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夕雲型駆逐艦 ウィキペディアから
朝霜(あさしも)は[1]、日本海軍の駆逐艦[2]。 夕雲型駆逐艦(一等駆逐艦夕雲型)の16番艦である。 戦艦大和(第二艦隊)の沖縄水上特攻作戦(坊ノ岬沖海戦)に参加したが機関故障により落伍、米艦上機の攻撃により大破したあと行方不明となった[3](沈没認定)[4]。
一等駆逐艦朝霜(あさしも)は、日本海軍が藤永田造船所で建造した夕雲型駆逐艦[5]。1943年(昭和18年)11月27日に竣工し[6]、訓練部隊の第十一水雷戦隊に所属した[7]。 1944年(昭和19年)2月10日、夕雲型3隻(朝霜、岸波[8]、沖波[9])は第二水雷戦隊隷下の第31駆逐隊に編入され[注 1][11]、松輸送など船団護衛任務に従事した[12]。2月下旬、護衛中の輸送船崎戸丸を撃沈されたが、朝霜も潜水艦トラウトを撃沈した[13]。
5月中旬にはタウイタウイ泊地に進出し、第31駆逐隊は6月中旬のマリアナ沖海戦に参加した[5]。内地に戻ったあと、第31駆逐隊(長波、岸波、沖波、朝霜)は7月中旬にリンガ泊地へ進出する[14]。 捷号作戦では第一遊撃部隊(通称「栗田艦隊」)に所属した[5]。10月23日、米潜水艦の雷撃で第二艦隊旗艦愛宕が沈没すると、朝霜と岸波は生存者を救助した[15]。また重巡高雄が大破したので[16]、朝霜と長波[注 2]は高雄を護衛してブルネイに撤退した[18]。朝霜と長波はレイテ沖海戦に参加できなかった[19]。
つづいて第31駆逐隊は多号作戦に従事した[注 3][21]。 11月11日の第三次多号作戦では駆逐艦島風(第二水雷戦隊旗艦)[22]や若月[23]等が沈没し、朝霜は姉妹艦浜波(第32駆逐隊)[24]の生存者を救助して撤退した[25]。 11月15日、朝霜は第2駆逐隊に転籍した[26]。 12月下旬、第2駆逐隊は礼号作戦に参加、清霜[27]を喪失した。
1945年(昭和20年)2月、朝霜は北号作戦に従事して内地に帰投した[28][29]。2月10日、第2駆逐隊の解隊にともない朝霜は第21駆逐隊に編入された[30]。 4月上旬、第二艦隊(旗艦「大和」)による沖縄水上特攻攻撃に参加する[31]。4月7日、朝霜は機関故障を起こして艦隊から落伍[32]、米軍空母機の空襲を受けて撃沈された[33]。第21駆逐隊司令をふくめ全乗組員が戦死した[34]。
1942年度(マル急計画)仮称第344号艦として藤永田造船所で建造[35]。1943年(昭和18年)5月25日、姉妹艦(沖波、岸波)、海防艦の御蔵や平戸、標的艦波勝等と共に命名された[1]。3隻(沖波、岸波、朝霜)は同25日付で夕雲型駆逐艦に登録された[36]。 11月1日、日本海軍は駆逐艦如月・朝霧・夕霧艦長等を歴任した前川二三郎少佐を、臨時朝霜艤装員長に任命した[37]。 11月2日、藤永田造船所に朝霜艤装員事務所を開設[38]。 本艦は同年11月27日に竣工し[5]、朝霜艤装員事務所も撤去された[39]。同日付で正式に横須賀鎮守府籍となり[40]、前川艤装員長も朝霜駆逐艦長(初代)となった[41]。
竣工と共に訓練部隊の第十一水雷戦隊に編入される[42]。 瀬戸内海に回航された朝霜は、訓練部隊(龍田、浜波〈12月15日付で第32驅逐隊編入〉[43]、岸波〈12月3日編入〉[44]、沖波《12月10日編入》[44]、朝霜〈11月28日編入〉)に所属[45]。 第十一水雷戦隊所属艦および臨時所属艦[注 4]と訓練をおこなった。
12月29日、燧灘で十一水戦に春雨(第27駆逐隊)が合同した[48]。 駆逐艦4隻(時雨、春雨、沖波、朝霜)は戦艦山城を護衛して呉を出発した[49]、31日、横須賀回航部隊は横須賀に到着した[50]。
