桜人(さくらひと、さくらびと)とは、
- 源氏物語の古注釈、梗概書、源氏物語巻名目録や源氏物語古系図などの一部に現れるかつて存在したが今は内容が失われてしまったと考えられている源氏物語の巻名である。本項で詳述
- 室町時代に作られたと考えられる源氏物語の補作である雲隠六帖の第三帖の巻名。(雲隠六帖における)雲隠の並びの巻であるとされている。なお、雲隠六帖の中の「桜人」を上記の「桜人」と明確に区別するときには「六帖系桜人」と呼ばれることがある[1]。
桜人とは、源氏物語の古注釈、梗概書、源氏物語巻名目録や源氏物語古系図などの一部に現れるかつて存在したが今は内容が失われてしまったと考えられている源氏物語の巻名である。「花見」の名で呼ばれることもある。
源氏物語の巻数は、現在は54巻とされているが、古くは60巻とされる場合もあり、ある時期まではその範囲や内容は揺れていたと言える[2]。やがて源氏物語が古典・聖典化するとともに青表紙本や河内本の整定など本文の正規化が進むことになり[3]、それとともに「どのような範囲のものを源氏物語とするか」についても不確定な部分が消えていき、この桜人や巣守、輝く日の宮など、現行の54帖に含まれない巻は源氏物語から除外され、やがて本文も失われていったと考えられる[4]。
桜人は、以下のようなさまざまな資料にさまざまな形で現れている。
注釈書源氏釈の桜人
源氏釈(前田尊経閣文庫本)においては桜人は玉鬘の並びの巻のひとつとして真木柱に続く位置に巻名を挙げた後
- 「あるほんもありなきほんもあり」(この巻を含んでいる本もあり、含んでいない本もある)
- 「ほたるがつぎにあるべし」(蛍の次に置かれるのが妥当であると思う)
との注釈を加えた後、以下の13項目について「〜とあるは」等として本文を挙げた上で注釈を加えられている。
- 「こけのたもとはけさはそほつる」とよみて「なをたちかへる」
- 「こひをしこひは」
- 「われやかはらぬ」
- 「いとゝもけふる」
- 「わかれせましやとおしみきこゆ」
- 「はれすやきりの」
- 「道をさへせくこそ」
- 「花もみなちりはてゝわつかに藤そのこれるかたふくかけやなかめ給はん」
- 「(ゆふかほの)御手のいとあはれなれ跡はちとせも」
- 「われさえ心そらなりやとうちわらひ給てあやしつまゝつよひなりや」
- 「宮はあふをかきりになけかせ給」
- 「なとせしわさそ」
- 「みつにやとれる」
なお、同じ源氏釈でも冷泉家時雨亭文庫本では真木柱巻の記述の次に「桜人」の巻名のみが記されて、少し空白があるだけで本文の引用や注釈などが何も記されないままに次巻である梅枝巻の注釈に続いている。
注釈書異本紫明抄の桜人
鎌倉時代に作られた源氏物語の注釈書である『光源氏物語抄』とも呼ばれる「異本紫明抄」では、真木柱に続く位置に「桜人」の巻名は挙げられていないものの、前田尊経閣文庫本源氏釈で桜人の本文としてあげられているものとほぼ同じ文章が挙げられ注釈を加えられている。
梗概書での桜人
- 『源氏小鏡』
- 「源氏大鏡」と並ぶ源氏物語の代表的な梗概書の一つであり[5]、標題も内容もさまざまに異なるものが存在するが、この中に桜人関係の記述を持つ写本・版本がいくつか存在する。
- 「紫式部により書かれた54帖に入らない巻」として名前を挙げられている。「住守(巣守)」、「狭筵(サムシロ)」とともに各2帖あるとされている。(桃園文庫旧蔵本)[6]
源氏物語巻名目録での桜人
- 高野山正智院旧蔵「白造紙」中の『源シノモクロク』
- 現在の54帖と大体同じような巻名を列挙しているが、宇治十帖の巻々については「ウチノミヤノ」として改めて1から巻数を数えており、夢浮橋のあとに「コレハナキモアリ」と記し、その後「コレカホカニニチノ人ノツクリソヘタルモノトモ サクヒト サムシロ スモリ」と記しており、この中の「サクヒト」が「サクラヒト」のことではないかとされている。
- 『源氏物語注釈』(宮内庁書陵部蔵)[7]
- 院政期の成立と見られる巻名目録、「源氏物語のおこり」に続いて3つの注釈書を合わせた外題が付されていない源氏物語の注釈書であり、仮に「源氏物語注釈」や「源氏物語古注」と呼ばれている。54帖に含まれない源氏物語の続編的巻々の名前として「さくら人」、「さむしろ」、「すもり一」、「すもり二」、「すもり三」、「すもり四」、「やつはし」、「さしぐし」、「はなみ」、「さが野一」、「さが野二」の11帖を挙げている[8]。
- 『光源氏物語本事』(島原松平文庫蔵)
