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茨城県潮来市の町名 ウィキペディアから
茨城県潮来市の東部に位置する。北で大洲、北東で延方、東で福島、南から西にかけて潮来、北西で辻と隣接する。かつての内浪逆浦(うちなさかうら)を干拓した[3]のちに区画整理事業により成立した。鹿島臨海工業地帯に県道水戸神栖線でつながり、東関東自動車道の潮来ICに近い。
かつて日の出は内浪逆浦と呼ばれる、外浪逆浦とつながる比較的浅い湖の一部であった[3]。
利根川と霞ヶ浦の合流する位置にあたるこの一帯は、土砂の堆積によって砂州が形成され、十六島などと同様に近世初期より新田開発が行われてきた。内浪逆浦の周辺は、大洲、徳島、二重谷の新田が形成された。二重谷(現在の十番、十四番)は幕府領であったが潮来村に開発と耕作の権利が与えられた土地であった。宝暦2年(1752年)には、「二重谷村掟」として、村民の共有地として耕作権を平等に分け与える趣旨の定めが決められている。
明治時代に入っても、一帯の低湿地は水害に悩まされ続け、収穫できる年は3年に1度とも言われた。
1891年(明治24年)に2代目潮来町長になった窪谷作太郎は築堤工事を計画したが、茨城県は認可を不承認とした。しかし、窪谷は町会の議決、地元農民の協力を得て前川・北利根川・浪逆浦・鰐川に堤防を築堤していった。その中で、浪逆浦の内と外の境界の狭くなっている部分を横断する堤防を築かないことには、洪水時の逆流を阻止できなかった。茨城県はここに堤防を築くことは他地域への影響が大きいとして計画を却下していたが、窪谷町長を始めとした農民によって築堤工事が強行され、阻止しようとする官憲と闘いながら工事が行われた。明治26年(1893年)に堤防が築かれ、この結果、浪逆浦は内浪逆浦と外浪逆浦に分けられた。この堤防は明治32年に県堤防に編入されている。
内浪逆浦は、コイ、フナ、ウナギなどの魚類が採れ、藻や泥土は肥料に使われるなど、豊富な天然資源をもたらしていた。
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