如月(きさらぎ)は日本海軍の駆逐艦[1]。睦月型駆逐艦の2番艦である[2]。艦名は旧暦2月のこと。本艦は初代神風型駆逐艦の「如月」に続いて2代目[3]。太平洋戦争緒戦のウェーク島攻略戦で撃沈され、睦月型最初の沈没艦となった。
1923年(大正12年)度計画艦。同年7月19日、舞鶴工作部で建造予定の駆逐艦に「第二十一駆逐艦」の艦名が与えられる[4]。一等駆逐艦に類別[5]。
1924年(大正13年)4月24日、艦名を「第二十一号駆逐艦」に改正[6][7]。
1925年(大正14年)6月5日に進水[8]。12月21日に竣工、佐世保鎮守府に所属した。「第二十一号駆逐艦」は1928年(昭和3年)8月1日附で「如月」と改名された[1]。
中国方面での行動
1932年(昭和7年)1月、第一次上海事変が勃発。日本海軍は野村吉三郎中将を司令長官とする第三艦隊(旗艦「出雲」)を編制する。第一艦隊所属だった第一水雷戦隊(旗艦「夕張」、第22駆逐隊《皐月、水無月、文月、長月》、第23駆逐隊《菊月、三日月、望月、夕月》、第30駆逐隊《睦月、如月、弥生、卯月》)は第三艦隊に臨時編入され、第一航空戦隊(空母加賀、鳳翔、第2駆逐隊《峯風、澤風、矢風、沖風》)、第三戦隊(那珂、阿武隈、由良)等と共に上海市で集結、同方面で作戦行動に従事した[9]。
1936年(昭和11年)12月の配置替えにより、第30駆逐隊(睦月、如月、弥生、卯月)は第一航空戦隊(司令官高須四郎少将:空母龍驤、鳳翔)に編入された。1937年(昭和12年)8月上旬の第二次上海事変により、第一航空戦隊と第二航空戦隊(加賀、第22駆逐隊《皐月、水無月、文月、長月》)は第三艦隊の指揮下に入ると(一航戦は8月6日、二航戦は8月10日編入)、東シナ海へ進出した[10]。8月16日以降、第30駆逐隊は空母「龍驤、鳳翔」を護衛して作戦に従事した。同年12月1日の戦時編制変更により、第一航空戦隊は空母「加賀」及び第19駆逐隊(磯波、敷波、浦波、綾波)となり、空母「龍驤」と駆逐艦「如月、弥生」が第二航空戦隊となる[11]。同航空戦隊は翌年1月の青島上陸作戦に従事、以後も南シナ海で行動した。
その後、第30駆逐隊は予備隊をへて第四艦隊に編入。さらに「卯月」は第23駆逐隊に転出[12]、代艦として「望月」が30駆に編入された。太平洋戦争までの第30駆逐隊(睦月、如月、弥生、望月)は主に南洋諸島で行動した。10月1日、第30駆逐隊司令駆逐艦は「如月」から「睦月」に変更された[13]。
太平洋戦争
第30駆逐隊は南洋部隊指揮官井上成美第四艦隊司令長官(旗艦「鹿島」)の麾下で、太平洋戦争開戦初頭のウェーク島攻略戦に参加した。
1941年(昭和16年)12月11日、「如月」はウェーク島近海で上陸作戦を実行中、ウェーク島から発進したF4Fグラマン・ワイルドキャット戦闘機の機銃掃射および爆撃により沈没した[14]。「如月」のほかに駆逐艦「疾風」も撃沈され、第一次ウェーク島攻略作戦は海岸砲台が上陸侵攻部隊を撃退した第二次世界大戦中唯一の事例となった。経過は以下の通り。
真珠湾攻撃と共にウェーク島の米軍基地はマーシャル諸島から発進した日本海軍の九六式陸上攻撃機(第24航空戦隊)の空襲により、損害を受けた[15]。しかし完全に戦力を喪失したわけではく、特にF4Fワイルドキャットは12機のうち4機が残存していた[16]。これに対し、日本軍はウェーク島の攻略は容易であると見ており、残戦闘機は1-2機、ピーコック岬砲台(A砲台)とウィルクス島砲台(L砲台)は壊滅したと判断している[17]。第一次攻略部隊のおもな戦力は、攻略部隊司令官梶岡定道第六水雷戦隊司令官、攻略部隊本隊/第六水雷戦隊(旗艦:軽巡洋艦「夕張」、第29駆逐隊第1小隊《追風、疾風》、第30駆逐隊《睦月、如月、弥生、望月》)、第十八戦隊(司令官丸茂邦則少将:天龍、龍田)、輸送船2隻(金剛丸、金龍丸)等である[18]。
