木曾三柱神社
群馬県渋川市にある神社 ウィキペディアから
群馬県渋川市にある神社 ウィキペディアから
木曾三柱神社(きそみはしらじんじゃ)は、群馬県渋川市北橘町箱田にある神社。祭神は須佐之男尊、彦火々出見尊、保食神、旧社格は村社[2]。江戸時代末に下箱田の木曾三社神社(きそさんしゃじんじゃ)から分祀されたと伝わる。桜の花が美しいことから「花の明神」と呼ばれる[2]。
社伝によれば、元暦元年(1184年 - 1185年)に木曾義仲が粟津の戦いで討たれた後、義仲の三男・義基、四男・義宗は一族遺臣とともに上野国の外祖父・沼田伊予守を頼ってこの地に逃れたという。彼らは塚を築いてその石室に義仲の遺品を納め将軍塚と称し、上に社殿を建てて信濃国筑摩郡の式内社である岡田・沙田・阿礼神社の3座を勧請したとされる。暦応元年(1338年)に木曾家村が木曾に移ったために神社は荒廃したが、天文年間(1532年 - 1555年)に再興されたという[2]。
木曾三柱神社の由緒では上述のように木曾義仲遺児が移住したとの伝承を含んでいるが、本社にあたる木曾三社神社にはそのような伝承がない。また『前橋風土記』をはじめとする地誌や、木曾遺臣の子孫を称する家の旧記にも義仲子孫の移住については記述がない[3]。
分祀の発端は、安政年間(1855年 - 1860年)、木曾三社神社の神主・高梨宮之亮と養祖父・高梨八千穂の関係が悪化したことであった。八千穂は箱田村の有力者・根井弥七郎行雄(明治維新後大区長となる)と懇意だったことから、箱田村と木曽三社神社の鎮座する下箱田村の対立へと発展した。和解の場も持たれたものの、宮之亮が実家に帰ってしまったことで、箱田村の人々や八千穂が箱田村の愛宕神社で「拝殿」と称して独自に祭祀を始めたのが木曾三柱神社である[4]。
明治6年(1873年)村社となる。明治41年(1908年)、村内の郡玉神社、井出上神社、八幡宮、大山祇神社と境内社を合祀[2]。明治10年(1877年)『村誌』では郡玉神社と井出上神社はそれぞれ『上野国神名帳』の「正四位下 郡玉明神」「正五位上 井出上明神」にあてられている[5]。
前述のように社殿は将軍塚古墳の上にあり、他にも境内には朝日塚古墳が存在した。将軍塚古墳(『上毛古墳綜覧』北橘村71号)は直径約20メートルの円墳で、石室は崩壊しているものの直刀や鍔が出土している[6]。朝日塚古墳(北橘村70号)は直径14メートルの円墳で、昭和59年(1984年)に発掘調査が行われて横穴式石室が確認され、須恵器・鍔などが出土した[7]。
木曾三柱神社で、4月第2日曜日の春の例祭で奉納される獅子舞。安政年間に木曾三柱神社が分祀された際に、高梨八千穂が自身の実家である川原(現・前橋市川原町)から伝えたものであるという。その30年ほど後に下箱田で大火があり、それ以降中止されていたが大正13年(1924年)に復活された。一人立ち3人獅子舞で、赤ウルシのカシラを端(はな)、黒ウルシのカシラを中(なか)、青ウルシのカシラを終(しまい)と呼ぶ。演目は「トヒヒ」「オカザキ」「トントチャ」「ジャジャジャン」「コロロ」などがある[8]。獅子は腰太鼓をつけ、鉄の棒を持ったカンカチが先頭に立ち、笛と道太鼓が囃子につく[9]。渋川市の重要無形民俗文化財に指定されている。
渋川市指定重要文化財
渋川市指定重要無形民俗文化財
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