1944年(昭和19年)1月4日、沖波と朝霜は横須賀を出発、内海西部に戻った[51]。 以降、第十一水雷戦隊(龍田、朝霜、沖波、岸波)は臨時編入艦と共に内海西部で訓練に従事する[52]。 1月27日付で杉原輿四郎少佐(海軍兵学校第57期)[53][注 5]は朝霜駆逐艦長(二代目)に任命された[54]。 2月10日、朝霜(藤永田造船所建造艦)[5]、岸波(浦賀船渠建造艦)[8]、沖波(舞鶴海軍工廠建造艦)[9]は第二水雷戦隊(司令官早川幹夫少将:旗艦能代)隷下の第31駆逐隊に編入された[11]。 第31駆逐隊は前年11月下旬のセント・ジョージ岬沖海戦で31駆司令香川清登大佐および構成艦大波[55]と巻波[56]を喪失して夕雲型4番艦長波(藤永田造船所、昭和17年6月30日竣工)[10]1隻となっており、夕雲型4隻(長波、岸波、沖波、朝霜)で再編された[11][57]。第31駆逐隊司令福岡徳治郎大佐(海兵48期、前職第19駆逐隊司令)[58][59]も朝霜・沖波・岸波編入の直前に任命されたばかりである[60]。
2月26日、第31駆逐隊3隻(朝霜、岸波、沖波)は宇品を出港し、マリアナ諸島へ派遣される第29師団(司令官高山彪陸軍中将、通称号「雷」)[61]の陸軍兵士[注 6]と装備品を乗せた安芸丸(日本郵船、11,409トン)、東山丸(大阪商船、8,666トン)、崎戸丸(日本郵船、9,247トン)の3隻の優秀貨客船を護衛する[63]。 2月29日未明、船団は北緯25度41分 東経130度21分の地点に差し掛かった所でアメリカの潜水艦ロックの発見するところとなった[64]。朝霜は左舷斜め後方約5800mに敵潜らしきものを電探で探知した[65]。朝霜はサーチライトを照射した後、12.7センチ砲15発を発射する[65]。砲弾は潜航しかけたロックの潜望鏡支柱に命中し、潜望鏡が昼間用と夜間用の両方とも破損、またレーダーマストに浸水するなど大小さまざまな被害を受けていた[66]。朝霜は午前6時45分まで爆雷攻撃をおこなったあと、船団に合流した[65]。 17時53分、ロックの通報により船団を追跡していたアメリカの潜水艦トラウトは[66]、北緯22度40分 東経131度50分[67][68]の大東諸島の南方200キロの地点で輸送船団に対して魚雷を3本発射した[65]。魚雷2本を被雷した崎戸丸は沈没し、乗船者約3900名のうち歩兵第18聯隊長を含めた約2200名が戦死、1720名(重傷者570名)が救助された[63]。もう1本は安芸丸に命中して航行不能に陥らせた[69]。撃破された安芸丸は8ノットの速力が出せるまでに回復し、沖波に護衛されて先行、朝霜と岸波でアメリカ潜水艦の掃討をおこなう[69]。17時55分、朝霜は自艦の左舷1,200メートルに潜望鏡を発見した。2分後に60メートルに設定した12発の爆雷を投下、九三式水中探信儀を使用し、さらに深い深度に設定した7発の爆雷を投下した[69]。その結果18時16分に海中の誘爆音を聴取し、爆雷を一発投下した後水中探信儀を使用して探索したものの、反応はまったくなかった[69]。これがトラウトの最期だった[69]。船団はグァム島やサイパン島に立ち寄った後、内地に帰投した[70]。
3月20日、第31駆逐隊(岸波、沖波、朝霜)はトラック諸島行きの東松三号特別船団、輸送船3隻(浅香丸、山陽丸、さんとす丸)を護衛して館山を出航する[71]。28日、船団部隊はトラック泊地に到着した[72][73]。 その後、4月14日にリンガ泊地に進出。5月中旬からは前進根拠地のタウイタウイ方面に移動して、同泊地周辺で対潜警戒に従事した[5][74]。また僚艦と共にタンカー船団(日栄丸、建川丸、あずさ丸)の護衛任務にも従事した[75]。
