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日本のロボット研究者 ウィキペディアから
福田 敏男(ふくだ としお、1948年〈昭和23年〉12月12日[2][3] - )は、日本のロボット研究者[35]。セル構造化ロボットシステム「CEBOT」[36]やブラキエーションロボット[37]の提案者。IEEEではアジア人初の会長を務め[38][5][39]、国際会議IROS[注 1]やRO-MANを創設[40]。名古屋大学で育てた博士は100人を超える[24][6]。日本知能情報ファジィ学会では会長も務め[41]、国際ロボットマイクロロボットメイズコンテストも創設した[42][43]。学位は、工学博士(東京大学)[7]。名古屋大学名誉教授[44]。紫綬褒章、瑞宝中綬章の受章者[44][34]。
人物情報 | |
---|---|
別名 | CEBOTマン[1] |
生誕 |
1948年12月12日(75歳)[2][3] 富山県[4][5] |
居住 | 日本愛知県名古屋市昭和区[6] |
出身校 |
富山県立富山中部高等学校 早稲田大学 東京大学大学院工学系研究科 |
学問 | |
研究分野 | ロボット工学 |
研究機関 |
東京大学生産技術研究所 イエール大学 工業技術院機械技術研究所 シュトゥットガルト大学 東京理科大学 名古屋大学 サンターナ大学院大学 名城大学 北京理工大学 早稲田大学 |
博士課程指導教員 | 柴田碧[7][8] |
指導教員 | 原文雄[9][10] |
博士課程指導学生 |
課程博士 - 柴田崇徳[11] 植山剛[12] 川内陽志生[13] 下島康嗣[14] 石原秀則[15] 関山浩介[16] 久保田直行[17] 伊藤茂則[18] 高川功[19] 池田誠一[20] 松野隆幸[21] 論文博士 - 新井史人[22] 長谷川泰久[23] 総勢は100人を超える[24]。 |
主な指導学生 | 小林宏[25] |
学位 | 工学博士(東京大学)[7] |
称号 |
名古屋大学名誉教授 中国科学院外籍院士 |
特筆すべき概念 | マルチスケールロボティクス[26] |
主な業績 | セル構造化ロボットシステム(CEBOT)の提案、国際会議IROS[注 1]やRo-manの立ち上げ、国際マイクロロボットメイズコンテスト創立、アジア人初のIEEE会長 |
主要な作品 | ブラキエーションロボット、テーラーメイド超精密手術シミュレータ 「イブ」 |
影響を受けた人物 | 寺野寿郎[10] 谷江和雄[27] 山崎信寿[28] 原島文雄[29][30] |
影響を与えた人物 | 新井健生[31][32] 淺間一[33][25] 小菅一弘[24] |
学会 | IEEE、日本知能情報ファジィ学会、日本ロボット学会、計測自動制御学会、日本機械学会、日本バーチャルリアリティ学会など |
主な受賞歴 | 紫綬褒章、瑞宝中綬章[34] |
公式サイト | |
Toshio FUKUDA |
工業技術院機械技術研究所研究員、東京理科大学講師、助教授、名古屋大学教授、名城大学教授、早稲田大学特任教授、エジプト日本科学技術大学研究担当副学長などを歴任[3][45][46]。専門はロボット工学 、マイクロ・ナノテクノロジー、ソフトコンピューティングで、故障診断や液面振動制御、フレキシブルアーム、自己組織化ロボット、マイクロロボットなど多岐にわたる業績がある[44][36][26]。テーラーメイド超精密手術シミュレータ 「EVE(イブ)」も開発し[44][47]、研究室発ベンチャーの技術顧問も務める[48]。
ヒューマンネットワークを唱え[49][38]、IEEEではNanotechnology Councilを創設し、Robotics & Automation SocietyのPresidentや、Region 10やDivision XのDirectorを歴任[45][30]。IEEEとASMEによる論文誌『Transactions on Mechatronics』も創設し[44][30]、2020年にはIEEE会長を務めた[5][39]。北京理工大学でも教授を務め[50][51](千人計画[52][53])、2017年には中国科学院外籍院士にも選出された[50][51]。
