Loading AI tools
日本の反核運動家 (1934-2021)。マグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員 ウィキペディアから
静岡県榛原郡吉田村(現吉田町)生まれ[2]。1948年、吉田村立南中学校を2年で中退し、漁師となった[2]。第五福竜丸の甲板員・冷凍士として出航中の1954年3月1日、マーシャル諸島ビキニ環礁での核実験(ブラボー実験)で放射性降下物(いわゆる死の灰)を浴び被爆した(ビキニ事件)[3][4]。脱毛や水疱などの症状が出て、1年2か月間入院生活を送った[4]。被爆者への無理解や偏見に耐えきれず、1955年に東京都内に移住、2010年末までクリーニング店を営んだ[5]。
差別や偏見が家族に及ぶことを恐れ、被爆について長年沈黙を貫いていたが、仲間の乗組員らががんなどで相次いで死去する中、1983年都内の中学生にビキニ事件について初めて話した[5]。これ以降、被爆体験を語り、核廃絶を訴える活動をすすめた。2002年、マーシャル諸島を訪問し、第五福竜丸乗組員の現況を語った[2]。2010年5月、ニューヨークの国際連合本部ビルで開かれた2010年核拡散防止条約再検討会議に参加し核廃絶を訴えた[2][6]。築地にマグロ塚を作る会主宰、財団法人第五福竜丸平和協会評議員[3]。
放射線や内部被曝の危険性を訴え続け、「ビキニ事件と福島第一原子力発電所事故は、内部被曝を引き起こすという意味で本質的には全く同じ」と述べた[5]。また、ビキニ事件と日本の原子力発電導入の関係や、ビキニ事件被爆補償の問題点について発言した[7]。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.