6月19日のマリアナ沖海戦における第31駆逐隊[注 7]は丙部隊(第三航空戦隊〈千代田、千歳、瑞鳳〉、第四戦隊〈愛宕〔第二艦隊旗艦〕、高雄、鳥海、摩耶〉、第七戦隊〈熊野、鈴谷、利根、筑摩〉、戦艦〈大和、武蔵、金剛、榛名〉等。指揮官/第二艦隊司令長官栗田健男中将・海兵38期)に属した。海戦後、6月22日に中城湾に立ち寄った後[76]、朝霜と島風は戦艦榛名(対空戦闘で被弾、舵損傷)の佐世保回航を護衛した[77]。榛名を送り届けたあと、28日になって呉に到着した[78]。ただちに対空機銃の増備、レーダーの改良と設置作業をおこなった[79]。 この頃、朝霜は機関部(減速装置)に若干の不安を抱えた[80]。
7月8日、第31駆逐隊(岸波、長波、沖波、朝霜)は遊撃部隊主隊(甲部隊、旗艦「愛宕」)[注 8]として呉を出撃する[81][82]。沖縄の臼杵湾で仮泊したあと(武蔵から朝霜、岸波、沖波、長波に対し燃料補給)[83]、昭南を経て7月19日までに甲部隊全隻がリンガ泊地に揃った[84]。同泊地滞在中に、従来の遊撃部隊は第一遊撃部隊に改称した[85]。第31駆逐隊は従来どおり各艦・各隊と共に訓練に励んだ[86]。臨時にタンカーの護衛をおこなうこともあった[87]。
10月18日、捷一号作戦発動に伴って第二艦隊司令長官栗田健男海軍中将を指揮官とする第一遊撃部隊(通称栗田艦隊または栗田部隊 )はリンガ泊地から出動し、ブルネイ湾で補給の後、10月22日に出撃した。しかし翌10月23日未明にパラワン水道において第二艦隊旗艦の重巡洋艦愛宕がアメリカ潜水艦ダーター の[15]、重巡洋艦摩耶がデイスの雷撃でそれぞれ沈没し[88]、同じく重巡洋艦高雄がダーターの雷撃で大破して航行不能となった[89][90]。 愛宕が被雷した時、朝霜は第一部隊陣形中央後方に位置し、朝霜右舷(左舷)に戦艦大和・武蔵(長門)、朝霜の後方に島風が航行していた[91]。朝霜と岸波は、共同で午前7時頃に沈没した愛宕乗組員の救助をおこなった[92]。岸波は第二艦隊司令長官(第一遊撃部隊指揮官)や二艦隊参謀長を救助する[93]。その後、第一戦隊司令官宇垣纏中将座乗の戦艦大和(第一戦隊旗艦)に栗田司令長官以下第二艦隊司令部を移乗させると[94][95]、二水戦旗艦能代に従って僚艦沖波と共にシブヤン海へ向かった。朝霜は愛宕艦長以下准士官以上29名、下士官兵463名を救助した[93]。
朝霜は愛宕生存者を救助した後、第31駆逐隊僚艦長波とともに応急修理をおこなう高雄の警戒と護衛にあたった[18]。朝霜は高雄の護衛をやめて栗田艦隊を追いかけたが、宇垣司令官(大和座乗、この時点で栗田長官は岸波座乗、宇垣が臨時の第一遊撃部隊指揮官を務めた)からあらためて高雄警戒任務の続行を命じられ、朝霜は高雄の護衛に戻った[96]。 ダーターとデイスは高雄にとどめをさそうと追跡を続けていたが、修理後に発進した高雄水上偵察機や[96]、朝霜と長波の警戒により攻撃機会を失ったという[97]。21時44分、高雄は速力6ノットで航行可能となった[17]。高雄は12時間も敵潜水艦伏在海面を漂っていたことになる[17]。一方、ダーターは座礁して行動不能となり、乗組員をデイスに移して放棄された[98][99]。
10月24日午前4時前後、水雷艇鵯、特設駆潜艇御津丸が合流した[17]。午前9時、護衛部隊2隻(長波、鵯)はボンベイ礁に座礁したダーターの調査のため分離し、朝霜と御津丸で高雄を護衛した[100]。そのあと長波はシブヤン海対空戦闘で被雷した重巡妙高の護衛の為に去り[101]、鵯だけが3隻(高雄、朝霜、御津丸)の所へ戻ってきた[17]。10月25日夕刻、高雄護衛部隊はブルネイ湾に帰投した[17][102]。 この時、朝霜には第二艦隊の通信担当部員が乗ったままであり[103]、レイテ沖海戦では第二艦隊はやむを得ず、第一戦隊(司令官宇垣纏中将・海兵40期、大和座乗)の通信担当部員を使うこととなった[104]。ブルネイ着後、朝霜幹部は第一遊撃部隊第三部隊(西村艦隊)を追って出撃しようとしたが、荒木伝大佐(愛宕艦長、朝霜に救助)・小野田捨次郎高雄艦長の助言を受け、中止した[105]。実際にブルネイを出撃してスルー海を北上したあと、途中で反転したという朝霜乗組員の回想もある[106][107]。
