大久保利世
江戸時代後期の薩摩藩士 ウィキペディアから
江戸時代後期の薩摩藩士 ウィキペディアから
大久保利敬の三男として薩摩国鹿児島城下高麗町(現在の鹿児島県鹿児島市高麗町)で生まれる。文政4年(1821年)、兄の大久保利建の養子として家督を継ぐ。
文政10年(1827年)5月、沖永良部島代官付役を務め、沖永良部島に赴任。同12年(1829年)4月17日、任期満了につき帰鹿。天保8年(1837年)4月26日、再び沖永良部代官付役を務め、沖永良部島に来島。天保13年(1842年)、この年までは高麗町に住んでいたことが、『鹿児島城下絵図散歩』で判る。後に琉球館付役に就任したので、琉球館内の屋敷に引っ越す。この頃、幼い長男の利通のみを下加治屋町の義姉(亡兄・利建の妻)のところに預けている。唯一の男子であり、女ばかりの家庭では郷中教育も困難と判断したのではないかと見られる。
嘉永2年(1849年)、当時琉球館附役を務めていたがお由羅騒動(高崎崩れ)に連座し翌年喜界島に流された。なお、20歳の利通も失職となる。収入を絶たれた大久保家は貧窮のどん底に陥り、残された家族は親類や近隣から借金をしてしのぐ事になる。利世は5年もの間島流しの身となり、安政元年(1854年)7月罪を許され、翌年(1855年)2月に鹿児島に戻った時には髪は真っ白になり、身体も老いしぼんで埠頭に迎えに来た利通ら家族が絶句するほどであった。
文久3年(1863年)、70歳で没した。
『鹿児島城下絵図散歩』では、天保13年の大久保次右衛門の宅地が、現在の鹿児島市高麗町7番地東(一部道路になっている。、番地は平成15年現在)にあり、広さは150坪。なお、同年の加治屋町の西郷竜右衛門(西郷隆盛の祖父、西郷隆充)宅地は259坪、東郷吉左衛門(東郷平八郎の父、東郷実友)宅地は267坪。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.