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1962年に長崎県福江市で発生した火災 ウィキペディアから
福江大火(ふくえたいか)とは、1962年(昭和37年)9月26日午前2時10分頃に長崎県福江市(現五島市)の中心部で発生した火災、およびそれによる被害の総称である[1]。
なお、以下の記述では後の区画整理により消滅した酒屋町などの旧町名、市町村合併により五島市となった旧福江市、福江市長、福江警察署長などの旧役職名、現存しない旧施設名などの語について、それぞれ旧名であることに特に言及せず概ね原文ママ用いることに予め留意されたい。
1962年(昭和37年)9月26日午前2時10分頃[6]、市街地の北端、長崎県福江市東浜町(現・丸木橋付近)の九州商船福江支店倉庫付近[7]から出火[1]。消防庁資料によればマッチの火が原因とされている[8]。
火は浜から吹き上げる北北東[8]からの強風に煽られ海岸通りから中心商店街に向かって延焼しつつ[4]6時間燃え続け、市街地の大半、合計604戸を焼いて午前8時10分頃に鎮火した[7]。
鎮火後の福江中心街は草木一本残らぬほどの焼け野原となり、遮るものがなく焼け跡からそのまま海が見渡せるほどで[9]、戦後の長崎県下では最大の火災となった[1]。
激甚災害法公布後最初の激甚災害第1号に指定され[10]、またその後の日本国内防火防災モデルケースとなり[7]、復興事業費は3億6千700万円(当時)に上り、離島地域では前例のない近代都市として復興された[11]。
死者はなかったものの、被害内訳は右表に示す通り[1][7]であり、中心街の8割を灰燼と化した[13]戦後の長崎県下では最大の火災となった[1]。
この火災により市役所庁舎をはじめとして市消防車車庫、長崎県五島支庁、福江税務署、福江警察署、公立五島病院などの主要官公署も殆どが焼失してしまった[1]。民間では民間診療所12戸、薬局6店舗も焼失した[1]。
被害を大きくした要因は以下のように考えられている。
これらの原因究明はその後の復興計画策定に活かされた[22]。
当時の福江警察署長と福江市長が現場で火災対処の先頭に立ち行った迅速な避難誘導と、私財を取りに火災現場に戻ろうとする市民の行く手を阻んだ交通遮断、大火延焼を予想し病院の入院患者に延焼前時点で避難を促した早期対応が功を奏したと考えられている[5]。
このときの命令として「人命救助に全力を尽くせ。特に各病院の入院患者を安全な場所に移せ。素早く的確に徹底的に行なえ」の言葉が伝わっている[5]。また、私財を取りに戻ろうとした市民に対し警察署長は「命と荷物とどっちが大事だ。荷物に構うな」と一喝し通行を許可しなかった[23]。
この福江大火の復興では、火災前のおよそ2倍に拡幅された街路など大胆な土地区画整理事業が行われ、市街地は整然とした防火都市としての機能を十分に発揮できる近代都市に生まれ変わった。また、商店街にアーケードが整備され、五島列島の中核都市として発展し、復興後の昭和40年代は市街地が最も栄えた[7]。
自衛隊の復興支援活動中にも地元消防団ほか市民らは精力的に自衛隊と協力し焼け跡の始末に活躍した[16]。復興作業には青年団、婦人会に合わせ中高生までもが従事した[16]。
1966年(昭和41年)1月、市庁舎前に復興を成し遂げた市民力を顕彰する復興記念碑が建立されている[24]。
火災延焼中より現地駐屯自衛隊の復興支援活動が開始された[15]。内訳は以下の通りである。
以下に、火災当日到着支援物資の内訳を示す。
以後、全国から食料品、日用品などの生活支援物資の到着が相次いだ[25]。
陸上自衛隊・海上自衛隊からの救援物資以外に、日本赤十字社をはじめ日本全国各地からの様々な見舞い品が連日到着したが、多彩な物資がバラバラに到着したため被災者へ配給する仕分けを被災者自身となる小学生から高校生までの学生や婦人会、官公署職員が担った[21]。
なお、この支援物資の一部は福江大火の3か月後となる1962年12月4日に発生した三井楽町での11戸全焼火災時に、福江警察署および福江地域被災住民の好意により三井楽町域被災者への提供が為された[24]。