富山県生まれ[4]。幼少期は鉄腕アトムに憧れ、ラジオ製作やバイクの分解、アルコールランプによるおもちゃのタービン実験などをしたと語っている[5][54]。高校は富山県立富山中部高等学校に通い、同校の英会話教育が後の留学や国際会議での活動に寄与したという[55]。早稲田大学理工学部機械工学科に進学し、1971年3月に卒業[3][44]。早稲田大学では加藤一郎や土屋喜一の授業を受けた[38]。
東京大学大学院工学系研究科産業機械工学専攻に進学し[3]、耐震や原子炉の安全を研究していた柴田碧の研究室に所属する[56][57]。柴田からは研究テーマを与えられず自分で調査検討することになったが、それによって研究者として鍛えられたと述懐している[58][57]。学会で企業の人と話し合っているうちに浮かんだアイデアを発展させ、後の博士論文の元になったという[59]。
1973年3月に修士課程を修了し[3]、博士後期課程に進学[60]。1973年6月からアメリカ合衆国のイェール大学大学院へ留学[3]。ナレンドラ教授のもとで適応制御に関する研究に取り組む[61]。柴田から日本とアメリカのどちらで就職するか問われ[62]、1975年6月に帰国[3]。柴田が申請していた奨学金を帰国前に送ってくれたため、福田は帰国前の2か月間にヨーロッパを巡っている[62]。なお、イェール大学には単位互換制度の1期生として留学していたが、2年間のうち1年は休学扱いになったという[62]。
帰国後にファジィ理論の輪講が始まり、柴田研究室出身の原文雄[56]らも顧問として参加していた[10][8]。さらに柴田碧研究室と東京工業大学(東工大)の寺野寿郎研究室で相互開催された「あいまいシステム研究会」にも参加[10][8]。研究会の内容は官能検査や法律問題にも及んだという[10]。福田は寺野の人柄に触れるとともに、当時東工大飯野研究室に在籍していた廣田薫と交流を持つ[10]。
福田は原子炉における異常発生の判定に因子分析を用い、カルマンフィルタによって発生個所を推定する手法を提案[63]。日本機械学会に投稿した1977年の論文の討論では、「複雑な系である原子炉の過渡状態を解析して、迅速に異常を判定する方法は極めて有用」と評価された[63]。博士論文のテーマは日本語で『原子炉システムの異常診断と安定な適応則の応用』というもので[7]、1977年3月に博士課程を修了して工学博士の学位を取得する[3][7]。
1977年4月、通商産業省工業技術院機械技術研究所研究員[3](後、主任研究員[64]。1979年10月には西ドイツのシュトゥットガルト大学に留学(客員研究員、1981年1月まで)[3][64]。機械技術研究所では谷江和雄らの指導を受け[27]、大型プロジェクト「海底設計生産システム」では億単位の予算を使用したという[25]。1982年4月、東京理科大学工学部機械工学科講師に着任し、翌年4月には助教授[3]。
東京理科大学ではテナガザルのように雲梯を移動するブラキエーションロボットを提案し[65][25]、皇居周辺の堀から持ち帰った水を顕微鏡で見たことがきっかけで、マイクロマニピュレータやマイクロロボットの研究を開始する[66][6]。また、フレキシブルロボットアームの振動抑制制御も実施[67][68]。2リンクアームでは単一質点モデルが多かったが福田は分布定数系モデルを構築し[69]、他の研究者にも用いられた[70]。モータ重心の偏心によるリンクの連成スピルオーバ現象も明らかにした[71]。
さらに管内検査ロボットの研究[72]やパイプレスプラントの液体搬送ロボット(論文掲載は1990年)[73][74][75]にも取り組んだ。液体搬送ではバネ・質点モデルを適用し[73][75]、回転と傾動で液面の振動抑制を実現[74][75]。適応制御も適用した[76]。この間、1986年にはイェール大学の客員助教授を務める[64]。客員助教授の招聘にあたって研究成果のまとめを求められ、福田は研究報告集を発行するようになる[66]。
1987年には足を骨折し、入院したり松葉杖で歩いたりした[77]。そんな折に香港の学会に出向くが、そこで原島文雄から国際会議のノウハウを学ぶ[77]。さらに当時アメリカで流行していた研究[注 2]でなくても発表できる国際会議の開催を決意[77][27]。1988年に第1回目の国際会議IROSを東京理科大学で開催する[78][25][62][注 1]。なお、初開催にあたってはニューテクノロジー財団などから援助を受け[78]、第1回目以降も東芝や日立製作所から支援を受けたという[25]。