レイテ沖海戦の後、朝霜以下第二水雷戦隊はレイテ島行きの多号作戦に投入される事となった[108]。10月27日から29日にかけて、栗田艦隊と小沢機動部隊の残存部隊から駆逐艦が第二遊撃部隊(指揮官志摩清英第五艦隊司令長官)に編入され[21]、二水戦各艦はマニラに移動した[109][110]。 11月5日と6日、米軍機動部隊艦載機はマニラ湾周辺の日本軍に対し、大規模空襲を敢行した[111]。5日の空襲で第五艦隊/第二遊撃部隊旗艦那智が沈没、那智救援中の駆逐艦曙も大破した[112]。さらに朝霜と沖波も損傷し、作戦に参加できなくなった[113]。 朝霜では、安藤文彦砲術長以下戦死者9名、重傷26名・軽傷多数が出たという[114][115]。 曙の代艦として夕雲型姉妹艦秋霜(第2駆逐隊)が多号作戦第四次輸送部隊に編入された[116]。 11月8日朝、第一水雷戦隊司令官木村昌福少将(海兵41期)は第四次輸送部隊第一梯団(駆逐艦〈霞〔一水戦旗艦〕、長波、若月、潮、朝霜、秋霜〉、第七護衛隊〈司令官松山光治少将:海防艦4隻〔沖縄、占守、11号、13号[117]〕〉、輸送船3隻〈高津丸、香椎丸、金華丸〉)を指揮してマニラを出撃した[118]。 本来なら先に出発するはずだった第三次輸送部隊(指揮官早川幹夫第二水雷戦隊司令官)はマニラ空襲により準備に遅れが生じ、第四次輸送部隊が先発することになった[116]。
第四次輸送部隊は翌11月9日夕方にオルモック湾に到着するも、大発が揃わなかったため海防艦を代用に用いたが[119]、兵員しか陸揚げできなかった[120]。11月10日、輸送部隊はオルモック湾を出撃してマニラに向かったが、間もなくB-25とP-38 の攻撃を受けて陸軍特種船高津丸(山下汽船、5,657トン)と輸送船香椎丸(大阪商船、8,407トン)、第11号海防艦が沈没する[121]。松山司令官は第13号海防艦に移乗した[122]。輸送部隊を指揮する木村一水戦司令官は3隻(霞、朝霜、長波)を率いて救助作業にあたり[123]、秋霜以下の艦艇を輸送船金華丸(大阪商船、9,305トン)の護衛につけてマニラへ先発させた[124]。 このあと、第四次輸送部隊護衛艦(霞、長波、朝霜、若月)は、第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将(旗艦島風)[125]指揮下の第三次輸送部隊[注 9]と合流し、駆逐艦3隻(長波、朝霜、若月)と駆逐艦2隻(初春、竹)を交換した[126][127]。霞に香椎丸生存者を移した朝霜は長波とともに第四次輸送部隊から離脱し、21時にマスバテ島東方のブラックロック水道で第三次輸送部隊に合流した[128]。第三次輸送部隊の駆逐艦は5隻(島風、長波、朝霜、若月、浜波)となり、そのままオルモックへ向かった[129]。なお、せれべす丸は座礁し駆潜艇46号の護衛下で取り残されていた[130]。
第三次輸送部隊は11月11日の正午ごろにオルモック湾に到着する予定であったが、その直前に第38任務部隊(ジョン・S・マケイン・シニア中将)の艦上機347機による空襲を受けた[131]。輸送船は全滅した[132]。護衛部隊も健在艦は朝霜だけになった[133]。朝霜は航行不能となった第二水雷戦隊旗艦島風に接近しようとしたが、再三にわたる機銃掃射のため接近を断念した[134][135]。島風艦上では早川二水戦司令官が既に戦死しており、松原瀧三郎先任参謀が朝霜に帰れと命令したという[136][137]。また朝霜は沈没寸前の姉妹艦浜波に接舷すると、第32駆逐隊司令大島一太郎大佐を含む生存者を移乗させた[138][139]。この後、島風は沈没し第三次輸送部隊は朝霜一隻を残して全滅した[132][140]。12日、朝霜はマニラに帰投した[141]。
