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中近世の日本で行われた神判 ウィキペディアから
火起請(ひぎしょう)とは、中世・近世の日本で行われた神判の一種で、火誓(かせい)、鉄火(てっか)、鉄火起請(てっかきしょう)とも称する。赤く焼けた鉄(鉄片・鉄棒)を手に受けさせ、歩いて神棚の上まで持ち運ぶなどの行為の成否をもって主張の当否を判断した。
戦国時代から江戸時代初期にかけての境相論の際に行われることが殆どであり、相論の是非が定まらなかった場合に、神の判断を仰ぐ意図の元に行われた。
相論の対象となる集団からそれぞれ代表者を指名し、代表者は精進潔斎の上に立会いの役人らの前で掌に牛王宝印を広げ、その上に灼熱した鉄を乗せて、それを素手で持ち運びその完遂の度合いによって所属集団の主張の当否が判断された。もし、成功しなかった場合はその集団の敗北とされ、代表者は神を欺いた罰として引廻・斬首などになり、極端な場合には五体引き裂かれた上に引き裂かれたままの遺骸を埋めた塚を複数個設置してその線上を境界線とした例もあった、また、勝った代表者も火傷などによって不具になる場合も珍しくなかった。このため、勝っても負けても火起請を行った代表者あるいはその家族はその集団が責任をもって面倒を見るべきものとされた[1]。
火起請の記録は会津地方や近江国など各地に見られ、また火起請の結果築かれたと伝えられる「鉄火塚」と呼ばれる塚が残っている地域も存在する。
火起請は自検断の一種として、江戸幕府の成立後は禁止されるようになり、遅くても元和年間には姿を消すことになった。ただし、それ以前に行われた火起請の結果については否定されず、村掟などの形で継続されたものが多い[2]。
火起請が実際の紛争において話題に上った最後の例として確認できるのは、万治3年(1660年)武蔵国足立郡大和田村と中丸村間の馬草場相論においてである(「浅子家文書」)[3]。
松永貞徳が慶安5年(1652年)に刊行した『なぐさみ草』では、比叡山で起きた盗難の犯人として火起請で有罪となり処刑された者が、後に別の盗人が犯行を自白したことで無実だったことが判明した結果、人々の心が火起請から離れ、火起請が行われなくなったことが記されている[4]。
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