1989年4月に名古屋大学工学部機械工学第二学科教授に就任[64]。1992年4月に工学部機械情報システム工学科教授、1994年6月に大学院工学研究科マイクロシステム工学専攻教授(学部は機械情報システム工学科)、1997年4月に先端技術共同センター教授と変遷する[3]。なお、1990年9月から1995年3月の間に小菅一弘が助教授として着任[81]。小菅とは双腕マニピュレータで位置・力を直接ではなくコンプライアンスを制御する手法や[82]、タスクオリエンテッドな仮想ツールによる制御を開発した[83]。
福田は1980年代後半からソフトコンピューティング手法を取り入れた研究を行っており[36]、ファジィ制御によるPID制御の保障[84]や、遺伝的アルゴリズムによるファジィルールの自動生成[85]などに取り組み、フレキシブルロボットアームにはニューラルネットワークを適用して非線形システムへの有効性を示している[86]。後にアザラシ型ロボット「パロ」を開発する柴田崇徳も教え子で[87]、共著の解説では行動型ロボットにおけるファジィやニューロ制御の進化に遺伝的アルゴリズムが適しているとした[88][89]。
1991年10月に名古屋で開催されたマイクロマシン国際シンポジウムにおいて、福田は「山登りマイクロメカニズム国際コンテスト」を開催[93][90][注 3]。翌年の1992年にも「国際マイクロロボットメイズコンテスト」として開催し[93]、以後毎年開催される[91][99][100]。福田は実行委員長を務め[42]、石原秀則らとマイクロロボットを題材とするロボット教室にも取り組んだ[92][43]。福田はコンテストの自由に発想できる意義を説くとともに、「最後に必ずレポートを英文で書かせることが重要」と指摘している[43]。
1993年にはイタリアのサンターナ大学院大学(Scuola Superiore S.Anna)の客員教授を務める[3]。新菱冷熱工業とは風量検査ロボットの共同開発を行っており、ビジョンベースドな位置決めは海外でも評価されたと述懐している[59]。また、石川島播磨重工とは小菅一弘とともに油圧式のパラレルメカニズムの共同研究を行い[101][102][25]、三菱重工業とは位置検出器「Inductosyn」の改良に取り組んだ[103]。
ブラキエーションロボットは全身12自由度のBrachiatorIIIに発展し[37]、ディスカバリーチャンネルでも放映された[66]。2000年には福田の研究グループの成果をもとにした編著『インテリジェントシステム』が刊行され[104]、2003年には著書『鉄腕アトムのロボット学』が発刊[105]。2002年にはアレクサンダー・フォン・フンボルト財団よりフンボルト賞を授与され[106]、2003年度は「フンボルト財団研究賞教授」として活動した[106]。
2000年に計測自動制御学会で新しい部門制が敷かれた際には初代システムインテグレーション部門長に就任し[107][108]、2008年には国際会議SII(IEEE/SICE International Symposium on System Integration)[注 4]を創設する[108][109][110]。2003年から2年間は廣田薫の後を受けて日本知能情報ファジィ学会の会長に就任した[8][41]。2002年には名古屋大学、東北大学、産業技術総合研究所、三井造船が連携するJSTプロジェクト 「環境適応型高性能対人地雷探知システムの研究開発」で研究代表を担当する[111]。
一方で2002年に梅崎太造らと特定非営利活動法人ヒューマンウェア・ネットワーク推進機構を設立し、理事長に就任[113][114]。また、2003年に採択された名古屋大学の21世紀COEプログラム「情報社会を担うマイクロナノメカトロニクス」では当初サブリーダーを務め、途中からは拠点リーダーを担当する[115][116]。2005年に名古屋大学大学院工学研究科マイクロシステム工学専攻教授(機械理工学専攻併任)[3]。