- 「庭云、この五十四は本の帖数也、のちの人桜人すもりさかの上下さしくしつりとのの后なといふ巻つくりそへて六十帖にみてむといふ。本意は天台の解尺をおもはへたるにや」と記している。
- 『山路の露』(九条稙通自筆本)
- 本書の奥書において「清少納言が造り添えた巻」として、「桜人」、「狭筵」、「巣守」の3帖が挙げられている[9]。
- 『拾芥抄』(前田尊経閣文庫本)
- 「源氏物語目録部第卅」において、玉鬘の並びの巻の最後で、槇柱に続いて「桜人イ」(「イ」はおそらく異文の意味)と記している。[10]
- なお、同写本には「東屋」に「狭席イ」と付記されており、また末摘花を紅葉賀の並びとする等いくつか他に見られない内容を持つ巻名目録になっている。
- 『光源氏一部謌』(島原松平文庫蔵)[11]
- 幻巻巻末の注記に、「すもり五帖、桜人二帖、嵯峨野三帖以上山路露十帖是也などと云ものちにつくりそへられたる本也 それもいまは世にわたらす。廿五より廿七かほる中将へうつるへし、その間八九年とみえたり」とある[12]。
- 『大乗院寺社雑事記』[13]
- 源氏物語の注釈書『花鳥余情』の著者一条兼良の子であり奈良興福寺の大乗院門跡であった尋尊大僧正の1450年(宝徳2年)から1508年(永正5年)にわたる日記「尋尊大僧正記」を、続く大乗院門跡であった政覚および経尋の1527年(大永7年)までの日記と合わせたものであるが、その1478年(文明10年)7月28日の条において、源氏物語のおこり・主要な伝本・主要な注釈書などについて触れているが、その中で54帖からなる源氏物語の巻名を挙げた後に清少納言が源氏物語に書き加えた巻として「桜人」、「巣守」、「八橋」、「さしぐし」、「花見」、「嵯峨野上」、「嵯峨野下」を挙げている。
源氏物語願文での桜人
『源氏物語願文』とは、源氏物語の巻名を読み込んでいった「源氏供養表白」や「源氏物語表白」に類似した内容を持つ願文であり[14]、以下のような特徴を持っている[15]。
- 漢文で書かれている。
- 文中での巻名の並べ方が巻序に従っていない。
- 独特の異名で呼ばれている巻が多い。
- 「巣守」、「桜人」、「法師」といった54帖以外の巻名を含んでいる。
源氏物語古系図での桜人
- 『源氏古系図』(宮内庁書陵部蔵)
- 系図末尾の雑載部分の歌の作者を男女別に挙げた部分で「桜人」、「狭筵」、「巣守」については歌を入れないとの注記がある。池田亀鑑はこの記述はこれらの巻は本来の源氏物語のものでないという判断に基づくのであろうとしている[16]。
- 『為氏本源氏物語系図』
- 巻名目録の末尾に「のりのし すもり さくら人 ひわりこ」と巻名を挙げた上で「これらは常になし きりつほよりゆめのうきはしまで五十五てう也」と注記されている。[17]
歌学書における桜人
- 「室町中期連歌学書(仮題)」(国文学研究資料館所蔵)[18]
- 歌学のための参考資料をまとめた本で、2004年(平成16年)に国文学研究資料館の所蔵になった資料である。外題も内題も無いために仮に「室町中期連歌学書」という名称で呼ばれている。
- 「源氏 世のなかのうきにうきたるうき草は」
- 「桜人巻 涙の川にねをやのきん」
- として桜人巻の本文らしきものを挙げている。
桜人の巻は、源氏物語の巻序の中では、
- 真木柱の後など玉鬘十帖の周辺(「源氏釈」など)
- 幻の巻の後(「光源氏一部謌」など)
- 夢浮端の後に巣守やサムシロなどといった失われた外伝的な巻と並べて(「白造紙」など)
のいずれかに置かれている。
桜人と並びの巻
風巻景次郎は、武田宗俊の玉鬘系後記一括挿入説を修正する形で同説における「玉鬘系の巻」と多くの古注釈等に現れる「並びの巻」のずれを解消するために、この桜人を現在の玉鬘十帖=玉鬘物語の原型だったのではないか。玉鬘は、玉鬘十帖の残り九帖とともにもともとは桜人の並びの巻であり、桜人が源氏物語から取り去られたために玉鬘十帖の残り九帖が玉鬘の並びの巻とされるようになったのではないかとしている[19]。
しかしながら源氏釈において僅かに伝えられている本文からすると、夕顔の娘=玉鬘に対する求愛の歌とみられるものがあるなど玉鬘に係わる物語が記されていたと見られることからこの「桜人」は玉鬘系に属すると考えざるを得ないため、桜人を武田説の言うところの「原源氏物語」=「紫上系」の中に存在したと考えることは出来ないとする批判が存在する。