11月12日、緊急輸送作戦のためマニラに入港していた空母隼鷹、重巡利根、第30駆逐隊(夕月、卯月)からなる小艦隊は、西村艦隊唯一の残存艦時雨を編入してマニラを出港、日本本土へ向かった[142][143]。それまで隼鷹隊を護衛していた軽巡木曾は、第一水雷戦隊旗艦となるためマニラに残った[144]。 翌11月13日、マニラは第38任務部隊艦載機の空襲を受ける[145]。この空襲で、軽巡木曾、駆逐艦複数隻(初春[146]、曙、沖波、秋霜)等が沈没もしくは大破着底状態となった[147][148]。第二遊撃部隊(第五艦隊長官、第一水雷戦隊司令官)は残存駆逐艦(霞、潮、初霜、朝霜、竹)を率いて同日深夜にマニラ湾を出発、ブルネイに移動した[147][149][注 10]。
レイテ沖海戦と多号作戦で、夕雲型駆逐艦は大打撃を受けた。第2駆逐隊はレイテ沖海戦での早霜の喪失[151]とマニラ空襲での秋霜の喪失[20]により、夕雲型19番艦清霜(浦賀船渠建造艦、昭和19年5月15日竣工)[27]1隻となった。また第31駆逐隊僚艦の岸波もタンカーを護衛中の12月5日[152]、アメリカ潜水艦フラッシャーの雷撃で撃沈され[8]、第31駆逐隊司令福岡大佐は12月11日付で免職[153]。 第31駆逐隊は翌年1月10日に解隊された[154]。同駆逐隊に所属した夕雲型はこの時点で本艦以外全隻が沈没した。
11月15日、朝霜は第31駆逐隊から第2駆逐隊(駆逐隊司令白石長義大佐)[155]に編入され、同隊は清霜と朝霜の2隻編制になった[26][156]。朝霜はリンガ泊地に回航され、11月28日から12月5日までセレター軍港で修理を行った[157]。この頃、昭南には11月19日にアメリカ潜水艦ヘイクの雷撃で損傷した第三十一戦隊旗艦の軽巡洋艦五十鈴がおり、スラバヤで本格的な修理が行われる事となった[158]。朝霜が途中まで護衛を行う事となり、12月5日に昭南を出港[158]。12月8日にリンガ泊地に帰投した[159]。 12月9日以降、朝霜は第二水雷戦隊旗艦となった[160]。続いて航空戦艦2隻(日向〔第四航空戦隊旗艦〕、伊勢)、巡洋艦2隻(足柄、大淀)、駆逐艦2隻(朝霜、清霜)はカムラン湾に進出した[161][162]。カムラン湾移動後、二水戦旗艦は朝霜から軽巡大淀に変更された[163]。
12月24日、ミンドロ島に上陸したアメリカ軍に対する殴りこみ作戦(礼号作戦)が開始された[164]。挺身部隊(指揮官木村昌福第二水雷戦隊司令官)はこれに呼応して挺身部隊の巡洋艦2隻(足柄、大淀)、駆逐艦6隻(霞〔木村少将座乗、挺身部隊旗艦〕[162]、清霜、朝霜、榧、杉、樫)を率いてカムラン湾を出撃する[165][132]。 2日後の12月26日夕刻、挺身部隊はB-25の爆撃を受けた[166]。朝霜では機銃掃射により3名が戦死し、艦に大なり小なりの損傷を受けた[167]。また、第2駆逐隊の僚艦清霜は空襲で被弾、沈没した[168][169]。朝霜は清霜が行方不明になった事を木村少将に報告したが[170]、木村少将は作戦終了後に救助するので海図に沈没位置を記しておくよう命令した[171][172]。やがて砲撃を終えた挺身部隊は、霞と朝霜を清霜乗員の救助にあたらせるため残留させ[173]、初霜以下は先にカムラン湾に向かった[174]。霞と朝霜は機関を止めて航空機と魚雷艇に警戒しつつ救助活動を行い、木村少将自ら双眼鏡越しに海上に浮かぶ清霜乗員を数えた[175][176]。第2駆逐隊司令や清霜艦長をふくめ258名を救助した(朝霜は167名収容、ほかに米軍に5名救助)[177]。2時34分まで救助作業を行った後[178]、12月28日18時30分にカムラン湾に帰投した[179]。木村少将は二水戦旗艦を大淀に戻し、朝霜と霞に対して燃料補給をおこなった[180]。