福江小学校に公立五島病院仮診療所および日本赤十字社無料診療班が設置され、被災者の無料診療が実施された[21]。
また、消火活動に従事した地元消防団員は特に眼球に小さな針状の異物が大量に刺さるなどの負傷者が多く[21]、地元眼科医の自発的協力により元町警察署跡地に設置された眼科無料診療所にて被災者および消防団員、ボランティア従事者への眼科診療も行われた[26]。
市内罹災診療所の元入院患者は非罹災診療所の協力により分散収容された[16]。
地元婦人会および福江市女子職員により握り飯などの炊き出しが被災者へ供された[18]。また、本来災害救助法にて制定された給食実施が3日間限定であったものが5日間に延長されるなどの協力もあった[18]。
福江小学校横の空き地に婦人会による日用品・生鮮食品販売所が設置され、物価値上がり防止策として一律市価の半額ほどで提供された[16]。
建材値上がり防止としては福江市が国から福江市内国有林6,500石の払い下げを受けて地元用材の出回りを図った上で、更に時価より一割を減じて価格安定された[16]。
九州商船フェリーによる定期航路は福江─長崎航路料金を1962年10月25日まで無料、以降翌1963年3月30日まで半額とし被災者便宜を図った[16]。
大火後の治安維持強化を目的として長崎県警本部は緊急機動部隊を福江市に派遣し、また北町天主堂、本町福江警察署跡および大波止の3箇所に巡査派出所を設けて地区警備を強化した[16]。
火災当日、鎮火まもない1962年9月26日午後3時頃に九州電力五島営業所で災害対策連絡協議会が開催され、長崎県知事、福江市長、福江市議会員、福江商工会幹部などが集まり復興計画について協議した[22]。
今回のような大災害に関しては特に事業計画確定を急ぐ必要性から、具体的な土地区画整理事業の設計については長崎県が中心となって取り組んだ[22]。
また、計画概要として
の3点を盛り込み、特に2.の街路計画に関しては防災機能と将来的な交通量、美観維持を主目的にメイン街路8本、延長14.5キロメートル、そして福江市では前例のない歩車分離の16メートル道路を盛り込んだ[22]。
1962年(昭和37年)11月9日より福江市役所および五島支庁にて供された[7]この復興計画案は、被災者のうち特に商店街住民の大反発を招いた[22]。その後幾度も住民協議を重ねたが、遂には住民側が「福江市区画整理対策委員会」を立ち上げ反対運動が本格化した[22][7]。反対運動の矛先は当時の福江市長に向かい毎日の罵倒に晒され、市長に警察署員の護衛がつくこともあった[11]。長崎県知事にも数百もの反対意見を表する電報が届いていた[11]。
しかし、この反対運動は福江市側が粘り強く各町内会別の住民説明会を進めるうちに市民側から新たに「区画整理促進委員会」が設立されるなど区画整理賛成派が増加する契機ともなり[27]、また住民側の反対を推して進められた区画整理事業の強行は工事が進むにつれ反対運動の威勢が衰え、最終的には大火から4年後となる1966年(昭和41年)夏に福江大火復興事業は完了した[7]。
1962年(昭和37年)9月6日(福江大火の20日前)に公布された激甚災害に対処するための特別の財政援助等に関する法律では福江大火のような地域災害については除外されていたが、当時の福江市が長崎県選出代議士らと共に国に働きかけた結果、昭和37年12月11日政令第四四八号にて激甚災害第1号に指定された[10]。
この大火が防火防災のモデルケースとなり、1964年(昭和39年)2月には国が政令で人口3万人以上の都市に常備消防を義務付ける契機となった[7]。
区画整理により新栄町が4つに分断された影響で、「日ごもり」「こんぴらさん」などの親睦行事が断絶した[27]。
1962年10月に当時長崎県下で「童話のおじさん」として知られていた西川武治が福江島を訪れ「復興の陽が昇る」の詩を寄せており、この詩が長崎県下の花いっぱい運動の導火線になった、と言われている[28]。
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