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大日本帝国海軍の一等駆逐艦 ウィキペディアから
秋月型駆逐艦(あきづきがたくちくかん)は、大日本帝国海軍の一等駆逐艦[2]の艦級である。計画時の名称から乙型駆逐艦、各艦名から月型とも呼ばれる[17][注釈 1]。日本海軍が建造した最初で最後の防空駆逐艦の艦級である。同型艦は12隻が竣工している。
秋月型駆逐艦 | |
---|---|
公試運転中の秋月(1942年5月17日)[1] | |
基本情報 | |
種別 | 一等駆逐艦[2] |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
同型艦 | 12隻 |
建造数 | 13隻 |
前級 | 夕雲型駆逐艦 |
次級 | 島風型駆逐艦 |
要目 (計画) | |
基準排水量 | 2,700英トン[3]、または2,701英トン[4] |
公試排水量 | 3,470トン[4]または3,485トン[5] |
満載排水量 | 3,888トン[4] または3,899.2トン[5] |
全長 | 134.20m[4] |
水線長 | 132.00m[4] |
垂線間長 | 126.00m[4] |
最大幅 | 11.60m[4] |
水線幅 | 11.60m[4] |
深さ | 7.05m[4] |
吃水 |
公試平均 4.15m[4] 満載平均 4.51m[4] |
ボイラー | ロ号艦本式缶(空気余熱器付[6]) 3基[7] |
主機 | 艦本式タービン(高中低圧[6])2基[7] |
推進器 |
2軸 x 340rpm[7] 直径3.650m、ピッチ3.720m[8] |
出力 | 52,000shp[4] |
速力 | 33.0ノット[4] |
航続距離 | 8,000カイリ / 18ノット[4] |
燃料 | 重油 1,080トン[4] |
乗員 |
計画乗員 263名[9] 秋月竣工時定員 273名[10] 乗員 315名[要出典] |
兵装 |
65口径10cm連装高角砲 4基[11] 25mm機銃 連装2基[11] 61cm九二式4連装四型発射管 1基[12] 九三式魚雷8本[13] 九四式爆雷投射器2基、爆雷装填台2基[12] 爆雷投下台(水圧三型)2基、同(手動一型)4基[12] 九五式爆雷 54個[12] 秋月1944年10月[14] 65口径10cm連装高角砲 4基 25mm機銃 3連装5基、単装13基(推定)、単装取付座7基 13mm機銃 単装4基 61cm4連装魚雷発射管 1基 (九三式魚雷8本) 九四式爆雷投射器2基 爆雷投下軌条2基 九五式爆雷54個 |
搭載艇 | 9m内火艇2隻、9mカッター2隻、6m通船1隻(港保管)[15] |
ソナー |
九三式水中聴音機1組(後日装備)[16] 九三式三型探信儀(1943年3月)[16] |
特殊装備 | 小掃海具一型改一 2組[12] |
なお、仮称艦名第361号艦以降を「冬月(ふゆつき)型[19]」、仮称艦名第365号艦以降を「満月(みちつき)型[20]」として区別するものもあるが、日本海軍の正式な類別(艦艇類別等級)では「冬月型」および「満月型」も『秋月型駆逐艦』である[注釈 2][22]。本稿では便宜上の分類も一括記載する。
第一次世界大戦以降、航空機の脅威の認識に差はありつつも航空機対策として各国では軍艦に対空機銃や高角砲を装備するようになった[23]。その中でイギリス海軍が1935年(昭和10年)から旧式化していたC級軽巡洋艦の中から2隻を改装、備砲・発射管を全て撤去して10cm高角砲単装10基を搭載する防空艦として就役させた[23]。更に1936年(昭和11年)からダイドー級軽巡洋艦の計画を始め、その後実際に建造を実行に移した[23]。 これに影響を受けたアメリカ海軍もまた防空専門艦の建造計画を推進し、結果アトランタ級軽巡洋艦を建造した[24]。
