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啓志線(けいしせん)は、グラントハイツ(現・光が丘)に建設された駐留アメリカ軍上級士官住宅居住者、関係者の人員輸送、物資輸送のため、上板橋駅 - グラントハイツ駅(旧・啓志駅)間を結ぶ東武鉄道が運営していた鉄道路線。
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啓志線の名称は、グラントハイツ建設工事総責任者のヒュー・ボイド・ケイシー中尉の名前からきている。しかし近年『光が丘学』等を初めとする各同人誌において、ケイシー中尉ではなく、その父親である、進駐軍の工兵部門トップであったヒュー・ジョン・ケイシー少将の名前からではないかとの説が提唱されている。なおケイシー中尉自身が第584建設工兵大隊に所属し、家族住宅担当であったというのは事実である。
1943年(昭和18年)、上板橋 - 陸軍第一造兵廠構内(東京第一陸軍造兵廠練馬倉庫に所在。現在の陸上自衛隊練馬駐屯地)間が完成。終戦後、GHQにより啓志(成増陸軍飛行場跡。後のグラントハイツ)までの延伸と運行が命じられた。建設は国鉄新橋工事区が施工し、東武鉄道が運行を受託した。1947年(昭和22年)から1948年(昭和23年)にかけて、池袋駅から約30分間隔でグラントハイツ駅(旧・啓志駅)まで、ノンストップの駐留アメリカ軍専用列車を運転した。旅客列車の車両には、国鉄から10両のキハ41000形ガソリンカーを借り受け運転した。アメリカ軍の当初の方針は、ガソリンカーを東京駅まで直通運転させる計画であったが、諸般の事情により実現はしなかった。
貨物列車は、池袋駅 - 北池袋駅間の西山信号所(廃止)から東上本線に乗り入れ、グラントハイツまで向かった。
啓志線は、駐留アメリカ軍専用の鉄道であり、当初、東武鉄道はこの区間の鉄道免許を持っていなかった。廃止と同時に免許を申請、取得するが、実際にはその後の運行は行われなかった。
なお2017年頃より鉄道同人誌内において、当時の東武鉄道社内新聞記事を転載する形で、東上線上板橋駅から練馬倉庫までの開業年について1944年(昭和19年)4月とする説が提唱されている。
上板橋駅 - 練馬倉庫駅(旧・陸軍第一造兵廠構内) - グラントハイツ駅(旧啓志・ケーシー駅)
グラントハイツ駅は現在の光が丘秋の陽小学校(旧田柄第三小学校)の北側に設置され[3]、連合軍輸送を指揮監督する現場機関として、RTO(Railway Transportation Office 鉄道運輸事務所)が置かれた[4]。連合軍輸送は、定時運行を最優先するものであり、列車の運行には細心の注意が払われた。
ルートの概略については航空写真、地図等で判明していたものの、駅構内の配線図や正確な平面図については発見されていなかった。しかし近年になり、鉄道同人誌内において練馬倉庫内の配線図や『グラントハイツ専用側線 1/10000』と記された当時の平面図が掲載された。列車が走っている映像を確認することは難しいが、蒸気機関車が北町(現在の錦2丁目)付近を走り、子供が耳を塞いでいる写真を練馬区が所蔵している[5]。
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