第三次印パ戦争
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第三次印パ戦争(だいさんじいんぱせんそう、ヒンディー語: १९७१ का भारत-पाक युद्ध、ウルドゥー語: پاک بھارت جنگ 1971ء、ベンガル語: ভারত–পাকিস্তান যুদ্ধ ১৯৭১)は、1971年12月3日から同年12月17日にかけて勃発したインドとパキスタンの国家間の戦争である。同年3月にパキスタン内部で東パキスタンの独立戦争が勃発し、同地域から多くの難民がインドへ避難していった事で印巴両国の対立が激化し緊張が高まった。また同年8月にインドがソビエト連邦(ソ連)と軍事同盟である印ソ平和友好協力条約を締結した事も対立の激化につながり、インドは対パキスタン強硬政策を採った。そして同年11月21日にはインド軍が東パキスタン西部の街ジョソール付近に展開。11月23日にパキスタンは全土に非常事態宣言を発出し、12月3日にはインドも非常事態宣言を出して国家総動員体制に移行。両国は全面戦争に突入した。東パキスタンでは開戦1日目でインド空軍が制空権を奪取し、地上ではインド軍25万人が国境を越えて東パキスタンに侵攻。同地域の主都ダッカに迫った。そして12月16日、同地域に駐留していたパキスタン軍は無条件降伏し、西部のカシミール地域でも12月17日午後8時にインド側が一方的に停戦を宣言し、パキスタン側がそれに応じた事で、この戦争は終結した。なお戦時中にインドはパキスタンからの独立を宣言したバングラデシュを承認し、インド側の勝利によって同国は独立を果たした。そして戦後にはインドは南アジアで軍事的に不動の地位を確保するに至った。その後、1972年7月にはインドのシムラーでインドの首相インディラ・ガンディーとパキスタンの首相ズルフィカール・アリー・ブットーがシムラー協定を締結し、戦後処理を行った[3]。
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第三次印パ戦争 | |
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左上から時計回りにバングラデシュの戦没者を祀る顕彰碑、インド側が使用したQF 3.7インチ山岳榴弾砲、インド軍に降伏するパキスタン軍の司令官、パキスタン海軍の潜水艦ガーズィー。 | |
戦争:印パ戦争[1]/バングラデシュ独立戦争[2] | |
年月日:1971年12月3日 - 同年12月17日[3] | |
場所:東パキスタン(現在のバングラデシュ)、カシミール地方[3]。 | |
結果:インド側の勝利、パキスタン側の無条件降伏。バングラデシュは独立を達成[3]。 | |
交戦勢力 | |
インド バングラデシュ臨時政府 援助国 ソビエト連邦 イスラエル |
パキスタン 援助国 アメリカ 中国 イラン |
指導者・指揮官 | |
インディラ・ガンディー スワラン・シン(英語版) サム・マネクショー(英語版) ジャグジット・シン・オーロラ(英語版) ゴパル・グルナス・ビウール(英語版) サガット・シン(英語版) ジャック・ファルジ・ラファエル・ジェイコブ(英語版) サルダリラル・マスラダス・ナンダ(英語版) ソウレンドラ・ナス・コーリ(英語版) ニーラカンタ・クリシュナン(英語版) プラタープ・チャンドラ・ラル(英語版) ハリ・チャンド・デュワン(英語版) ムジブル・ラフマン ムハンマド・アタウル・ガニ・オスマニ(英語版) |
ヤヒヤ・カーン(英語版) アミール・アブドラ・カーン・ニアジ(英語版) アブドゥル・アリー・マリク(英語版) ティッカ・カーン(英語版) イフティカル・カーン・ジャンジュア(英語版) ムザファル・ハッサン(英語版) ラシッド・アハメド(英語版) モハンマド・シャリフ(英語版) ムジーブ・アハマド・カーン・ロディ(英語版) レスリー・ムンゲヴィン(英語版) アブドゥル・ラヒム・カーン(英語版) イナムル・ハク・カーン(英語版) ズルフィカール・アリー・カーン(英語版) アブドゥル・モタレブ・マリク(英語版) |
戦力 | |
印250,000人 孟200,000人[4] |
巴34,000人~92,000人[4] |
損害 | |
東部戦線1,047人戦死 4,183人負傷 西部戦線1,426人戦死 7,186人負傷 西部戦線616人捕虜 装甲車73輌破壊 作戦機45機撃墜 フリゲート艦1隻撃沈[5] |
東部戦線1,293人戦死 4,225人負傷 西部戦線1,405人戦死 4,958人負傷 東部戦線9,300人以上捕虜 西部戦線540人捕虜 作戦機50機撃墜 フリゲート1隻撃沈 潜水艦1隻撃沈 掃海艇1隻撃沈 武装商船3隻撃沈[5] |