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甘美内宿禰(うましうちのすくね[1])は、記紀等に伝わる古代日本の人物。
『日本書紀』では「甘美内宿禰」、『古事記』では「味師内宿禰」、他文献では「味内宿禰」とも表記される。名称のうち「甘美」は美称、「宿禰」は尊称[2]。
『日本書紀』応神天皇9年4月条では、武内宿禰の弟とする[1]。同書では武内宿禰に関して、孝元天皇(第8代)皇子の彦太忍信命の子の屋主忍男武雄心命が父になるとしており、甘美内宿禰も孝元天皇三世孫にあたる。
『古事記』では、孝元天皇皇子の比古布都押之信命(彦太忍信命)と、意富那毘(尾張連等の祖)の妹の葛城之高千那毘売との間に生まれた子で[1]、孝元天皇の孫とする。同書では、建内宿禰(武内宿禰)の生母は山下影日売(木国造祖の宇豆比古の妹)とされており、味師内宿禰とは異母兄弟になる。
『日本書紀』応神天皇9年4月条によると、兄の武内宿禰が筑紫国に派遣された際、甘美内宿禰は兄を除こうとして天皇に讒言した。武内宿禰の天皇への弁明を受け、武内宿禰と甘美内宿禰は探湯で戦ったが、甘美内宿禰は敗れて兄に殺されそうになった。そこを天皇の勅によって許されたが、紀直らの祖に隷属民として授けられたという[1]。
『古事記』では事績に関する記載はない。
甘美内宿禰について、『古事記』孝元天皇段では山代内臣(内氏)の祖とする[1]。この「山代の内」とは、『和名類聚抄』に見える山城国綴喜郡有智郷(現・京都府八幡市内里)を指すとされる[2]。同地には、『延喜式』神名帳に記載される式内社として内神社が鎮座する[2]。
また『新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている[1]。
そのほか『蘇我石川両氏系図』では、甘美内宿禰の尻付において内臣・山公の祖とする[1]。
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