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東京都の運河 ウィキペディアから
小名木川(おなぎがわ)は、東京都江東区の北部を東西に横断し、隅田川と旧中川を結ぶ運河[1](人工河川、水路)である。江戸時代初期に徳川家康の命令で建設されたものであり、全長約5km[1]。
江東区を横断するように東西一直線に伸びた全長約5kmの運河であり、旧中川と隅田川を結び、途中で横十間川、大横川と交差する。
小松橋と新扇橋の間には扇橋閘門が設置されており、閘門より東側は地盤沈下が激しくゼロメートル地帯の顕著な地域のため水位を1m下げている。
1590年頃、江戸城を居城に定めた徳川家康は、兵糧としての塩の確保のため行徳塩田(現在の千葉県行徳)に目を付けた。しかし行徳から江戸湊(当時は日比谷入江付近)までの江戸湾(東京湾)北部は当時、砂州や浅瀬が広がり船がしばしば座礁するため、大きく沖合を迂回するしかなかった(また、沖合を迂回した場合でも、風向きによっては湾内の強い風波を受け船が沈むことも起き、安全とは言えなかった)。そこで小名木四郎兵衛に命じて、行徳までの運河を開削させたのが始まりである。運河の開削によって、安全に塩を運べるようになり、かつ経路が大幅に短縮された。
その後、塩以外の品物の運搬や、成田参詣客なども運ぶようになって、行き交う物量が増大した。1629年、小名木川は江戸物流の重要河川と認識され、利根川東遷事業と併せて拡幅され、小名木川と旧中川、新川の合流地点には「中川船番所」が置かれた(幕府の役人がそこに駐在し、行き交う船の積み荷に江戸の治安上危険な物などが紛れ込んでいないか確認するために簡易な検査をしたのである)。新川、江戸川、利根川を経由する航路が整備されると、近郊の農村で採れた野菜、東北地方の年貢米などが行き交う大航路となった。
開削とほぼ同時期に川の北側が深川八郎右衛門により開拓され深川村に、慶長年間に川の南側が埋め立てられ海辺新田となり、以降江戸時代を通じて埋め立てが進んだ。やがて小名木川を中心に竪川や大横川、横十間川、仙台堀川などの整備が進み、重要な運河の一つとして機能した[2]。
明治時代に入ると、小名木川沿岸一帯はその水運で様々な原材料を運ぶことができることもあり諸工業が盛んになり、工業地帯となった。1930年には荒川放水路が完成したが、これに伴い荒川や旧中川、新川の合流地点には「小名木川閘門」「小松川閘門」「船堀閘門」が設置されていた。
昭和50年代には地盤沈下などにより閉鎖されたが、2005年に「荒川ロックゲート」が完成し、旧中川を経由して荒川への通行が可能になった。
この川を開削した「小名木四郎兵衛」の名からとった。
旧中川寄りから記述する。
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