12月11日午前3時、ウェーク島守備隊は南の水平線上に船影を発見、指揮官ウィンフィールド・カニンガム(英語版)中佐、ジェームズ・デベル(英語版)海兵隊少佐は船影を日本艦隊と判断する[19]。巡洋艦にアウトレンジ砲撃されることをおそれた2人は、日本艦隊が十分接近するまで砲撃を控えるよう命令した[19]。攻略部隊は自分達が待ち伏せされている事に全く気付いていなかった[20][21]。
12月10日夜半にウェーク島へ到着した攻略部隊は上陸舟艇をおろそうとしたものの、外洋の強風と波浪により失敗した。梶尾攻略部隊指揮官は各艦に対地砲撃と揚陸準備を指示、「疾風、如月」はウェーク島南部の砲撃を命じられる[22]。
12月11日、戦闘は軽巡3隻(夕張、天龍、龍田)の艦砲射撃ではじまった[23]。約1時間の砲撃ののち、日本軍輸送船団は上陸部隊の展開をはじめる[20]。現地時間午前6時15分(日本時間と約2時間違う)、ウェーク島南東ピーコック岬のA砲台は距離5100mで「夕張」に発砲[20]。同艦は4時12分に煙幕を展開して退避、同時に退却命令を出す[24]。ビール島のB砲台は「睦月、弥生」と交戦し、2隻を撃退した[25]。ウェーク島西側のウィルクス島に秘匿されていたL砲台は「天龍、龍田」の砲撃に耐え、距離6300で単縦陣の駆逐艦3隻に発砲する[20][26]。直撃を受けた「疾風」は轟沈、さらにF4F戦闘機が空襲を開始した[27]。
米軍の予期せぬ反撃と「疾風」の轟沈により、攻略部隊の駆逐隊は大混乱に陥った[28]。
日本艦隊はクェゼリンへの退却を開始したが、100ポンド(約45kg)爆弾2発を搭載したF4Fワイルドキャット戦闘機4機(第211海兵戦闘飛行隊 ポール・A・パットナム少佐)の追撃と反復攻撃を受ける[29]。パットナム少佐は日本軍機がいないことを確認すると、部下機に「降りていって、パーティの仲間入りをしようじゃないか」と呼びかけた[29]。
米軍機は魚雷や爆雷の誘爆を狙っていたとみられ[30]、燃料弾薬補給をくりかえして合計9回の出撃をおこなった[29]。まず比較的大型の軽巡3隻(夕張、天龍、龍田)が爆撃と機銃掃射を受ける。4時43分、F4Fは「夕張」に爆撃を行ったが失敗した[31]。18戦隊(天龍、龍田)は5時10分〜5時30分の間に数回の空襲を受け、至近弾と機銃掃射で死傷者数名を出した[32][33][34]。
5時37分、「如月」はウェーク島ピーコック岬の南でF4Fワイルドキャットの機銃掃射(AN/M2 12.7mm機銃)を受け、投下された100ポンド爆弾1発が命中[35]。魚雷(資料によっては爆雷)が誘爆、艦橋と二番煙突の半分とマストを吹き飛ばし、しばらくすると艦は二つ折れになって[36]、5時42分に爆沈した[37]。「天龍」主計長によれば、艦橋が吹き飛んだ「如月」はしばらく異様な姿で航行したあと、姿が見えなくなったという[38]。同様の光景は「追風」(如月より左舷前方約2000m)からも目撃された[36]。
同時刻には「弥生、睦月」も爆撃され[39]、ほかに「追風、金剛丸、哨戒艇33号」も機銃掃射や命中弾で損傷を受けた[40][41]。
米軍の戦死者1名、負傷者4名、被弾したF4Fワイルドキャット1機が不時着修理不能(搭乗員無事)[29]。巡洋艦1隻・駆逐艦1隻を撃沈と認識[42]。これに対し、日本軍は「如月」「疾風」とも生存者はいなかった[43][41]、又は「疾風」乗組員1名と「如月」乗組員3名が救助されたという[44]。
12月18日、第四艦隊は各艦に魚雷・爆雷誘爆対策として、釣床を巻き付けて応急対策をするよう通達する[45]。ウェーク島攻略戦は航空機の威力と、その協力が作戦に不可欠であることを明らかにした[46]。
1942年(昭和17年)1月15日、駆逐艦「如月」は
睦月型駆逐艦[47]、
