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江戸初期の武士、浪人 ウィキペディアから
平井 権八(ひらい ごんぱち、1655年(明暦元年)頃 - 1679年12月5日(延宝7年11月3日))は、江戸時代前期に実在した日本の武士のシリアルキラーである[1][2][3][4][5][6]。講談・浄瑠璃・歌舞伎・映画等の世界では、白井 権八(しらい ごんぱち)として知られる[1][2][3][4][5][6]。
明暦元年(グレゴリオ暦1655年)に生まれた、とされる[1]。「享年25」からの推測である[1]。父は平井正右衛門。
因幡国鳥取藩士であったが、数え18歳の1672年(寛文12年)秋、父・正右衛門の同僚である本庄助太夫(須藤助太夫とも)を斬殺して、江戸へ逃亡(退去とも)した[1][2][3][4][5][6][7]。新吉原の三浦屋の遊女・小紫と昵懇となる[1][4][5][6]。やがて困窮し、辻斬り(強盗殺人)を犯し、130人もの人を殺し、金品を奪ったとされる[1][2][3][4][5][6]。権八は、目黒不動瀧泉寺付近にあったとされる普化宗東昌寺(現在廃寺)に匿われ、尺八を修め虚無僧になり、虚無僧姿で郷里・鳥取を訪れたが、すでに父母が死去していたことから、自首したとされる[7]。
1679年12月5日(延宝7年11月3日)、品川・鈴ヶ森刑場で刑死した[1]。享年25(満23-24歳没)[1]。小紫は刑死の報を受け、東昌寺の墓前で自害したとされる[7]。同寺に「比翼塚」がつくられたが、同寺が廃寺となったため移転し、目黒不動瀧泉寺(東京都目黒区下目黒)の門前に現存している(北緯35度37分38.9秒 東経139度42分30.3秒)。
幡随院長兵衛(1622年 - 1657年)とのエピソードが多く語られるが、実在の長兵衛は1657年に殺害されており、時代にずれがある[1][4][5][6]。『浮世柄比翼稲妻』(四代目鶴屋南北、1823年)における二人の鈴ヶ森での出会い(御存鈴ヶ森)で、長兵衛に「お若えの、お待ちなせえやし」と問われ、「待てとお止めなされしは、拙者がことでござるかな」と応える台詞が有名である[1][4]。長兵衛との説話では、権八はこの後、長兵衛の食客となったとされ、「権八」といえば「居候」を意味するほどに普及したエピソードである[4]。
「白井権八」と「小紫」を描いた歌舞伎狂言や浄瑠璃を「権八小紫物」と呼び、ほかにも、『江戸名所緑曾我』(1779年)、『驪山比翼塚』(吉田鬼眼・桂川甫粲、同年)等がある[7]。
吹上宿には、権八の辻斬りに由来した「荊原権八延命地蔵」がある。
1852年6月-7月(嘉永5年5月)、三代目歌川豊国(歌川国貞)が『東海道五十三次の内 川崎駅 白井権八』に描いた権八は、『浮世柄比翼稲妻』のうちの『鈴ヶ森』の場であるが、六郷の渡しをバックに描かれている。
歌舞伎で「白井権八」を演じたおもな俳優の一覧である。生誕順。
日本映画データベース、キネマ旬報映画データベース等にみられる「平井権八」(白井権八)の登場する劇映画一覧である。末尾の俳優が権八を演じた。
ほかにも下記のものがある。
楽曲で「白井権八」をとりあげたものとして以下のものがある。
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