1945年(昭和20年)1月3日、第二水雷戦隊司令官は木村昌福少将から古村啓蔵少将へ交代した[181](着任・退任1月4日)[182][183]。 1月10日、かつて朝霜が所属していた第31駆逐隊は解隊された(前述)[154]。第2駆逐隊からも、書類上在籍していた早霜と秋霜が除籍された[154]。前年末〜2月初めごろの朝霜は、セレター軍港での整備とリンガ泊地での訓練および待機に明け暮れた[184]。 米軍機動部隊が南シナ海に進入しヒ86船団やヒ87船団が大損害を受け、大本営は燃料や物資の緊急輸送作戦実施を下令する[185]。2月5日、第四航空戦隊(司令官松田千秋少将・海兵44期)に対してガソリン、ゴム、錫などの貴重物資を搭載して内地に回航するよう連合艦隊から命令が出された[186]。作戦名は「北号作戦」[187]、部隊名を「完部隊」とした[188][189]。
完部隊各艦は2月7日から9日にかけて貴重物資を搭載し、2月10日16時に昭南を出港した[190][191]。第四航空戦隊(日向、伊勢、大淀)、第二水雷戦隊(霞〔二水戦旗艦〕、朝霜、初霜)から成る「完部隊」は、潜水艦と航空機の脅威を次々と交わしつつ北上していった[192][193]。中国大陸沿岸、舟山群島を航行。2月15日夜、馬祖島で仮泊、大型艦から駆逐艦への燃料補給を実施[194](日向→霞、伊勢→初霜、大淀→朝霜)[195]。黄海南方、対馬北方を経て2月19日夕刻に六連に到着[194]。2月20日、完部隊は呉に帰投した[196]。
1945年(昭和20年)2月10日をもって第2駆逐隊は解隊され、朝霜は第二水雷戦隊所属の第21駆逐隊(駆逐隊司令石井汞大佐)[198]に編入されていた[30]。 2月20日付で第二水雷戦隊各艦で人事異動が行われ[199]、朝霜航海長芦田収大尉は海軍兵学校へ転勤、後任の航海長として戦艦榛名より出口勝巳中尉が着任する[199]。また朝霜機関長原田周三機関大尉は秋月型駆逐艦3番艦涼月機関長へ転任[200][199]。戦艦長門より佐多盛雄機関大尉が朝霜機関長に任命された[199]。 2月23日、第二水雷戦隊旗艦は霞から軽巡洋艦矢矧に変更される[201]。朝霜以下第二水雷戦隊各艦は整備と訓練に従事した。3月19日の呉軍港空襲で対空戦闘を実施、大和や二水戦各艦の被害は軽微であった[202]。 なお、3月18日付で石井大佐は第21駆逐隊司令の職務を解かれ[203]、後任の司令には3月25日付で小滝久雄大佐[注 11]が任命された[204]。 3月27日、朝霜は第21駆逐隊の司令駆逐艦となった[205]。
3月28日、第一遊撃部隊指揮官伊藤整一第二艦隊司令長官は第一遊撃部隊(大和、矢矧、駆逐艦12隻)の佐世保回航を各方面に連絡した[206]。だが、アメリカ軍の機動部隊が九州地方を襲撃したため第一遊撃部隊の豊後水道通過佐世保回航は中止された[207]。 3月29日、周防灘に移動した[208]。 この日、同じく周防灘へ移動中だった駆逐艦響(第7駆逐隊所属)が触雷して損傷したため、朝霜は響の警戒艦を命じられる[209]。響を曳航して一旦呉に向かったが[210]、響の動力が回復して自力航行が可能になったため朝霜は周防灘に引き返した[211]。触雷した響を曳航・護衛したのは初霜だったという響乗組員[212]および初霜乗組員[213]の証言も残る[214]。