第30駆逐隊[48]、
帝国駆逐艦籍[49]
のそれぞれから除籍された。
※『艦長たちの軍艦史』250頁による。
艤装員長
- 松田鹿三 中佐:1925年9月18日 - 1925年11月12日[50]
艦長
- 松田鹿三 中佐:1925年11月12日[50] - 1926年12月1日
- 有馬直 中佐:1926年12月1日 - 1927年12月1日
- 加藤仁太郎 中佐:1927年12月1日 - 1928年12月10日
- (兼)金桝義夫 少佐:1928年12月10日 - 1929年4月23日[51] (本職:睦月駆逐艦長)
- (兼)小野寺丑蔵 少佐:1929年4月23日[51] - 1929年11月1日[52] (本職:睦月駆逐艦長)
- 松永貞市 少佐:1929年11月1日 - 1930年12月1日
- 井原美岐雄 少佐:1930年12月1日 - 1932年2月21日[53]
- 阪匡身 少佐:1932年2月21日[53] - 1934年11月15日[54]
- 前川新一郎 少佐:1934年11月15日[54] - 1935年10月31日[55]
- 白濱政七 少佐:1935年10月31日 - 1936年12月1日
- 山下鎭雄 少佐:1936年12月1日 - 1937年12月1日[56]
- 小倉正身 少佐:1937年12月1日 - 1938年12月15日[57]
- 太田良直治 少佐:1938年12月15日 - 1939年11月1日[58]
- 前川二三郎 少佐:1939年11月1日 - 1940年11月15日[59]
- 山上亀三雄 少佐:1940年11月15日 - 1941年10月1日[60]
- 小川陽一郎 大尉/少佐:1941年10月1日 - 1941年12月11日 戦死、同日付任海軍中佐[61]
#達昭和3年6月pp.7-8『達第八十號 驅逐艦及掃海艇中左ノ通改名ス 本達ハ昭和三年八月一日ヨリ之ヲ施行ス|昭和三年六月二十日 海軍大臣岡田啓介|(略)第二十一號驅逐艦 ヲ 驅逐艦 如月(キサラキ)トス』
#達大正12年7月p.7『達第百六十二號 艦艇製造費ヲ以テ大正十二年度ニ於テ建造ニ着手スヘキ一等驅逐艦五隻ニ左ノ通命名ス|大正十二年七月十九日 海軍大臣財部彪|佐世保海軍工廠ニ於テ建造 第十九驅逐艦|舞鶴要港部工作部ニ於テ建造 第二十一驅逐艦|浦賀造船所ニ於テ建造 第二十三驅逐艦|石川島造船所ニ於テ建造 第二十五驅逐艦|藤永田造船所ニ於テ建造 第二十七驅逐艦』
#達大正12年7月p.7『達第百六十三號 艦艇類別等級表中驅逐隊ノ欄第十七ノ下ニ「第十九、第二十一、第二十三、第二十五、第二十七」ヲ加フ|大正十二年七月十九日 海軍大臣財部彪』
#達大正13年4月p.17『達第四十九號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 驅逐艦及掃海艇ノ欄中「第一、第二」等トアルヲ「第一號、第二號」等ニ改ム/備考第二號中「第一驅逐艦」「第二驅逐艦」ヲ「第一號驅逐艦」「第二號驅逐艦」ニ改ム/同三號中「第一掃海艇」「第二掃海艇」ヲ「第一號掃海艇」「第二號掃海艇」ニ改ム 大正十三年四月二十四日 海軍大臣 村上格一』
#達大正13年4月p.17『達第五十號 今般艦艇類別等級改正ノ結果海軍諸令達中「第一驅逐艦、第二驅逐艦」等トアルハ「第一號驅逐艦、第二號驅逐艦」等ニ、「第一掃海艇、第二掃海艇」等トアルハ「第一號掃海艇、第二號掃海艇」等ト改マリタル儀ト心得ヘシ 大正十三年四月二十四日 海軍大臣 村上格一』
#S1612六水戦日誌(1)p.5『第一次「ウェーキ」攻略作戦ニ従事ス同作戦ハ11日未明「ウェーキ」上陸結構ヲ企図セル處天候不良ノ為上陸スル能ハズ再挙ヲ期シ一先ヅ「クエゼリン」(ルオット)ニ引返セリ本作戦ニ於テ疾風及如月ハ敵爆弾又ハ砲弾ニ依リ爆沈シ追風弥生ハ敵戦斗機ノ銃撃ニ依リ若干ノ損害ヲ蒙リタリ』