日本海軍でも旧式化していた天龍型軽巡洋艦[25]や5,500t級軽巡洋艦を改装し防空巡洋艦とする案も出され、昭和天皇にも奏上した[25]。 実際、候補になった艦の船体のサイズはC級軽巡と類似しており、また、川内型軽巡洋艦と長良型軽巡洋艦を除く軽巡は老朽化のため退役が予定されていたため理論上可能であった。だが、当時の日本海軍は水雷戦隊の編成を優先しており、退役予定の艦も必要ならその任務に動員する予定だったためこの改装案は見送られた。他にも、多額の予算をつぎ込んで候補の船を改装しても能力不足となってすぐに第一線での任務をこなせなくなっては意味がないと考えられた。また、イギリス海軍の様に第一線での任務をこなせなくなった艦を船団護衛等の輸送船護衛任務に投入することを考慮していなかったため、それを実行しても費用対効果が低いと判断された。他にも新たに防空巡洋艦を建造するという計画が立てられたが、建造コストの高さから防空巡洋艦の建造計画は中止された。[要出典]
日本海軍で防空艦の計画が実現したのは昭和14年度(1939年)の海軍軍備充実計画(通称④計画[注釈 3])での乙型駆逐艦(本型)6隻からになり[23]、1940年(昭和15年)に1番艦が起工した[26]。 日本海軍では乙型駆逐艦(本型)を量産し、大和型戦艦・改大和型戦艦・航空戦隊の護衛に配備する予定だった[27]。
本型の計画は1938年(昭和13年)頃の軍令部要求から始まる[23]。当初の要求は、
その他に煙幕展張装置、飛行機救難デリックを装備などだった[23]。これは当時トンボ釣りと言われた空母直衛駆逐艦の代用として計画されたもので、魚雷の搭載は考慮されておらず艦種も「直衛艦」となっていた[23]。しかし航続距離の要求を満たした場合、重油搭載量は1,200トン、排水量は4,000トンを突破することになり、1939年(昭和14年)4月にまとまった計画では速力33ノット、航続距離は18ノットで8,000カイリと縮小されることになる[23]。この時点では4連装魚雷発射管1基、魚雷8本の装備が含まれており、艦種は「駆逐艦」に変更されて建造されることとなった[28]。
上記のように④計画で6隻され[23]、更に昭和16年度(1941年)の戦時建造計画(そのうちのマル急計画内)で10隻の建造が計画された[29]。昭和17年度の軍備充実計画(⑤計画)で16隻が計画されたが、昭和17年度の戦時艦船建造補充計画(改⑤計画)へ改訂の際23隻に増加し、合計39隻の建造が計画された[29]。 このうち⑤計画の16隻、改⑤計画の最後の7隻は速力を増したいわゆる改秋月型駆逐艦だった[29]。
いわゆる船首楼型船体で前部に主砲2基を搭載するために船首楼の長さが全長のおよそ1/3になっている[31]。また重心対策として前部主砲の位置がなるべく低くなるように上甲板も船首楼下では前下がりの傾斜が付けられ、低船首楼型に近い船型になっている[32][33]。日本海軍の駆逐艦は艦首形状にいわゆるダブル・カーブド・バウを採用していたが、本型の艦首は直線に近い形状になった[31]。フレームスペースは場所によって5mm単位になっており、精密な設計がうかがえる[34]。
なお舷外電路は秋月の竣工時から装備されていた[31]。
日本海軍として初めての防空艦であり、艦橋は1940年(昭和15年)春、舞鶴海軍工廠に実物大模型を作り検討が重ねられた[35]。艦橋構造は陽炎型と同じ3層構造ながら、前部主砲に視界を遮られないように高さが2m増している[35]。従来の日本海軍駆逐艦は操舵室が羅針艦橋の下に設けられていたが、本型では同様の理由で羅針艦橋に舵輪が設けられた[35]。羅針艦橋上部には露天の防空指揮所が設けられ、全周にブルワークがあり、前方には遮風装置が設置されている[35]。艦長は対空戦闘の指揮をここで執る[35]。トップには九四式高射装置が装備され、艦橋構造とは独立して3本の円柱で支えられ[36]、艦橋後方には支柱2本が外部に露出している[37]。
電探装備(後述)の際に信号所下のセルター甲板を後方に拡大し、電探室を設けた[37](「高角砲と防空艦」p.138の艦橋内の側面略図によると暗号室を後方に拡張し、電探室と兼用としている[38])。この時信号所甲板の床も拡張された[37]。羅針艦橋後方側面にあるブルワークは二式哨信儀が装備されて高さが低められた[37]。初月では哨信儀の位置のみ、以降の艦ではブルワーク全体の高さが低められている[37]。