テーラーメイド超精密手術シミュレータ 「EVE」を開発し[44][117][47]、2005年には大学発ベンチャーとして[116][44]ファイン・バイオメディアル有限会社が設立されている(代表は博士後期課程に在学していた池田誠一[48][20][116])。「EVE」は2006年の愛・地球博のプロトタイプロボット展にも出展された[117]。2014年時点でアメリカ合衆国、イタリア、中華人民共和国、大韓民国、南アフリカ共和国に販売実績があるという[118]。
また、2005-2009年度の科研費特定領域研究「マルチスケール操作によるシステム細胞工学」では領域代表を務め、A評価(研究領域の設定目的に照らして、十分な成果があった)を得る[119]。さらに2008年度に採択されたマイクロ・ナノシステム工学専攻が推進するグローバルCOEプログラム「マイクロ・ナノメカトロニクス教育研究拠点」では拠点リーダーを担当し、同プログラムは「設定された目的は概ね達成された」という事後評価を得ている[120]。2009年から2013年までエジプト日本科学技術大学でメカトロニクスの講義を担当し[46]、2010年4月から2013年3月までは名古屋大学高等研究院の副院長も務めた[44]。
2013年3月で名古屋大学を定年退職し、4月には名誉教授に就任[44]。同年4月には名城大学理工学部メカトロニクス工学科教授に学科創設と同時に就任[121][54]。また、北京理工大学でも教授を務める[50][51](千人計画特別招聘教授[52][53])。2014年には日本機械学会のロボティクス・メカトロニクス部門の欧文誌として『ROBOMEC Jounarl』を創刊し、編集委員長を務める[122]。2015年には「ロボット工学研究功績」により紫綬褒章を受章し[44]、2016年1月にホテルナゴヤキャッスルで祝賀会が催された[121]。2015年時点で名古屋大学福田研究室で博士号を取得した学生は94名に及び[44]、2018年には101人に達している[24]。
2018年にはIEEEの会長選挙に、理事会推薦ではなく会員から署名を集めて立候補[24][123]。福田は会員数の増加、会費見直し、財政の透明化改善などを掲げ、インターネット投票で2位に5千票以上の差をつけてトップとなり、次期会長に選出される[24]。この時、小菅一弘も副会長の一人に選出された[24]。2020年にはIEEEでアジア人で初めての会長職に就任[5](任期は1年[24])。また、同年8月には科学技術担当大臣の竹本直一と対談している[124]。
高西淳夫が所長を務める早稲田大学ヒューマノイド研究所では顧問を務め[125]、2021年1月にはU-18障害者も楽しめるe-sports協会「edge」の会長にも就任[126]。2021年時点で早稲田大学の特任教授[45]や名古屋大学未来社会創造機構ナノライフシステム研究所の客員教授[127]、科学技術振興機構ムーンショット型研究開発制度の目標3「2050年までに、AIとロボットの共進化により、自ら学習・行動し人と共生するロボットを実現」構想ディレクターを担当[128]。
2022年時点で名古屋大学未来社会創造機構客員教授、早稲田大学特命教授[129]。同年春には瑞宝中綬章を受章し[130][131]、同年7月にはエジプト日本科学技術大学の研究担当副学長に就任[132][46]。2023年5月時点ではムーンショット型研究開発制度の目標3プログラムディレクターも務めている[133][134]。
妻からは「リターンなんてそういうケチなことを考えちゃいけない」「人が困っていたらやりなさい、ボランティアでやりなさい」と言われたという[135]。父親からの「実るほど頭が下がる稲穂かな」という言葉が忘れられないといい[136]、「この姿勢でいると、自然と「ヒューマンネットワーク」も築かれる。夢中になればいつの間にか周りに人がいる。人がいるから、つながるからこそ必ず面白い何かが起こる。」と語っている[136]。
「アクティブな人」として知られ[137]、37から38歳の時に原島文雄と設立したIROS[29][59][62]を、ICRAと並ぶロボティクスのトップカンファレンスに育て上げた[138][40]。ヒューマンリレーションシップ[59]やヒューマンネットワーク[38]を唱え、IROS設立にあたっては富山の薬売りを参考に「信用を得るには自分が動かなくちゃいけない」という精神で取り組んだという[139]。