#S1612六水戦日誌(1)p.3『(四)上陸前日迄ノ航空戦隊ノ総合情報左ノ如シ (1)戦闘機尚1、2機程度残存ス (2)陸上防空砲火ハ熾烈ナルモ「ピーコック」岬「ウイルクス」島砲台ハ概ネ壊滅セリ』
#S1612六水戦日誌(2)p.22『0215(宛略)天明時ヨリ左ノ区分ニ依リ砲台及陸上飛行場ヲ砲撃々破スベシ夕張ウェーキ本島疾風如月ウェーキ本島南部望月弥生ウィルクス島金竜丸金剛丸32號33號哨戒艇ハ島ヨリノ視界限度ニ居レ追風睦月ハ揚陸準備ヲナシヲケ』
#S1612六水戦日誌(2)p.25『0403|疾風ニ敵弾(爆弾?)命中瞬時ニシテ爆沈ス(疾風自沈時対勢別図参照)敵戦斗機味方艦艇ニ対シ爆撃及機銃掃射ヲナス』
#S1612十八戦隊日誌(2)p.10『(チ)概ネ九粁内外ノ巨離ヨリ0410陸上要点ニ砲撃下令西航中0410陸上要点ニ砲撃下令西航中駆逐隊ノ混乱セルヲ認メ反転砲撃ヲ続行セシモ攻略部隊ガ陸戦隊ヲ揚陸セシヤ否ヤ不明ニシテ大ナル不安アリシヲ以テ夕張ニ対シ「陸戦隊揚陸センヤ」ト照会センモ応答ナク、夕張ヨリ避退セヨトノ令ヲ傍受シ且ツ至近ニ敵弾着スルニ至リタルヲ以テ0425砲撃ヲ止メ南方ニ変針セリ』
#S1612十八戦隊日誌(1)p.57『三.各艦艇ニ対シ防空機銃ヲ増備スルト共ニ極力味方航空機ノ協力ヲ策シ且ツ誘爆防止上充分ノ處置ヲ要ス 第一次攻略戦ニ於ケル敵戦斗機ノ行動ハ其ノ爆撃ニ依リ我ガ艦艇ノ魚雷及爆雷等ノ誘爆ヲ企図シアリト認ム』
#S1612十八戦隊日誌(1)pp.14-15『18S機密六番電 十八戦隊戦斗概報第一號十二月十一日 (一)攻略部隊ニ策応シ天明時「ウ」本島制圧射撃/(二)敵約五機ノ反覆爆撃掃射ニ依リ天竜重傷兵1軽傷下士官兵4、魚雷使用不能三、竜田戦死者1、重傷下士官兵4、軽傷士官2、下士官兵3名、受信機破壊1/(三)攻略部隊ト概ネ行動ヲ共ニス』
#S1612十八戦隊日誌(2)pp.10-11『(リ)0459敵戦斗機ノ飛来ヲ認メ開距離八百米トナシ機宜増速敵機ヲ攻撃シツヽ回避運動中0510及0524天竜ニ対シ0520竜田ニ対シ敵機ノ掃射及爆撃アリ』
#S1612六水戦日誌(2)p.26『0537|如月爆撃セラレ煤煙覆ヒ艦橋吹飛サル|0542|如月爆沈ス』-p.46『(イ)疾風及如月爆沈 疾風0430敵砲弾又ハ爆弾ニ依リ誘爆々沈 如月0537 0542爆弾ニ依リ誘爆々沈』
#S1612六水戦日誌(2)p.33『1640睦月|戦斗概要 一.敵ニ対シ各艦銃砲撃ヲ加ヘタルモ効果不明/二.敵機銃爆撃ヲウケタル回数 睦月1回弥生2回望月ナシ32号33号哨戒艇各2回/三.彼我状況睦月望月32号哨戒艇ナシ 弥生戦死1重傷7軽傷14 33号哨戒艇戦死2重傷3軽傷7/四.特陸ハ全部収容セシモ大発2隻ハ放棄セリ』
#高松宮日記3巻343頁『○十二日夜、桑港放送「ウェーキ」ニテ巡洋艦一隻、駆逐艦一隻ヲ撃沈。「ウ」ハ未ダ占領サレズ。』
#S1612六水戦日誌(2)pp.34-35『2000|6sd司令官(宛略)「ウ」攻略部隊戦斗概報其ノ二 11日0400頃ヨリ1000ニ至ル敵機トノ交戦ニ於ケル我方ノ被害 一.人員 疾風如月生存者無シ 戦死弥生1 三三号哨戒艇2 金剛丸3計6 重傷追風弥生各7三三号哨戒艇3金剛丸5計22 軽傷追風7弥生14三三号哨戒艇7金剛丸14一七空1計43 行方不明金剛丸大発艇員2 二.船体兵器機関 金剛丸五番船倉「ガソリン」機銃弾ニ依リ引火扉蓋及閉消火中一七空零式水偵1機(金剛丸搭載中)数ヶ所ニ被弾破損其ノ他大ナル被害ナシ』
#高松宮日記3巻351頁『○第四艦隊長官 一四-二三三〇(中略)四、「疾風」機関兵一、「如月」水兵一、機関兵二救助サル。』
#S1612十八戦隊日誌(1)pp.22-23『18日0830 サチ/4F(宛略)4F機密第646番電 爆撃及機銃掃射ノ為爆発誘爆沈没セルモノ数件アリシニ鑑ミ九七式炸薬爆雷及魚雷頭部搭載艦ハ釣床等ニテ応急防御等ヲ行ハレタシ』