また冬月以降は艦橋基部を後方に拡大して内部容積を増やし、電探室を艦橋内に設け、信号所下の張り出しは無くなった[37]。春月は旗艦設備を艦橋内に設けたため、拡大した艦橋から更に甲板室や野菜室が信号所下に張り出した[37]。
従来海軍が採用していた八九式40口径12.7センチ高角砲に替わり、九八式65口径10センチ高角砲を装備している[39]。この砲は口径サイズこそ以前のものより小さいが口径長は長く、より長射程、高初速の砲となった。通説では、砲身そのものの寿命(砲身命数)は短く、12.7センチ砲が約1,000発なのに対し、10センチ砲は350発と三分の一程度となっており[39]、寿命の短さの対策として砲身を艦の設備でも交換できる用にしたと言われているが、それを実現すると構造が複雑化するため、実際はその設計が行われなかったとも言われる。仮にできたとしても予備砲身を積んだ記録が確認できないため、少なくともそういった運用は考慮されていなかったと思われる。
砲の性能は高く、カタログスペックで最大射程19,500メートル、最大射高14,700メートル、発射速度毎分19発[注釈 4]というものであり[39]、八九式12.7センチ砲に比べ、いずれも1.4倍以上の能力向上を誇った。だが、揚弾薬装置も長時間の使用で故障を生ずる可能性があり、その場合は人力で運ばねばならなかった[40]。 砲側照準による目標の捕捉も可能であるが、実戦では難しいのが実情だった[41]。また連続発射後のガスで、砲手が気絶した事もあった[42]。
本型では砲塔形式のA型連装砲を搭載[39]、船首楼甲板に背負い式に2基、後部甲板に背負い式に2基の計4基8門が搭載された[43]。最大仰角90度、俯角10度[39]、俯仰旋回は20kW電動機で行われた[31]。
制式採用された中では最新の九四式高射装置が備え付けられていたが、米軍の射撃指揮装置・MK(マーク)37射撃指揮装置(GFCS)がレーダー測距を可能としていたのに比し、射撃用レーダーを持たず、対空目標との距離測定及びその照準追尾は光学による人力であり、高角砲のコントロールも人手に拠ったため射撃の精度は乗組員の錬度に頼る点が大きかった。当初の計画では九四式高射装置は前部と後部の2箇所に計2基装備するとなっていたが、実際には艦橋上の前部にのみ装備されて1基で全砲塔の射撃を指揮することとなり、後部に装備した艦は無かった[44][45]。後部高射装置部分には外筒のみ装着されていたが中身はなく、測距儀の出っ張りも無かった。この部分は後の機銃増備時に機銃台に転用された。マリアナ沖海戦における第61駆逐隊(初月、若月、秋月)の戦闘詳報では、後部高射装置の増設を強く訴えている[46]。
煙突の直後、魚雷発射管の直前に左右に渡る機銃台が設置され、25mm連装機銃2基が装備された[31]。射撃指揮装置はなく直接照準であり、操作も人力によった[31]。
1943年(昭和18年)の初めに煙突の缶用吸気口に乗せる形で左右に機銃台を設け、3連装機銃を各1基ずつ増備した[31]。同年には連装機銃は3連装機銃に交換した[31]。この時に機銃台も3連装用に拡張されたものと思われる[47]。同年末に後部高射装置設置予定の支筒の上に機銃台を設け、3連装機銃1基を増載した[31]。
冬月以降の艦は竣工時から魚雷発射管直後に両舷に渡る機銃台を設け、3連装機銃を2基設置した[48]。秋月などに装備された煙突両舷の機銃台は無く、中部機銃台と合わせて3連装4基の計画になる[47][49]。冬月の竣工時(1944年(昭和19年)5月)には秋月などと同様に後部高射装置支筒上の機銃台に3連装1基も搭載し、計3連装5基を搭載した[47]。1944年6月のあ号作戦までに秋月型各艦は3連装機銃5基を装備したことになる[50]。各艦によって違いがあるが、あ号作戦以降は単装機銃を各所に増備した[50]。
1945年(昭和20年)2月には「春月」を除く各艦は艦橋の左右に機銃台を設けて3連装機銃各1基を設置、計3連装7基となった[31]。「春月」は旗艦設備を艦橋内に設けたためにこの増備は実施しなかった[31]。
