中、菜の花畑を目にした伊之助は、佐渡で読んだ荘子の『胡蝶の夢』を思い出し、「俺は、蝶だぞ」と叫び、その後戸塚の宿で誰にも看取られずに世を去る。また寛斎は、徳島で無料診療を行っていたが、妻お愛と北海道に移住し、地域の人々のために余生をささげて、無料診療を行った[1]。83歳で自作農をめぐる息子との確執から服毒自殺し[注釈 1][2]、その前に亡くなっていたお愛と共に埋葬された[1]。
この小説の舞台となっている時代は、安政から明治にかけてのいわゆる幕末であり、その時点で初めて西洋医学の組織立った学校が登場したこと、オランダ人医師ポンペにより、四民平等の思想が、医療を通じて徐々に浸透してゆく。タイトルの「胡蝶の夢」は荘子の言葉から来ており、作品の終わりの方で、伊之助が結核にかかって、熱に浮かされながら駕籠に揺られている途中に、かつて読んだ荘子を思い出し、夢と現との見境がつかない状態で「俺は蝶だぞ」と叫ぶ場面でそれが描かれている。「胡蝶の夢」は、荘子が夢に蝶の飛ぶ姿を見て、人間だと思っていた自分は実は蝶で、蝶が夢を見て人間になっているのか、またはやはり人間で夢に蝶を見ているのかという説話であるが、司馬はこれに関し、松本良順が蘭方医学を引き写しで学んだだけで、生身の本人とは違った姿で、封建社会の終わりに蝶のごとく舞ったことをもまた、荘子の胡蝶の夢になぞらえている[3]。
その後、1988年の順天堂大学における講演で司馬は、江戸時代の日本は医者の身分が高く、それが優秀な医学の人材を育てたとも言う。また、資本主義の段階において合理主義が日本社会に根付き、それが近代化を助けたとも述べている一方で、江戸時代を象徴する身分制を否定した西洋医学についても触れている[4]。以下のポンペの言葉は、長崎大学医学部校是ともなっている。
医師は自らの天職をよく承知していなければならぬ。ひとたびこの職務を選んだ以上、もはや医師は自分自身のものではなく、病める人のものである。もしそれを好まぬなら、他の職業を選ぶがよい[5]。
江戸時代という封建社会の中で、医師にとっては階級差別、貧富・上下の差別はなく、ただ病人があるだけであると、身をもって実践し、また教えていた[5]。また、「医者はよるべなき病者の友である」ともポンペは言い、司馬自身も講演で、この言葉に言及し、病者の友たる医者の存在を求めている[4]。
この作品の中で、司馬は江戸期の身分制度に言及し、ポンペの持ち込んだ西洋医学はまた、当時のオランダの社会そのものを具現しているともしている。当時の日本の場合は、身分ごとに医師が分かれており、そのため、ポンペがコレラの大流行時以前から見せていた、身分の区別のない「医者と病者」という区分は、良順にとっては目からうろこが落ちるような思いであった[注釈 2]。附属病院を作る際にもこの思想が基盤になっている[4]。
これに関して、司馬は「胡蝶の夢の連載を終えて」で、身分制社会からの浮上方法としての蘭学、また医学に感じた限界について語っており、適塾と順天堂の違いについても触れている。この小説のテーマともなっている身分制社会からの浮上、また、江戸の身分制を切り裂く存在としての西洋医学(蘭学)に関しては小説中にも述べているが、いずれにせよこの存在が、江戸期の日本というものを大きく変えてゆき、また、断片的な知識の授与であった日本の西洋医学が、ポンペの授業によって組織的になったことも意義深いとしている[7]。
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