#S1612十八戦隊日誌(1)p.54『二.島嶼攻略戦ニ於テモ上陸戦斗ニ航空機ノ協力ハ絶対緊要ナリ』-p.55『三.艦艇ノ防空及對潜防禦上航空機ノ協力ハ絶対緊要ナリ』
#内令昭和17年3月(2)p.2『内令第五十號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十七年一月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|驅逐艦一等ノ部中神風型ノ項中「疾風、」ヲ、睦月型ノ項中「如月、」ヲ、吹雪型ノ項中「東雲、」「狭霧、」ヲ削ル|潜水艦二等ノ部中「呂六十型」ヲ「呂六十一型」ニ改メ、同項中「呂號第六十、」「呂號第六十六、」ヲ削ル|掃海艇ノ部中第一號型ノ項中「、第六號」ヲ、第七號型ノ項中「第十號、」ヲ削ル』
#内令昭和17年3月(2)pp.15-19『内令第七十號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十七年一月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第十二驅逐隊ノ項中「東雲、」ヲ削ル|第二十驅逐隊ノ項中「、狭霧」ヲ削ル|第二十九驅逐隊ノ項中「疾風、」ヲ削ル|第三十驅逐隊ノ項中「如月、」ヲ削ル』
#内令昭和17年3月(2)pp.21-22『内令第七十九號|呉鎮守府在籍 驅逐艦 東雲 驅逐艦 狭霧|佐世保鎮守府在籍 驅逐艦 疾風 驅逐艦 如月|右帝國驅逐艦籍ヨリ除カル|佐世保鎮守府在籍 呂號第六十潜水艦 呂號第六十一潜水艦|右帝國潜水艦籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 第六號掃海艇|佐世保鎮守府在籍 第十號掃海艇|右帝國掃海艇籍ヨリ除カル|昭和十七年一月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎』
昭和7年2月23日付 官報第1542号。国立国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子 info:ndljp/pid/2958012 で閲覧可能。
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
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- 岡村治信「第一章 かがやく珊瑚礁」『青春の棺 生と死の航跡』光人社、1979年12月。(岡村は第29駆逐隊主計科士官。「追風」に乗艦してウェーク島攻略戦に参加。)
- 海軍歴史保存会『日本海軍史 第7巻』(第一法規出版、1995年)
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- 高松宮宣仁親王、嶋中鵬二発行人『高松宮日記 第三巻 昭和十五年五月一日〜昭和十六年十二月三十一日』中央公論社、1995年11月。ISBN 4-12-403393-1。
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。
- イアン・トール著、村上和久「第四章 ニミッツ着任」『太平洋の試練 真珠湾からミッドウェイまで』文藝春秋、2013年6月。ISBN 978-4-16-376420-7。
- 日本造船学会『昭和造船史 第1巻』(原書房、1981年、第3刷)ISBN 4-562-00302-2
- 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第10巻 駆逐艦I』(光人社、1990年) ISBN 4-7698-0460-1