上述の通り、当初は魚雷を搭載しない計画だったが、途中で搭載することに計画が改められた[51]。兵装は陽炎型(艦隊型駆逐艦)の半分で、魚雷発射管は陽炎型と同じ次発装填装置付きの九二式4連装発射管4型1基、酸素魚雷8本(陽炎型は発射管2基、魚雷16本)を搭載した[51]。
冬月以降は当初予備魚雷を搭載せずに魚雷は発射管内の4本のみの計画だった[51]。しかし1944年2月に予備魚雷の搭載が復活し、竣工時には秋月と同様の予備魚雷格納筺が設置され、魚雷8本の搭載が可能になっている[51]。
九四式爆雷投射機2基、爆雷投下台6基を装備し、九五式爆雷54個を搭載した[52]。朝潮型から夕雲型の艦隊型駆逐艦では爆雷投射機1基、爆雷18個または36個(大掃海具を装備しない場合)で、本型では空母の直衛を任務にしたことからより強力な対潜兵装となっている[52]。
1944年3月竣工の霜月以降は投下台から爆雷投下軌道2条に変更された[52]。以前の艦も同時期に投下軌道に変更されたものと思われる[52]。 軌道の長さは爆雷6個分で右舷のものはそれより長く、運搬を兼ねて前方に延長されたと思われる[47](「あ号作戦後の兵装増備状況調査」掲載の略図によると、「若月」「霜月」は左舷側が延長されている[50])。
電探の装備は計画になく[16]、秋月の竣工時にも電探は装備されていない[1]。照月は電探装備の機会が無く沈没している[53]。
初月(1942年12月29日竣工)から冬月は竣工時から21号電探を装備しており[54]、これに伴い前部マストの形状が変更されている[55]。初月と同日竣工の涼月も同様の可能性がある[56]。秋月では1943年8月26日付訓令により、1943年11月はじめまでに前部マスト上に21号電探を1基追加装備した[57]。21号電探は大型の対空電探であり、戦艦・航空母艦や巡洋艦などの大型艦に装備されたが、駆逐艦で装備したのは秋月型のみである[58]。
秋月では1944年7月上旬、後部マスト上に13号電探を1基追加装備した[59]。「あ号作戦後の兵装増備の状況調査」にて、他の秋月型各艦でも同様に増備されていたことが確認できる[50]。13号電探は小型・軽量な対空電探だったため、他の駆逐艦にも装備された。
1944年10月のレイテ沖海戦の前後に前部マストから21号電探を撤去し、そこに13号電探1基と22号電探1基を増備した艦があった。13号電探は前後あわせて2基となる。涼月・冬月では時期が不明だが写真でこの増備されたことが確認でき、霜月は戦闘詳報で両方とも装備している事がわかる。春月以降の艦は新造時よりこの形態をとった[60]。秋月はこの増備を行う前に戦没した[61]。22号電探は小型・軽量な対水上電探で他の駆逐艦にも装備された。
他の日本海軍の艦艇全般に共通することだが、電探を装備していても主砲・機銃を電探に連動させる照準装置が開発されていなかったことは秋月型でも同じだったため、射撃における電探の効力は限定されたものとなった[62]。それでも機数・編隊・方向・距離がわかるため、対空戦闘には不可欠の装備となっていた[63]。
缶(ボイラー)は陽炎型と同じロ号艦本式ボイラー3基、蒸気圧力350kg/平方cm、蒸気温度350℃も同一である[6]。前部缶室にボイラー2基、後部缶室に同1基を搭載した(陽炎型は1缶1室)[64]。主機は生産性を考慮して基本的に陽炎型と同じ艦本式タービンであるが、減速ギアは新設計になり、回転数は陽炎型の380rpmから340rpmに落とされた[65][注釈 5]。
初春型以降、陽炎型までの駆逐艦の機械室は、前部機械室に左右のタービン2基を置き、後部機械室には発電機などの補機を置いていた[64]。一方秋月型では前部機械室に左舷タービン、後部機械室に右舷タービンを置いた[64]。それまでの配置だと、前部機械室が被弾などで浸水すると航行不能になるのに対し、後年建造される松型駆逐艦が採用するシフトエンジン方式ほどではないが、片方の機械室の浸水だけでは航行可能で、残存性が高まることになる[65]。