出撃前の作戦会議で、杉原(朝霜艦長)は「生死は問題ではないが戦果の期待できない自殺作戦には反対である。駆逐艦1隻といえども貴重な存在であり、国家は誰が護るのか、国民は誰が保護するのか、無為で死んではたまらない」と反論したという[215]。 4月6日15時30分、第21駆逐隊(朝霜、初霜、霞)は沖縄水上特攻作戦(天一号作戦)に第一航空戦隊(戦艦大和、第二艦隊旗艦)、第二水雷戦隊旗艦矢矧(司令官古村啓蔵少将)、第17駆逐隊(磯風、雪風、浜風)、第41駆逐隊(冬月、涼月)とともに徳山を出撃した[216][217]。しかし、翌4月7日早朝、遊撃部隊が巡航速力22ノットで航行中[4]、朝霜は機関故障を起こして速力12ノットしか出なくなり落伍した[32]。 朝霜側は呉工廠における減速機の修理が原因と判断していた[32]。だが、第二水雷戦隊司令部は機関故障の原因をクラッチ故障にあったと推定している[218][219]。
朝霜の落伍は、大和[220]を含め遊撃部隊各艦から目撃された[221][222]。3月まで朝霜機関長だった原田隊(涼月機関長)は、涼月より朝霜の後落を目撃している[223]。 朝霜では応急修理(予定五時間)を実施したが復旧せず[224]、正午過ぎに『我敵機ト交戦中』『90度方向に敵機30数機を探知す』との無電を発した後、連絡が途絶えた[225]。単艦戦闘であった上、生存者がいない為に各艦が砲煙らしきものを確認しただけで、その最期は明らかではない[220][226]。涼月砲術長によれば、大和以下本隊から約30km離れていた朝霜は水平線上にマストだけが見えていた[227]。アメリカ軍機の大編隊は第二艦隊を完全に包囲、旋回しながら攻撃タイミングをうかがっていたが、やがて一群が朝霜に急降下爆撃を行い、戦闘は数分で終わったという[227]。
アメリカ側の記録では、空母バンカー・ヒルのSB2C ヘルダイバー10機が大和の攻撃に向かう途中、「北の駆逐艦(朝霜)をやれ!」との命令を受けて奄美大島近海を北上して朝霜を発見した[228]。朝霜は左方向に逃げ続けたものの至近弾数発を受け、さらに爆弾3発(煙突の間、二番煙突後方、艦尾部)が命中した[33]。艦後部(3番主砲付近)に爆発が起きたあと後部に傾斜[229]。だが、アメリカ軍機は雲によりそれ以上の観測を妨げられた[229]。また空母ホーネットII艦上爆撃機により、艦尾より沈没していったとの記録も残る[230]。朝霜は消息不明となり、駆逐隊司令小滝大佐以下乗員326名全員が戦死認定された[3][231]。
御蔵型海防艦屋代乗組員の回想では、哨戒任務中の屋代は漂流する朝霜を発見して曳航を申し出た[232]。朝霜は「機関の故障復旧次第沖縄へ突入する」「貴艦のご好意を感謝す、航海の安全を祈る」と断わり、屋代側は健闘を祈って別れたという[233]。 初霜艦長の酒匂少佐は、朝霜が落伍・沈没した時に連合艦隊(司令長官豊田副武大将、参謀長草鹿龍之介中将、参謀神重徳大佐ほか)が漁船の手配など朝霜生存者を救助する努力をしなかったことに「突っ込めという命令は出すけれど、自分たちがやらなければならないことは何一つやっとらん。何という幕僚どもだということですよ、私は。」「武将としての務めを怠っていると言われてもしようがないと思いますがねえ。」と回想している[234]。
一連の戦闘で大和及び第二水雷戦隊5隻(矢矧、朝霜、磯風、浜風、霞)が沈没、4月20日に第二水雷戦隊は解隊された[235]。第21駆逐隊で唯一生還した初霜も同日付で第17駆逐隊に編入された[236]。 5月10日、第21駆逐隊は解隊された[237]。 同日、朝霜は夕雲型駆逐艦[238]、帝国駆逐艦籍より除籍された[239]。また、朝霜の沈没により夕雲型駆逐艦19隻は全艦喪失、また霞の沈没により朝潮型駆逐艦10隻も全艦喪失、19隻建造された陽炎型駆逐艦も雪風1隻を残すのみとなった。7月30日、初霜は触雷して擱座沈没し[240]、第21駆逐隊に所属した駆逐艦6隻(初春、子日、若葉、初霜、時雨、霞、朝霜)も全隻喪失した。
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