大給近孝
日本の子爵(明治 - 昭和)、旧府内藩(大分県)第16代当主、弘道館幹事、国会議員。 ウィキペディアから
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日本の子爵(明治 - 昭和)、旧府内藩(大分県)第16代当主、弘道館幹事、国会議員。 ウィキペディアから
大給 近孝(おぎゅう ちかたか、1879年(明治12年)7月3日[2][注釈 1] - 1958年(昭和33年)3月25日[2][4])は、明治から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。
子爵・大給近道[注釈 2]の長男として生まれた[2][6]。父の死去に伴い、1902年(明治35年)11月22日、子爵を襲爵した[2][7]。近孝は学習院初等科・中学科を卒業後、とくに職には就かず、日本弘道会評議員[8]、子爵会幹事などを務めた[9]。学習院では大正天皇の学友であり[10][9]、1908年(明治41年)の九州視察に際し旧藩主として大分県で出迎えている[10]。1915年(大正4年)、皇子浴場之儀鳴弦控となる[4]。同年12月25日付[11]で貴族院子爵議員補欠選挙に当選すると吉田清風の次席に序され、第3部研究会所属[12]として活動し1925年(大正14年)7月9日まで2期在任した[4]。
酒井忠篤の娘・米子(1885年[6] - 1974年)と結婚して[13]三女をもうけ[9]、長女・カ都子の夫・大給近憲(上杉茂憲の子・正金銀行香港支店副支配人[6])を養嗣子とし、二女・幸子は五代友厚の孫・土居保太郎に、三女千賀子は岡村武に、それぞれ嫁がせた[6]。近道の二男・大給近清[疑問点]は洋画を研究して黒田清輝の娘と結婚し南青山[10]に分家[6]したが夭折した[9]。近孝の娘婿・大給近憲の没後はその長男(当人の孫)・近達(1930年 - 2013年、文化人類学者・国立民族学博物館名誉教授・淑徳学園元理事長)が大給家を継いだ[14]。
明治初期に父・大給近道が屋敷を構えた旧東京市本郷区駒込千駄木坂下町(現・千駄木3丁目)には「大給坂」と名付けられた坂が遺る[14]。また、地元青年団のために大給近孝が寄付して1926年(大正末年)に建てられた文武道場「芳林閣」が現存する[17]。
千駄木林町(現・千駄木3-12)にあった近孝邸は、鈴木三樹之助に売却されたのちに大平正芳邸を経て文京区千駄木第2児童遊園となり、近孝が遺してほしいと希望したいちょうの大木が立つ[14][18]。 墓所は代々の菩提寺である小石川の見樹院。
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