なお、「桜人」の内容については、断片的な資料しか存在しないため、断片的なことはある程度判明するとしても「桜人」の全体像を復元することは不可能であるとされている[20]。
桜人と巣守など
桜人の他にもサムシロも巣守など、源氏物語に含まれる巻として存在したが今は内容が失われてしまったと考えられる巻がいくつか存在する。
特にこの中でも巣守は桜人の登場人物である蛍兵部卿宮の子孫たちの物語であり、多くの文献で同じように「源氏物語に含まれるかどうか疑問のある巻」「紫式部が書いたのではない巻」などとして同じように扱われ、同じように内容が失われてしまったという点から考えても何らかの密接な関連を持っていると考えられている。稲賀敬二は「桜人」巻に蛍兵部卿宮と玉鬘の間の話だけではなく、巣守の登場人物である巣守三位につながる蛍兵部卿宮の子である源三位の最初の妻との結婚やその子巣守姉妹の出生と母の死亡や源三位の先妻の妹との再婚といった物語が描かれていたのではないかとしている[21]。
桜人とサムシロ
サムシロは桜人のように本文とされるものも巣守のように内容を推測させる資料も全く伝わらないが、しばしば巣守や桜人と並べてかつて存在していた、あるいは後人の作った巻の名前として伝えられており、いくつかの巻名目録においては東屋や浮舟の巻の並びの巻とされたり異名とされたりしている以外に、しばしば巣守や桜人と並べて記され、これらと同種のものとして扱われている[22][23]。
- 岩坪健「消えた・消された・作られた巻」同志社大学大学院文学研究科『源氏・ゲンジ・GENJI 源氏物語の翻訳と変奏』同志社大学大学院文学研究科国際シンポジウム2008実行委員会、2008年(平成20年)、pp.. 4-16。
出典
稲賀敬二「幻(雲隠六帖)」山岸徳平・岡一男編『源氏物語講座 第4巻 各巻と人物 2』有精堂、1977年(昭和52年)。のち「幻巻と「雲隠六帖」 六帖系「桜人」巻以下の性格」として『 源氏物語研究叢書 4 源氏物語注釈史と享受史の世界』、新典社、2002年(平成14年)8月、pp. 291-292。 ISBN 4-7879-4928-4
伊井春樹「源氏物語は何巻あったか」『三省堂選書 源氏物語の謎』三省堂、1983年(昭和58年)5月、pp.. 203-205。
伊井春樹「物語の整理」『三省堂選書 源氏物語の謎』三省堂、1983年(昭和58年)5月、pp.. 208-210。
伊井春樹「桜人の巻の消滅」『三省堂選書 源氏物語の謎』三省堂、1983年(昭和58年)5月、pp.. 205-207。
「天文十年九月二十二日如本写之藤原円心筆」との奥書がある。
伊井春樹「源氏物語の別伝」『源氏物語の伝説』昭和出版、1976年(昭和51年)10月、pp.. 99-150。
池田亀鑑『源氏物語系図とその本文的資料価値』(「学士院紀要」第9巻第2号 1951年(昭和26年)7月)のち『池田亀鑑選集 物語文学 2』至文堂、1969年(昭和44年)、p. 270。
風巻景次郎「『玉かつら』とその並びの巻・『桜人』」『文学』1940年(昭和15年)12月号、のち『日本文学史の研究 下』および『風巻景次郎全集 4 源氏物語の成立』桜風社、1969年(昭和44年)11月、pp.. 58-77。
加藤昌嘉「基調報告2 『源氏物語』桜人巻の散佚をめぐって」人間文化研究機構国文学研究資料館文学形成研究系「平安文学における場面生成研究」プロジェクト編『物語の生成と受容 国文学研究資料館平成17年度研究成果報告』人間文化研究機構国文学研究資料館、2006年(平成18年)3月、pp.. 41-67。 ISBN 4-87592-107-1
稲賀敬二「散逸「桜人」と玉鬘物語 桜人巻の復元と、並びの巻追加、玉鬘物語の成立」『安田女子大学大学院博士課程開設記念論文集』1997年(平成9年)3月のち「稲賀敬二コレクション (3) 『源氏物語』とその享受資料」笠間書院、2007年(平成19年)7月30日、pp.. 176-199。 ISBN 978-4-305-60073-8
寺本直彦「源氏物語目録をめぐって -異名と并び-」」『文学・語学』1978年(昭和53年)6月号のち『源氏物語受容史論考 続編』風間書房、1984年(昭和59年)1月、pp.. 645-681。
寺本直彦「源氏物語目録続考 -「さむしろ」と「ならび」の一異説とについて-」源氏物語探求会編『源氏物語の探求 第四編』風間書房、1979年(昭和54年)4月、pp.. 37-67。のち『源氏物語受容史論考 続編』風間書房、1984年(昭和59年)1月、pp.. 682-713。