前部機械室の右舷側と後部機械室の左舷側は重油タンクに当てられた(陽炎型までは機械室舷側に重油タンクは無い)[64]。レイテ沖海戦で小沢機動部隊に所属していた霜月は至近弾による浸水を左舷機械室外側の重油タンクが喰いとめた例を紹介し、重油タンクのない右舷側後部で至近弾があった場合、後部機械室が一気に浸水する危険性を指摘している[66]。
また、軽巡夕張以降、日本海軍巡洋艦で採用されている「誘導煙突」を駆逐艦として初めて(そして唯一)採用した[65]。
艦の大きさやシルエットが夕張と似ているため、ラバウル方面に配備された照月、新月を目撃したアメリカ軍は「日本軍は夕張を量産している」と誤報を出したという。[要出典][注釈 6]
前部マストは下部は煙突をまたぐ4脚で、信号所甲板の高さから3脚になる[56]。艦橋トップに備えた高射装置の射界を広くとるために支柱の間隔は狭められ、位置も艦橋から離され[36]、軽く後方に傾斜している[56]。電探装備の際にマスト上部にフラットを設け、電探の後方にマストが延びるよう設計が変更された[56]。同時にマスト下部も補強がされている[56]。
日本海軍の艦艇類別等級表においては命名された全13隻が『秋月型駆逐艦』である[21][22]。 しかし秋月型駆逐艦は就役が戦時中だったため、後になればなるほど工期の短縮を図るために艤装の簡略化が進み、「同型艦」でありながら初期と後期の艦では外見上相違する部分がある[67]。各艦が属するサブタイプの呼称は文献によって見解や表記が異なる場合が多いため、以下にそれを列挙する。
秋月型[68]、秋月型原型。
「高角砲と防空艦」では「霜月」までを秋月型、後述する冬月型・満月型を合わせた総称として秋月級と仮に呼ぶとしている[68]。
冬月型 | |
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公試から帰港した「冬月」(1944年5月下旬)[71] | |
基本情報 | |
要目 (F53計画) | |
基準排水量 | 2,750英トン[72] |
公試排水量 | 3,458トン[73][注釈 7] |
満載排水量 | 3,899トン[72] |
全長 | 134.20m[72] |
水線長 | 132.00m[72] |
垂線間長 | 126.00m[72] |
最大幅 | 16.00m[72] |
水線幅 | 16.00m[72] |
深さ | 7.05m[72] |
吃水 |
公試平均 4.15m[72] 満載平均 4.50m[72] |
ボイラー | ロ号艦本式ボイラー3基[74] |
主機 | 艦本式タービン2基[74] |
推進器 |
2軸 x 340rpm[74] 推進器直径3.650m[74] |
出力 | 52,000shp[72] |
速力 | 33ノット[72] |
航続距離 | 8,000カイリ / 18ノット[72] |
燃料 | 1,066トン>[72] |
乗員 | 計画乗員 272名[75] |
兵装 |
65口径10cm連装高角砲 4基8門[49] 25mm機銃 3連装4基[49] (冬月竣工時:25mm3連装機銃 5基[47]) 61cm九二式4連装4型発射管 1基4門[13] 九三式魚雷4本[13]、竣工時8本 九四式爆雷投射器2基、爆雷装填台2基[13] 爆雷投下台(水圧三型)2基、同(手動一型)4基[13] 九五式改一爆雷 72個[13] |
搭載艇 | 8m内火艇2隻、8mカッター2隻[76] |
レーダー | 21号電探1基[77] |
ソナー |
九三式水中聴音機1組(後日装備)[77] 九三式探信儀[77] |
冬月以降は計画番号F53[72](秋月はF51[4])となる。秋月の計画との相違点は以下のようなものがある。
同じ冬月型でも後期艦では1番ボイラー用吸気口や後部甲板室側面が曲面から平面を使用した形状に変更された[87]。
1944年5月5日に決裁されたマル19線表改定では、次期着工艦から大幅な工事簡易化がされることになった[78]。船体は直線を多用した形になり、特殊鋼の使用が中止され[89]、これにより排水量が若干増し、速度が低下することとなった[88]。工期については、起工から竣工まで12カ月から13カ月かかっていた所を、平均8カ月から9カ月に短縮できる予定だった[88]。
