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古代日本で行われた神明裁判 ウィキペディアから
盟神探湯(くかたち、くかだち、くがたち)は、古代日本で行われていた神明裁判のこと。ある人の是非・正邪を判断するための呪術的な裁判法(神判)である。探湯・誓湯とも書く。
対象となる者に、神に潔白などを誓わせた後、探湯瓮(くかへ)という釜で沸かした熱湯の中に手を入れさせ、正しい者は火傷せず、罪のある者は大火傷を負うとされる。毒蛇を入れた壷に手を入れさせ、正しい者は無事である、という様式もある。あらかじめ結果を神に示した上で行為を行い、その結果によって判断するということで、うけいの一種である。
『隋書』倭国伝では、「或いは小石を沸騰の中に置き、競う所の者をしてこれを探らしめ、云う理曲なる者は即ち手爛ると。或いは蛇を瓮中に置きてこれを取らしめ、云う曲なる者は即ち手を蟄さると」とあり、7世紀の日本で熱湯や蛇を用いた神明裁判が行われていたことを記録している[1]。
日本書紀応神天皇9年4月条に、武内宿禰が弟の甘美内宿禰の讒言を受けて殺されそうになり、武内宿禰が潔白を主張したので、天皇は2人に磯城川で盟神探湯をさせた結果、武内宿禰が勝利したとの記述がある[2]。
允恭天皇4年9月条には、上下の秩序が乱れて、本来の姓を失ったり、わざと高い氏を名乗る者も出てきたため、それを正すために甘樫丘(甘樫坐神社)で盟神探湯を行ったという記事がある。各自が沐浴斎戒し、木綿の襷をつけて探湯を行い、正しく姓を名乗っている者は何ともなく、詐りの姓を名乗っている者は皆火傷をしたので、後に続く者の中で詐っている者は恐れて先に進めなかったので、正邪がすぐにわかったとある。この条の註記には、「或いは泥を釜に入れて煮沸して、手を入れて泥を探る」という手順が書かれている。さらに「或いは斧を火の色に焼きて、掌に置く」ともある[3]。
継体天皇24年9月条には、倭国から任那に派遣された近江臣毛野の下に任那人と倭人の間に子供の帰属を巡る争いが発生した際、毛野が充分な審理を行うことなく「誓湯」すなわち盟神探湯を多用し、火傷を負って死ぬ者が多かったとされる。この報告を聞いた継体天皇は近江君毛野に召還命令を出している[4]。
史書における盟神探湯の記録は『日本書紀』の上記3例を最後に途絶え、これから700年の間熱湯を用いた神明裁判の記録は存在しない。室町時代、応永年間になると再び熱湯を用いた神明裁判の記録が表れるようになり、この時代の熱湯を用いた神明裁判は「湯起請」という名で呼ばれた。記録に見えなかった時期に、熱湯を用いた神明裁判は行われなかったのか、それとも記録に残されていないだけで続いていたのかははっきりしないため、盟神探湯と湯起請の連続性を認める説と認めない説の両者が存在する[5]。
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