外国人からは「トシ」や「トーシオ」と呼ばれるといい[135]、世界中の乾杯の音頭を知っていると語っている[135]。日本では外国の研究者を銭湯に連れて行ったり、自宅に招いて狭いながらもパーティで応対していた[135]。寿司と妻による簡単な料理程度の飲み会で、後片付けの皿洗いは福田自身でやっていたという[135]。福田は「逆に相手から呼ばれれば時間がある限り行きます。そしてリターンを求めない。短い時間しかいられなくてもできる限り自分が行く。そこに「自分がいる」ということが重要」と説く[135]。
名古屋大学で総長を務めた濵口道成からは、世界を飛び回るために大学より仁川国際空港で会う方が多いと言われ[24]、栢森情報科学振興財団の理事長は、福田から「私の住所は飛行機の中」と言われたいう[121]。また、生田幸士によると福田は元気のない若手に学会の仕事を与えて励ましていたといい[121]、豊田工業大学学長を務めた榊裕之は「非凡な意欲とエネルギー」で通常は難しい教育研究と学会運営を両立させていると評価している[24]。
福田は「研究の原動力は何かというと、人と会って「何か面白いことをやろう」と思う好奇心」と語る[135]。夢中になると朝まで研究にのめりこむといい、教授になってからも学生と研究の話を朝までやっていたという[38]。学生からは変わった先生と言われることもあったが、名古屋大学では博士課程まで行くことを勧めていたといい[38][54]、2018年の時点で101名に達している[24]。藤江正克は福田を「研究と教育がセットでできている人」と評価した[121]。
講演ではロボットにはセレンディピティがあって教材向きと語っている[43]。自身が設立した「国際ロボットメイズコンテスト」の実行委員長を務め[91][99][42]、マイクロロボットを題材とするロボット教室にも取り組んだ[92][43]。国際ロボフェスタ協会の理事や[140][注 5]、日本ロボット学会ロボット教育研究専門委員会の委員も務めた[141]。2021年にはU-18 障害者でも楽しめる e-sports協会の会長にも就任している[126]。
研究業績として、紫綬褒章受章の2015年時に論文は795件、国際会議の発表は1250件に及んだ[44]。研究領域は大規模システムからマイクロ・ナノテクノロジーに及び、マルチスケールロボティクスを提唱した[36][26]。研究テーマの選定に対して「実用一辺倒だけでなく、「実用性(と思えるところ)」と「基礎性(長続きするところ)」が大切」とし、企業とロボットを研究開発する際にも「1台作って「終わり」ではなく、それから、その問題点を見い出し、整理し、体系化することが重要」と説く[142]。
福田はメンテナスロボットの開発時に同じ設計を何度も繰り返すことからモジュラーロボット、自己組織化ロボットの研究を開始[1]。「動的再構成可能ロボットシステムに関する研究」という学会発表は100報を超え[25][143]、2000年に第111報に及んだ[143][注 6]。2003年にはモジュラーロボットの研究情勢について、「現実の問題を理解し、ハードウェアの伴った良い理論的研究が少ない」「ハードウェア的に不可能な仮定の下に、いくら良い理論を作ってもしょうがありません」と記している[146]。
学会発表について「相手を納得させることのできる発表をした後、質問が飛びかい、発表後も、質問者が来て討議し、次回の論文招待等のおさそいを受ける程、用意周到に準備することが次の「自信」をつけるポジティブフィードバックとなりうる」と説く[142]。また、日本人は論理的な批判ではなく人間性を批判しているように受け止めることが多いと指摘し[142][58]、2019年のインタビューでは「国内会議で質問する際にはあまり嫌がられないように気を使っている」と語っている[58]。
(学術団体)
(アカデミー)
(その他)
(その他)
(単著)
(共著)
(編集)
(監修)
(分担執筆)
(安全・信頼性)
(メンテナンスロボット)
(インテリジェント制御)
(マイクロ・医療ロボティクス)
(分散・ネットワークロボット)
(その他)
(講演録)
(ロボティクスや研究開発について)
(回想、提言、寄稿)
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