外観上は船体水上部や艦首の曲線を大幅に削除し、艦尾形状も外板の傾斜を廃止[55]。四式水中聴音機を艦底に搭載し、それにより艦底は膨らんだ形となる予定だった[55]。損傷復旧後の「涼月」の艦橋と艦首はこの型に準拠した形状と推定される[80]。
「満月」(第365号艦)と「花月」(第366号艦)を冬月型とするか、満月型とするかで諸説ある。
秋月型から機関出力を「島風」と同じ75,000馬力にして速力36.7ノットを計画した[92]。
④計画の6隻は舞鶴海軍工廠と三菱長崎造船所で3隻ずつ建造され、1942年(昭和17年)6月に1番艦秋月が竣工した[26]。マル急計画では佐世保海軍工廠が加わり、浦賀船渠でも1隻建造された[26]。
日本海軍の現場からは、艦名からまとめて月型(月クラス)と呼ばれることもあった[18][17]。これについて「待合茶屋の名前ばかりつけて」という冗談があった[17]。
戦時補充計画(マル急計画)での建造中止艦(仮称艦名 - 予定艦名 - 備考)[26]
改⑤計画での建造計画艦(仮称艦名 - 予定艦名 - 備考)[90][114]。
秋月型は戦時中に建造されたため、戦没と新造艦の編入が錯綜し、フル編成が完結する機会は少ない。新月は駆逐隊編入の機会がないまま第八艦隊に単艦で編入されて戦没している。秋月型最終ロットが竣工する頃には、すでに艦隊行動が不可能になっており、駆逐隊も解隊されるものが続出した。このため、春月は当初より護衛戦隊の第百三戦隊旗艦、花月は第三十一戦隊旗艦となっており、新月と合わせ3隻が駆逐隊に属していない。結果的に第六十一駆逐隊・第四十一駆逐隊の2個駆逐隊が編成された。機動部隊である第三艦隊第十戦隊での活動がほとんどを占め、戦争末期には第二艦隊の第二水雷戦隊に所属し、主力駆逐艦らしい戦歴を重ねている。
佐世保鎮守府に所属した秋月・照月で編成した最初の秋月型主体の駆逐隊。第十戦隊に属して機動部隊の直衛を担うはずであったが、編成時の秋月は第四水雷戦隊旗艦としてガダルカナル島の戦いに参加、照月は南太平洋海戦以降機動部隊と分離して第三次ソロモン海戦等の水上戦闘に参加した。涼月・初月の編入を待たず照月が戦没したほか、秋月や涼月が長期間の修理を要する被害を受けており、4隻体制を維持すること自体が困難だった。若月の戦没により、残るは本土で修理を完了した涼月のみとなったために解散した。
マリアナ沖海戦に備えて単艦で第十戦隊に編入されていた霜月に第十一水雷戦隊での練成を終えた冬月を加えて昭和19年7月15日に編成した。レイテ沖海戦前に冬月が大破したため、駆逐隊単位での行動はほとんどなく、六十一駆から転入した涼月と修理が完了した冬月が菊水作戦に参加したのが駆逐隊として唯一の作戦行動である。菊水作戦によって、両艦とも損傷を蒙ったため、稼動できるのは追加された宵月と夏月だったが、燃料の払底のために活動することはなかった。終戦の日に陽炎型駆逐艦の雪風を編入している。戦後の武装解除時に解隊した。
これは古賀彌(本艦初代艦長)が戦後記述した文章が基となっている。しかし艦艇研究家の田村俊雄も調査の中で、
以上により、艦橋上の1基しかなく同時に2機の目標に照準を合わせることは不可能だったとしている[138]。 また別の記録として宇垣纏連合艦隊参謀長の「戦藻録」では、9月29日に秋月がブカ島でB-17爆撃機2機と交戦、1機を撃墜し「防空駆逐艦の価値を始めて発揮せり」と記述している[139]。
このことについて田村は同じく調査の中で、
以上から「通説は日本のみで言われていることではないか」と推測している[140]。
「警報を発した」説は、福井静夫が雑誌「丸」昭和46年12月号に寄稿した記事にある。この記事において福井は「ソロモン海域に新鋭艦が出現したという警報は、ただちに全軍にたっせられたらしい。」と、あくまでも伝聞として記述している[141]。
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