畠山重則
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畠山 重則(はたけやま しげのり、1944年8月2日 - )は、北海道静内郡静内町(現・日高郡新ひだか町)出身の元騎手・元調教師。実家は有限会社畠山牧場で、長兄・重博は同牧場社長[2]。
1964年に東京・田中和夫厩舎に騎手見習いとして入門し、1965年に騎手免許を取得。開業したばかりの田中にとって、笹倉武久と並ぶ第一号の弟子であった。年齢は畠山の方が上であったが、一度高校に入学してから入ったため、競馬界に入ったのは笹倉の方が早かった[3]。畠山も入門当時は体が大きく、朝食の時に田中に「朝はパンで結構です」と言ってしまった[3]。体重を気にしてのことであったが、それに合わせなければならない笹倉は「ただでさえ、腹が減っているのに、余計なことを言ってくれたんだ(笑)。」と後に振り返っている[3]。
1974年には勝又忠厩舎、1978年には飯塚好次厩舎と移籍していき、1979年に調教師免許を取得したため騎手を引退。騎手成績は通算1787戦143勝で、重賞は1勝も出来なかった。
引退後の1980年に厩舎を開業し、10月11日に初出走となった福島第5競走でミスマッキンレーが2着となる。12月6日に中山での第12競走でグリーンエコーが勝利し、述べ14頭目で初勝利を挙げる。2年目の1981年に新潟記念をハセシノブで制し、騎手時代を含む重賞初勝利を挙げる[4]。
1985年春には一時シリウスシンボリを厩舎に受け入れ[5]、優秀調教師賞を初受賞。
1995年10月10日に管理馬が地方で初出走させ、1998年7月15日に浦和で行われたマルチロマン特別を1番人気のカゼノオーが制し、地方初勝利を挙げる。
2005年8月6日の新潟第7競走で中央通算300勝を達成し[4]、2015年2月28日付けで定年により調教師を引退[6]。
通算成績 | 1着 | 2着 | 3着 | 騎乗数 | 勝率 | 連対率 |
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平地 | 137 | 195 | 183 | 1712 | .080 | .194 |
障害 | 6 | 12 | 12 | 75 | .080 | .240 |
計 | 143 | 207 | 195 | 1787 | .080 | .196 |
日付 | 競走名 | 馬名 | 頭数 | 人気 | 着順 | |
---|---|---|---|---|---|---|
重賞初騎乗 | 1966年5月3日 | 4歳牝馬特別 | ヤグラダイコ | 16頭 | 13 | 11着 |
GI級初騎乗 | 1968年12月15日 | 朝日杯3歳S | メジロザオー | 17頭 | 13 | 5着 |
日付 | 競走名 | 馬名 | 頭数 | 人気 | 着順 | |
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初出走 | 1980年10月11日 | - | ミスマッキンレー | - | - | 2着 |
初勝利 | 1980年12月6日 | - | グリーンエコー | - | - | 1着 |
重賞初出走・初勝利 | 1981年8月23日 | 新潟記念 | ハセシノブ | 9頭 | 7 | 1着 |
GI初出走 | 1981年10月25日 | 天皇賞(秋) | ハセシノブ | 16頭 | 11 | 14着 |
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